1話目 奇絶怪絶 〜 迷い家 〜
「久保くん!」
突如、凄まじい剣幕と共に肩を掴まれ、久保は後方へ引き寄せられた。その反動で大きく尻もちをつく。
――心臓の鼓動が耳に届きそうな程、激しく脈打っている。足りない酸素を求めるように、細かい呼吸を繰り返す。地面に座り込み、呼吸を整えようとした。
声の主が必死に呼びかけるが、朦朧とした頭では言葉を理解できない。
それから、どのくらい時間が経過したのか――。ようやく呼吸が落ち着き、頭痛が引いたとき、久保は声の主を認識した。
「け、んどうさん……?」
――見藤だった。
彼は久保の意識の混濁が解けてきたと判断したのか、肩に置いていた手をそっと離す。そうして、安堵した表情で呟いたのだった。
「よかった……。間に合ったか……」
一方の久保は状況が呑み込めない。なぜ見藤がここに居るのか、ここは何処なのか、何もかも理解が追い付かない。依然、困惑した表情を浮かべる。
すると、見藤が先に口を開いた。
「立てるか?」
「はい、多分……」
久保は曖昧な返事をする。服に付着した砂埃を掃う余裕はなく、立ち上がると砂が地面へ帰って行った。それに続き、見藤は立ち上がる。スーツについたスーツの汚れを軽く払うと、険しい表情で古民家を見やる。
久保は溢れる疑問を言葉にするので精一杯だった。
「あの、見藤さん……どうして、ここに? ここはどこですか……? 僕、友達と一緒にいたんです……! そいつは……?」
「質問は順番にしてくれ。おっさんは幾つも一度に答えられない」
見藤は落ち着けと言わんばかりに手を振る。だが、険しい表情は変わらない。
「すまんな、久保くん。まずは確認させて欲しい。ここはどう、視えている?」
「どうって……。古い民家……です。誰もいないはずなのに、生活感があって。その雰囲気が気持ち悪くて……うぅ、頭が痛い」
問い掛けに、久保は感じたことを話す。すると、再び頭痛が襲い、痛みに顔を歪めた。見藤は心配そうな表情を浮かべる。
――何故、見藤はこの異質な状況下でも平然としていられるのだろうか。久保はさらに混乱する。
そうして、久保の頭痛が治まった頃。
見藤が口を開く。それは慎重に言葉を選びながら、久保の理解に合わせて話しているようだった。
「久保くん。君は怪異や妖怪と呼ばれる、俺たち人とは異なる存在について。どのくらい知っている?」
「は?」
「その反応は少し、傷つくな……」
見藤は苦笑し、溜め息をつく。久保は眉を寄せ、困惑したまま聞き返した。
「妖怪? 怪異って、都市伝説に出て来るような……? 作り話じゃなくて、実在するってことですか?」
「そうだ。まぁ……常識じゃ、考えにくいよな」
見藤の表情が少し和らぐ。そのまま言葉を続けた。
「ここは迷い家だ。家自体が怪異なのか――はたまた、怪異の住む家をそう呼ぶのか、定かではないにしろ。……まぁ、人が入ったら二度と出られなくなる。昔はそういう場所じゃなかったんだがな」
「…………」
「まぁ、間に合ったんだ。大丈夫だ、心配するな」
その言葉に久保は見藤の剣幕を思い出す。――あの時の状況からして、質の悪い冗談ではないらしい。見藤の話が事実だとすれば、自分は今まさに怪奇現象に巻き込まれている。
久保はただ呆然と立ち尽くす。――友人との他愛ない会話のネタでしかなかったはずなのに。自分とは無関係だと思っていたのにと、巡る思考。
口を閉ざした久保を余所に、見藤はそっと口を開く。
「なぜ俺がここにいるか、だが――」
――――ゴオォ……!
