64話目 課題と過大②
微動だにしない見藤を目にした霧子。彼女は見藤がこの状況を打開する算段がついていないことを察すると、口の怪異と対峙する。
口の怪異から、更に生えた腕はまたもや見藤を追う。それを目にした霧子は怒りの余り目を見開き、口の怪異に掴みかかる。だが――。
霧子はその動きを止めた。――正確には、止めざるを得なかった。気が付けば、霧子の周囲は腐臭と、澱みに覆われていたのだ。――ふらつく、霧子の亭々たる長身。そして、次第に怒りは動揺に変わった。
「……っ」
「霧子さん……?」
見藤は霧子の名を呼ぶ。だが、霧子がそれに応えることはなかった。それどころか、次第に取り乱していく――。
「いや、よ! もう、あんな思いはしたくないの……! 人を喰らったのは、……違うわ!! 閉じ込めないでっ!! いや……」
澱みにあてられた霧子は支離滅裂な言葉を発している。口の怪異によって、まき散らされた澱み。それは錯乱させるためか、それとも――。
見藤は初めて目にする霧子の反応に一瞬、気を取られた。しかし、その次には声を荒げ、叫ぶ。
「霧子さん!! 『社へお還り下さい!』」
見藤の口から、霧子を逃がすように放たれた言葉。それは言霊。見藤の言葉に、我に返った霧子は苦渋の表情を浮かべながら、その姿を霧に変え――、忽然と消えた。
その場に残った見藤。――偶発的に怪異と遭遇することには慣れている、それが『神異』の可能性があろうと同じこと。そう不敵に笑うとスーツの袖を捲り上げた。
「いつもなら――、殴れば、こと足りるだろっ……!?」
語気を強め、頬の出血を親指で拭う。すかさず、空いた手の平に簡易的な紋様を描く。
見藤が対峙する口の怪異。余裕綽々と言わんばかりに、口と口が会話をしている。要は、霧子が姿を消したことを好機とみたようだ。だが、そう易々とやられる見藤ではない。
「ほぉ、えらく余裕だな!?」
霧子を害され、見藤は怒りを孕んだ声を上げる。呪いを施した手を――、叩いた。乾いた音が裏路地に響く。それは音叉のように壁と壁に反響し、徐々に大きな空気のうねりとなる。
空気の大きな波となったそれは――、口の怪異を押し流す。口の怪異は流されまいと、腕を生やし、抵抗するが自然の力を味方につける呪いには敵わないようだ。空気の波が裏路地を巡りきったとき、容赦ない勢いで壁にその肉体を打ち付けた。
見藤は口の怪異の動向を注視する。この場で次に打てる手は――、ない。冷や汗が見藤の額に浮かぶ。
空気の波の衝撃が収まると、口の怪異はゆっくりとその肉体を起こした。どうやら、怪異を退ける決定打には持ち込めなかったようだ。
危機的状況に、見藤は唇を噛み締める。だが、次に口の怪異が発した言葉は意外なものだった――。
『帰ル、コイツ違ウ』
『イヤ、コイツデ、合ッテイル。分ガ悪イ』
『出直シダ』
そう言葉を残し、口の怪異は暗闇に消えた。気付けば、周囲は夕闇から移り変わり、完全に夜の帳を降ろしていたのだ。
――見藤の耳にへばりついた言葉はまるで呪詛のようだった。しかし、今は口の怪異が発した言葉の意味を考えても仕方がない。そう思い至り、体中についた砂埃を乱雑に払う。
砂埃を振り払った見藤はあることに気付く。スーツの袖が破けていたのだ。
「くそ……。一着、駄目になった」
怪異に襲われた疲労も重なり、大いに悪態をつく。破けた袖から覗く、腕の古傷。どこか意味深に思えてくるのは、口の怪異の言葉のせいだろうか――。
見藤は眉を寄せ、細く、長く息を吐く。
(そんな事よりも、今は霧子さんが気掛かりだ――。早く、帰らないと……)
余計なことは考えるなと、見藤は首を横に振り、駆けだした。
* * *
見藤は事務所への帰路を急ぐ。姿を消す直前の霧子の表情が頭を離れず、気持ちが逸る。
「……霧子さん!」
慌ただしく、事務所の扉を開いた。だが、見藤の目に映るのは雑踏とした事務所内。そこに霧子の姿はなく、血の気が引いた。否が応でも、霧子と離れてしまった出来事が脳裏を掠める。
