71話目 救いの手、そして仰望③
* * *
雨足がかき消した言葉――。
「それでは、ご機嫌よう。見藤さん」
別れの言葉に添えられた名。これまで芦屋が見藤の名を口にすることはなかった。それは作為的な行動。
芦屋は借り受けた傘をさして、雨の中を行く。涼雨だったはずのものは、いつの間にか甚雨となり、傘を激しく打つ。悪天候にも関わらず、足取りは軽い。
しばらくして、芦屋は喫茶店の前で足を止める。
店の扉を開くと、鼻腔を掠めるコーヒーの香り。芦屋は店員に案内され、席に着いた。
すると、まるで見計らったかのように同席したのは――、妙齢の女性だった。
芦屋は気にする素振りもなく、メニュー表を開いた。すると、唐突に彼女は口を開く。
「進捗は如何でしょうか?」
「ええ、とても有意義でしたよ」
「…………」
「まぁ、そう睨まないで下さい。見藤家のご令嬢」
冗談めかした物言いを咎めるかのような鋭い視線。それに動じることもなく、芦屋は店員に注文を言いつける。――険悪な空気を察したのか、店員は逃げるようにその場を後にした。
同席したのは先の会合において、見藤家当主の付き人を務めた娘だ。答えを急かすような視線。
それは会合において提示された、見藤家当主からの取引内容の結果を急くものだ。――『大御神の落とし物』を宿した見藤家の人間を探し出す。その答えだ。
芦屋は呆れたように溜め息をつき、口を開く。
「少なくとも、彼で間違いないでしょう。怪奇な依頼を請け負う、世にも不思議な事務所の主」
「その事務所への主が――、見藤家を去った『大御神の落とし物』を宿す、その人であると?」
「いいえ。彼はもう、そうではないのです。瞳の色が違っていましたから。それこそ、何かしらの呪いを用いて『大御神の落とし物』を消し去ってしまった、なんてことも――」
「それは不可能です」
彼女は即座に否定した。それはまるで、何かに縋るようで――。
芦屋は滑稽と言わんばかりに、笑みを浮かべる。
「見藤家が『大御神の落とし物』に固執し、何を成そうとしているのか。私には分かりかねますが――」
そこで言葉を切った。ひとつ息を吸い、僅かに心情を吐露する。
「ひとつ言える事は、彼には彼の人生があるということです。家柄、役目などに縛られることもなく……」
「芦屋家当主ともあろう人が、それを言うのですか?」
「えぇ。お陰様で、今は好き勝手やっていますからね」
芦屋の言葉に、彼女はこれでもかと眉を寄せた。嫌悪感を隠そうともせず、年不相応な表情を浮かべている。それに対して、芦屋は我関せずと言った態度を貫く。
丁度その時、注文していたコーヒーが提供される。芦屋は店員に軽く礼を伝えると、再び口を開く。
「まぁ、ですが……。人生はあくまでも、人と生るものです。それには――」
窓の外は甚雨、そこで迅雷が芦屋の言葉を遮った。
「怪異は必要ない」
怒気を含んだ声音がその場を支配する。芦屋の殺気にあてられたのか、彼女は顔を青くしていた。それに気付いた芦屋は肩の力を抜くように、語気を弱める。
「おっと、すみません……。彼を隠しているのは、事務所に飾られた神棚の祀られた怪異で間違いないでしょう。『怪異憑き』となった経緯、それを祀った経緯は不明です。が、その存在がいる以上、見藤本家から彼に接触できない」
芦屋の言葉に彼女は首を傾げた。『怪異憑き』という言葉に引っ掛かったのだろう。それは会合において話題に上がった、小野家の付き人を指す言葉だと、思い至ったようだ。
彼女ははっと、目を見開き、芦屋を睨み付ける。
「芦屋家のご当主。もしや貴殿は会合の時、既に答えをご存知だったのではないですか? 小野家ご当主の付き人が――、見藤家の尋ね人だと」
「おっと、それは心外です」
追及するような彼女の物言い。だが、芦屋はそれに臆することなく、言葉を続けた。
「さながら迷子ですよ、迷子。どれだけ見つけようとしても、霧に隠されたように彷徨う。隠匿に長けた、芦屋家がですよ?」
「成る程……」
「彼に憑いた怪異の許しを得たのか。はたまた、不思議な縁を辿ったのか……。分かりかねますが、結果として私は辿り着いた」
芦屋はひと口、コーヒーを飲む。そこでふと、道中で出会った学生二人組のことが脳裏をよぎる。しかし、頭の片隅へとその記憶を追いやった。
「その怪異をどうにか引き離すことが出来れば、所在は示されるでしょう。それとも――、件の怪異を囲って封印してしまうのか。お任せしますよ」
芦屋の言葉に、彼女は考える仕草をした。
「賀茂派閥から抜けた代償を払うには、もうひと押し必要かと。現状、見藤家に力添えをすることがその代償であると、賀茂家当主は仰せですので」
「そうですねぇ……、やってみましょう。不思議なことに、貴女と私の利害は一致している。ですが、私が手を貸すのはそこまでです。知られでもしたら――、報復が恐ろしいですからね」
芦屋は思い返す。
十年前に自身へ差し伸べられた救いと、斑鳩への救いの手。それは紙一重だ。彼の特異な呪い、矛先がこちらに向けば成す術はないだろう。だからこそ彼の警戒心を解き、懐に入り込めるよう立ち振る舞った。
だが、それ以上に芦屋が抱く、怪異に対して排他的な思考、仰望する存在への想い。
(私は彼に救われた。今度は私が救って差し上げなければ……。怪異は人を惑わし、人に非ず。怪異に心を許すと辿る末路。そこから救わねば――)
芦屋は凍てついた瞳に、燻る火種を宿した。
結局、信仰という根付いた本質は変えられない芦屋でした。