再び突風が吹く。ススキの穂が激しく揺れ、まるで見藤に敵意を持ち、威嚇しているようだ。
突風に、久保は思わず目を瞑る。見藤が羽織っているジャケットの裾が、激しく擦れる音が聞こえた。
突風が過ぎ去った後。恐る恐る目を開けた久保が目にしたのは――。
「こういう怪異を相手に、仕事をしているものでね」
そう言いながら、困ったように笑う見藤の表情。妙に印象的だった。
そうして、見藤は「よっこいしょ」と年齢を感じさせる掛け声と共に地面にしゃがむ。
すると、どこから持ってきたのだろうか。木枝で、地面に文字列と図形を描き始めた。風貌に似合わぬ繊細な筆跡で、点と線が正確に並ぶ。
作業を終えた見藤は、木枝を放り投げると立ち上がった。怪奇現象を目の前に、気楽に言い放つ。
「さてと、帰りますか」
「あ、あの、友達はっ……!?」
久保は慌てて友人の消息を訪ねる。迷い込んだ時の得も言われぬ不安感を思い出したのだ。
すると、見藤はことも無げに答えた。
「いないよ。大丈夫だ」
「えっ……!? でも一緒に途中まで――」
「そんな友達思いの久保くんに。はい、これ」
見藤が差し出したのは久保のスマートフォンだった。
久保は「いつ落としたのだろうか?」と首を傾げる。スマートフォンを受け取り、画面を見ると友人から不在着信が数件あった。さらに、久保を心配するメッセージが並ぶ。
――友人は無事で、無事でなかったのは久保の方だったのだ。
久保が画面を確認している間に、見藤は作業を終えたようだ。手にしていた木枝を放り投げ、ゆっくりと立ち上がった。
「はい、じゃあこれを目ぇ瞑って跨いでくれ」
「わ、分かりました!」
久保はぎゅっ、と目を固く瞑る。そして、指示通りに文字列を跨いだ。後ろから見藤の足音がする。それだけで不思議と安心できた。
背後から掛けられる声。
「もう目は開けてもいいぞ。次は真っ直ぐ歩いて、進んでくれ。振り返るなよ」
見藤に促され、久保が目を開ける。すると、そこはビルが立ち並ぶ見慣れた光景。ほっと胸を撫で下ろした久保を、見藤が少し強めに小突く。
そう。まだ終わりではない。振り返らず、進まなければならない。気を引き締め、一歩を踏み出そうとした瞬間――。
「おーーーーい、久保ーーーー?」
「振り返るな!!!!」
見藤の剣幕が木霊した。が、遅かった。
久保は振り返ってしまったのだ。
その瞬間、迷い家の佇む田舎風景が一瞬で近付く。それはまるで、久保を喰らおうと迫るかのようで――。
「っ、君ねぇ! 嘘だろ!」
見藤の悪態と共に風が吹きすさび、背後の迷い家から地響きのようなけたたましい轟音が聞こえてきた。
ゴォオオオォ――――……! 突風にのって何か、黒い靄のようなものが迫ってくる。
「その鞄、借りるよ!」
見藤はそう言うや否や、久保が背負っているリュックを強引に剥ぎ取った。そのはずみで、久保は尻もちをつく。
見藤は振り返り様に大きくリュックを振りかぶり、綺麗な放物線を描く。尻もちをついている久保の目線の高さを、勢いよくリュックが掠めた。
どちゃっ! とナニかにぶつかった音だけは聞こえたが、その姿を久保の目に写すことはない。
見藤は鼻を鳴らしながら、言い放つ。
「餌を横取りされたからって、そう怒るな。よし、走るぞ」
ナニかを殴り飛ばした見藤は、久保から剥ぎ取ったリュックを背負い駆け出した。久保の首根っこを鷲掴みにし、半ば強引に立たせることも忘れない。
駆け出す際に感じた背中を押す見藤の骨張った手が、久保を安心させるには十分だった。
◇
久保は見藤の背を追いかけ、ただひたすら夢中に走った。どう事務所まで帰ったのか、記憶が曖昧だ。ようやく帰り着いた頃、外は暗闇だった。