見藤は、はっと霧子の神棚へ視線を向ける。契りを交わした見藤が呼びかけると、それに応えるように霧子は紙垂を揺らすことがあるのだが――。飾られた紙垂は揺れることなく、沈黙している。
すると、自室から僅かに物音がしたことを見藤は聞き逃さなかった。逸る気持ちを抑え、ゆっくり自室の扉を開く――。
見藤の目に飛び込んできたのは、霧子の姿。ほっと、胸を撫で下ろしたのも束の間。
「あっ……」
声を漏らした霧子は見るからに怯えていた。見藤の自室に降りてきているものの、その姿は怪異である八尺様としての姿だった。霧子はベッドの上で膝を抱え、見藤の姿を目にするなり肩を震わせた。
見藤はなるべく柔らかな声音で声を掛ける。
「大丈夫だ、俺だ」
「ま、こと」
見藤の名を呼んだ霧子。その名を口にしたことで、安心したのだろう。霧子の頬を大粒の涙が伝う。
見藤は考えるよりも早く、霧子の元へ駆け寄っていた。霧子が座るベッドの前で膝を着き、彼女を見上げる。そうすれば、夜を模したかのような煌めく瞳が涙で濡れる光景に、目を奪われる。見藤は膝を抱えている霧子の手に、そっと自身の手を添えた。
そうすれば、霧子の口から漏れる嗚咽。
「う……」
「大丈夫、大丈夫だ。俺は、ここにいるから」
霧子を安心させるように、見藤は言葉を紡ぎながら手に力を籠める。そうすれば、霧子はそっと手を解き、握り返した。
それを合図に、見藤はベットへ上がり、霧子へ寄り添う。互いに手は握ったまま、霧子の腕と見藤の肩が触れ合う。何も言葉を交わすことなく、時間を過ごした。
(……今は何も聞くべきじゃない)
見藤はそう思い至ると、思考に身を投じる。
(これまで、霧子さんが対峙してきた『神異』……。豊玉姫、縁切りの『神異』――。そして、遭遇したモノ。あれも恐らく『神異』だろう)
偶然とは言え、霧子はそれら全てと相まみえている。縁切りの『神異』に関しては、霧子の方から接触したため差異があるものの。確実にナニかを引き寄せてるようで、見藤の中に疑念が浮かぶ。
そして、帰路で遭遇した口の怪異。いや、『神異』と対峙したとき――。澱みにあてられた霧子の反応はこれまで見たことのないものだった。困惑、恐怖、悔恨――。見藤が霧子の表情から読み取ったのは、そう言った感情だった。
(『神異』と呼ばれるだけの力を持つ存在と対峙すれば、怪異であっても何かしらの影響を受ける。それが、負の感情によって祀られた『神異』であったなら――。霧子さんの怯えようにも納得がいく……、だが、本当にそれだけなのか?……分からない)
見藤はそう結論付け、思考を終えた。『大御神の落とし物』の力を手にした霧子でさえ、恐怖を抱く存在。一体、それは何なのか――、見藤には到底理解が及ばなかった。
(こればかりは……)
見藤は目を伏せ、そっと霧子へ身を寄せた。そうすれば、確かに霧子はそこに存在している。
すると、霧子の声が降って来た。その声音は不安に満ちている。
「……ねぇ」
「うん?」
「わたしは私……?」
霧子の問いの真意は何なのか――、見藤は迷う。だが、明確な答えがあった。
「……あぁ、霧子さんは霧子さんだ」
見藤は霧子の言葉を肯定する。柔らかな声音と共に、握っていた霧子の手の甲に口付けをひとつ、落とした。
◇
それから、随分と時間が経ち――。八尺様としての姿を晒していた霧子は、いつものように人を模った姿へその身を変えた。霧子は隣に腰を降ろしている見藤の肩へ寄りかかり、頬を擦り寄せている。彼女の艶やかな髪が、見藤にかかる。
見藤はなにも言葉を発することなく、霧子の手を握り、空いた手は彼女の艶やかな髪を梳いていた。
静寂の中、沈黙を破ったのは霧子だった。
「もう、大丈夫だから……」
「そう、か……よかった」
安堵の言葉が見藤の口から漏れると、霧子は縋るような視線を送っていた。




