71話目 救いの手、そして仰望
見藤が芦屋からの依頼を終えて、しばらくした後。季節の移ろいを感じる頃――。
溽暑に見舞われ、事務所は鬱々とした雰囲気に包まれていた。
見藤が頭を悩ませていたのは、それだけではない。見藤は目の前に悠然と座る、芦屋へ視線を向けた。
(まさか、芦屋家当主の再訪とは――)
心の内を悟られないように、見藤は浅く息を吐く。
芦屋は出された茶を一口飲むと、美麗な顔に笑みを浮かべた。
「ようやく、斑鳩家ご当主とキヨさんへの報告もひと段落つきまして。こうして再び、お邪魔させて頂けるとは嬉しいです」
「はぁ……、それはどうも」
「大河君の予後も順調ですし」
芦屋の口から出た斑鳩の名に、見藤は少し眉を動かした。思い返すのは、先の怪異対策における大規模作戦のこと。
富山麓に出現した新たな『神異』により、斑鳩部隊は総崩れの末に遭難。斑鳩は低体温症を患い、しばらくの間、療養となったはずだ。
それから、見藤は斑鳩と簡単な連絡を取っていたものの。斑鳩の矜持を慮り、負傷に言及することはなかった。思わずして、知れた友の容体。見藤は安堵し、少しだけ方の肩の力を抜いた。
すると、突然。芦屋は大きく声を上げる。
「あぁ! そうでした、此度の依頼のお礼を――」
芦屋から差し出されたのは封筒。ローテーブルに置かれた封筒は見るからに分厚い。封筒の中身は想像がつくだろう。思わず、見藤はたじろいでしまう。
芦屋の依頼は完遂された。報酬は当然の対価だ。しかし、見藤は一呼吸置くと意を決して口を開く。
「ご当主。申し訳ないのですが、こちらを受け取るつもりは、ありません」
「それは――」
芦屋が息を呑む音が聞こえる。その次に、彼は驚愕した表情を真剣なものへと変えた。
「理由をお聞きしても……?」
「それは――、できかねます」
「そう、ですか……。では、代わりの物を……」
見藤の答えに芦屋は落ち込んだ様子を見せる。しかし、封筒は手元に下げられることはなく置かれたままだ。見藤はそっと封筒を芦屋の元へやる。
芦屋からの申し出は願ってもみないことだ。目を伏せながら、次の言葉を考えるが――。
(ここで交渉するしか……、ないよな)
芦屋からの依頼を受けたのは決して、義侠心からではない。見藤には「芦屋家に御恩を売る」という打算的な目的があった。怒れる牛鬼の依頼を完遂するための手段にすぎない。
見藤は意を決して、重い口を開いた――。
「此度の依頼の報酬として、芦屋家が所有する『枯れない牛鬼の手』を、譲り受けたい所存です」
いつになく丁寧な口調で、堅固に言葉を紡ぐ。紫黒色の瞳が芦屋を見据えた。
(駄目だったら――、次の一手を考える。何としても……)
見藤の脳裏を巡る、失策という結末。無意識に唇を噛み締めていたのだろう、口の中に血の味が僅かに広がった。組んでいた手には力が入る。
しかし、その次には紫黒色の瞳が鋭く芦屋を捉えた。不退転の覚悟を宿した瞳は揺らぐことはない。
しばしの時間、沈黙がその場を支配する。沈黙を破ったのは――、窓を叩く雨音だった。
二人がはたと外を見やれば、降り注ぐ涼雨。雨音と共に、重苦しい空気が洗い流されるかのようで――。
しばらく、芦屋は見藤を見据えていた。白緑色の瞳が逸れることはない。そうして、彼は目元を緩めると、そっと口を開く。
「分かりました」
「えっ――」
見藤は驚きの声を上げた。途端、聞き間違いではないかと、眉を寄せる。
しかし、芦屋は平然とした様子で、見藤を見やる。
「どうされたのです?」
「あ、いえ……」
「ふふっ。意外とすんなりと承諾したと、お思いでしょうか?」
――図星だ。
見藤は胸中を読まれたことが気恥ずかしくなり、視線を逸らす。組んでいた手を解き、頬を掻いた。
芦屋はもったいぶった様子で言葉を続ける。
「まぁ、芦屋家に代々伝わる呪物ですからね。そう易々と他家の手に渡すような物でもありません」
「でしたら、何故……」
「何故って……、他でもない貴方が所望するのです。私としてはそれだけで、お譲りする意義があります」
疑問を口にした見藤に対して、芦屋は悪戯に首を傾げて見せた。
(どういうことだ……? どうして、俺にそこまで肩入れする?)