数時間のうちに想像を絶する体験をしたのだ。久保はなだれ込むように、ソファーに座る。一方の見藤は相変わらず平然として、久保の世話を焼いていた。
「はい、コーヒー。熱いぞ」
「あ、ありがとうございます……」
久保は礼を告げ、マグカップを受け取る。コーヒーを一口飲むと、不思議と落ち着いた。
それから、見藤はひと呼吸おくと、そっと口を開く。
「さて、話の続きといこうか」
見藤は、この世の奇絶怪絶な存在について語り始める。怪異、妖怪と呼ばれる存在だ。
通常、怪異は人の目に視えておらず、その場に怪異が存在していたとしても「認知」できないのだと語った。この「認知」が鍵となるという。
「余程、素質のある人間か。今日の久保くんのように、怪奇を実体験した人間じゃなければ、怪異や妖怪はそうそう視えるようにはならん。それが認知だ」
にわかに信じ難い話。久保はただ呆然と、告げられる話を聞くしかなかった。
すると、見藤は申し訳なさそうに眉を下げて、久保が抱えている鞄を指す。
「鞄の中身、壊れていたら……。すまない、弁償しよう」
「あ、いえ……」
久保は言葉に詰まりながらもリュックを開けた。折れた文具と、ひしゃげた教科書。それは久保に、あの体験は現実だと告げていた。
それに、と見藤は言葉を続ける。
「君が迷い込んだ、迷い家だが。本来は人に幸福を授ける怪異だった。現代になるにつれて認知が歪み、人を喰らう怪異に変化してしまった」
久保は身震いした。見藤の言葉に先ほど体験した非日常を思い出す。
一通り説明を終えた見藤は一口コーヒーを飲み、久保に向き直る。その表情は真剣そのものだった。
「久保くんは、うちの事務所の秘密を知ってしまった訳だが……。このままアルバイトを続けるか、辞めるか。君はどうしたい? ここを辞めて平凡な日常に戻れば、次第に怪異の類は視えなくなると思うが……」
見藤の提案は、どこまでも久保を案ずるものだった。
久保は迷う。この壮絶な体験を経ても、見藤への信頼感は揺らがなかった。彼の元で働くことに拒絶感はない。寧ろ、未知の世界への好奇心が疼く。
意を決し、口を開こうとした瞬間――。
「おい、見藤ォ。そんな奴、面倒見る必要ないだろ」
「猫宮、喋るな」
「だってよォ」
「喋るな、ややこしくなる」
二人しかいないはずの事務所に、もうひとつの声が響いた。見藤と会話している。どこから声がしたのかと、久保が周囲を見渡しても人の姿はない。
すると、またもや例の声がする。
「ほら見てみろ。こいつ、俺がどこにいるか分かっちゃいない」
「いい加減にしろ」
「むぎゅう」
見藤が掴んだのは事務所の飼い猫、又八だった。
どうやら、からかうような言葉を投げかけていたのは――、猫の又八らしい。その事実に気付いた久保は思わず、大きな声を上げる。
「ね、こ! 猫が喋った……!?」
久保は目を白黒させる。その様子がよほど可笑しいのだろうか。又八――、もとい猫宮はケタケタと笑っている。
「まぁ……これが認知、と怪異だよ」
そう言って、見藤は困ったように笑ったのだ。
その瞬間、久保は気付く。事務所の中を漂う、虫のような形をした靄。はっきりと、その姿形を久保の目に映す訳ではない。だが、見藤のいう世界が確かに存在した。
久保の中で、世界が変わった瞬間だった。
「あの、見藤さん――」
「何かな?」
「僕は知りたいです。この、奇妙な世界のこと。ここでバイトを続けたい、です」
「知的好奇心は何ものにも勝る、か」
その言葉を聞いた、見藤は――――。
「それでは改めて。ようこそ、怪異相談事務所へ」
そう言って、久保を迎え入れたのだった。
知的好奇心は何ものにも勝る、怖いもの見たさというヤツですね。
今後とも、拙作をよろしくお願いいたします。