疑問は尽きない。――ただ、打算的に依頼を受け、遂行した。それだけのはずだと、見藤はこれまでの出来事を思い返す。
思考の渦から見藤を引き上げたのは、芦屋の上品な笑い声だった。
「ふふっ、腑に落ちないという顔をされていますね」
「そ、れは――」
口ごもる見藤とは対照的に、芦屋は流暢に言葉を続ける。何かを思い出すかのように、懐かしみながら。
「少し、お話を聞いて下さいますか?」
「え、えぇ……」
芦屋からの提案に、見藤は頷く他なかった。
「貴方のお陰で、私は芦屋家当主の座を手に入れたのです」
「はい?」
芦屋の言葉に、見藤は素っ頓狂な声を上げてしまった。
先の呪い師が集った会合以外で彼と接点を持っていたとは夢にも思わず。しかし、いくら記憶を辿っても思い当たることはなかった。
見藤は首を捻り、険しい表情を浮かべる。
すると、芦屋はそんな見藤の様子にふと笑みを溢して、口を開く。
「覚えていませんか? 十年程前ですので、無理もないですが……。えぇと、宗教にのめり込んで病を体に落とした人です。……まぁ、あの頃はそのような人。山のようにいましたけれど」
芦屋は当時の信者と思しき人を気に掛ける素振りも見せず、淡々と語る。ふとした瞬間に見藤が垣間見た、彼の冷徹な一面だった。
覚えがないかと問われれば、見藤の中に答えはあった。はたと、思い当たることがあり、目を見開く。
昔、執拗に事務所を訪ねてきた初老夫婦がいた。宗教にのめり込む家族を救いたいと、何度も頭を下げてきたのだ。
見藤からすれば、面倒事に他ならなかった。呪いと宗教は呪いと治癒の相関関係だと、見抜くのは容易だったからだ。しかし、霧子の鶴の一声によって、見藤はその人にかけられた呪詛を取り払った。
それが呪い返しとして、術者へと跳ね返されただけだ。何も直接、見藤が手を下した訳ではないが――。それを何故、芦屋が知っているのか、分からない。
沈黙を貫く見藤に、芦屋はまたも笑みを溢した。そうして、嬉々として語る。
「呪い返しによって、当時の宗教幹部は悉く全滅です。宗教団体は解体、その後小さな団体が細々と活動を続けています」
芦屋の言葉から、当時の状況はおおよその想像がつく。――呪い返しを受ければ、呪詛が己の身に跳ね返る。相手に掛けた呪詛が強ければ強い程、跳ね返って来る不幸は大きなものとなる。
見藤は「自業自得だ」と言わんばかりに鼻を鳴らした。どうやら、芦屋も同じ考えだったようで、平然として語る。
「面白いですよね? たった一人の呪い師に返された術で……名家とまで言われた芦屋家の主幹が機能しなくなったのですから」
芦屋は嗤う。彼の表情や言葉の端々から伝わってくることがある。それはどこか、見藤に既視感や共感を呼び起こす。しかし、思わぬ言葉に今度は警戒心を抱く。
(まさか、その幹部とやらが先代芦屋家当主……。相談役達だとは――。これは糾弾されているのか?)
過去、自身が関わった依頼。それがよもや芦屋家の当主交代に一枚噛んでいたとは夢にも思わず。見藤は胃痛に顔を顰めた。
2章で記者、檜山が掴んだ情報の新興宗教団体のお話でした。




