55話目 そして、論題へ③
見藤はキヨの指示に従う他ない。仏頂面のまま、キヨから匣を受け取った。
見藤は匣に描かれているしめ縄をつまみ、引き抜く動きをしてみせる。――すると、どうだろう。それは確かに匣という物体に描かれている、ただの平面な絵だ。だが、彼の手には赤いしめ縄が握られていた。
完全にしめ縄が引き抜かれると、匣に描かれていたしめ縄はその姿を消した。そして、彼の掌に持たれた匣は、ぱたり、ぱたり、と一面ずつ開かれていく。最後の面が、開いたとき――。
『―― ゥヲォオオオォォォオォ!!!!』
凄まじい咆哮。そして、体を襲う威圧感。
窓ガラスはがたがたと揺れ、次第に亀裂が入る。朱赤の匣から這い出るかのように姿を現したモノ。そして、姿を現したのは紛れもなく獏だ。
獏は現世に解放されたと認識するや否や、見境なく襲いかかろうとする。その巨体をもたげ、直進しようと顕現させた足を踏み出した――。
「もういいでしょう」
キヨの一言で、見藤は手にしていた赤いしめ縄を手放す。すると、今度は朱赤の匣に吸い込まれるように、獏としめ縄はその姿を消した。元通り、匣の面には赤いしめ縄が描かれている。
まさに、一瞬の出来事。――騒然となる場。
古の時代に悉く姿を消したとされる神々の一端である神獣。それがまさか、現代に顕現しているという事実は周囲に困惑と混乱を招く。それも、先の夢遊病事件を引き起こした元凶である獏だ。
周囲の反応を鑑みるに、神獣が現代にも存在することを知るのは斑鳩家とキヨだけのようだ。それは、他の名家への牽制にも繋がる。
神獣を手中に納めるなど、各々の家のパワーバランスが崩れたことに他ならないだろう。そして、あの匣を造ったのは恐らく――、キヨの後ろに控える付き人だと、察しのいい者ならば容易に答えに辿り着く。
その実、斑鳩は遠目に見藤を睨んでいた。「そんなこともできたのか」と視線で訴えている。その視線に見藤は肩をすくめるだけだった。
そして、芦屋家当主は確信したように、じっと見藤を見つめていた。
一方で、事情を知らぬ他者から見れば道具屋の特質を活かしたキヨが手に入れた、封印の匣――という見方になる。その匣に、先の夢遊病事件の元凶である神獣獏を捕らえた、そう見える。――見藤の存在を隠匿するには都合のいい解釈だ。
キヨは意味深な笑みを浮かべながら言い放つ。
「まぁ、こんなものだね」
そうして、キヨはただの置物となった匣を見藤から受け取った。
騒然となった会場で、まず先に口を開いたのは賀茂家当主だった。心なしか、彼の顔は引き攣っているように見える。
「これ程までとは」
「さてさて、小野家からは以上だ」
キヨの言葉通り、これにて小野家の成果物の開示は終わった。
賀茂家当主の反応はキヨの目を大いに楽しませたようだ。彼女は扇子を口元にあてがい、表情を隠す仕草をしているものの。その目は彼らを嗤っている。見藤は少しだけ、胸が空く思いだった。
キヨが仕掛けた、成果物の開示と余興を兼ねた見世物は大いに成功したようだ。賀茂家と道満家は今後の出方を思案するよう、付き人たちの間で言葉が交わされている。
見藤は付き人の方が思慮深いのではないか、とまたもや鼻を鳴らした。
そうして、キヨの次には芦屋家当主が名乗りを上げる。
「まぁ、芦屋家は成果と言うよりも現状報告となりますね」
そう前置きしてから、彼は口を開く。
「芦屋家が保管している呪物『先導者の絵画』ですが――、消えました」
芦屋家当主はこともなげな様子で、重大事項を口にしたのだった。彼が言う「呪物が消えた」それは周囲の動揺を広めるには十分だったようだ。キヨ以外の名家当主は動揺が表情から窺える。
芦屋家当主の言葉に、真相を尋ねようと口を開いたのは道満家当主だった。
「何事だ、絵が消えただと? 盗まれたのか?」
「正確には、描かれていた絵が綺麗さっぱり白紙となったのです」
「どういう意味か?」
「そのままの言葉の意ですよ、全く」
道満家当主からの更なる追及に、芦屋家当主は辟易とした表情を見せる。その姿は年相応の青年だった。そして、彼は言葉を続ける。
「あの絵画は元より、人魂を保管する呪物でした。時代を築いてきた、色を宿す瞳を持つ者たち。彼らの死後、信仰が興り、彼らと共にありたいと願う信者によってつくられたのです。あの絵画は時に救いをもたらしきたので、私としても残念です」
「信仰とは……、芦屋家らしいではないか」
「えぇ、そうでしょう。私としてもそう思いますよ」
横槍を入れるようにして賀茂家当主が口を開いた。それにすぐさま答える芦屋家当主は、平然とした様子で首を傾げて見せる。後ろ髪を結わえた髪の毛先が挑発するように揺れた。そして、その次には冷たい表情に変わる。
「まぁ、先代は歪曲した教えを広めて、悉く金品を集めていたようですが。まぁ、信者から手に入れた金品をどこに貢いでいたのか……。私には分かりかねますが、ね?」
「………………」
芦屋家当主は語気を強め、鋭い視線が賀茂家当主を射抜いた。それは最早、答えを知っているという牽制だろう。芦屋家当主からしてみれば、信仰を謳い俗物に貶めた先代。そして、献上先であろう賀茂家には憎悪すら抱いている。それ故に、彼が当主となった時分に派閥から離反する、十分な動機だったのだろう。
芦屋家当主は視線を逸らさず、賀茂家当主を鼻で笑う。すると、賀茂家当主は表情を何ひとつ変えず、沈黙を貫くだけだった。それを目にした芦屋家当主は、埒が明かないと溜め息をついた。そうして、次には平然とした様子で言い放つ。
「よって、芦屋家はひとつ呪物を失った訳です」
芦屋家の現状報告、と言うには大きな損失を開示する内容だった。名家が所有する呪物とは、家の武器だ。その武器を失ったことを他の名家に知らせるということは自らの弱体化、衰退を公言しているようなものだ。
彼の言葉を受け、斑鳩家当主の豪快な笑い声が会場に響き渡る。
「がっはっはっ!! 家の不利益になることを他人事のように言ってのけるとはなぁ!」
「とんでもない。私は、私の救いを見つけたまでですよ」
芦屋家当主は呪物という武器を失ったことが損失であると、考えていないようだ。斑鳩家当主の言葉に、柔和な笑みをたたえながら会話をしている。
そして、その光景を得も言われぬ表情で眺める道満家当主。袂を分けたと言っても、片割れとも呼べる家が保管していた呪物。それがなくなったと聞けば、少なからず思う所があったのだろうか、と見藤はじっと動向を注視していた。
そこで見藤はふと、『絵画』『人魂を保管する絵画』と聞いて、思い当たることがあった。
(おいおい、待て。煙谷の野郎……、とんでもない依頼を持ち込んでいたのか)
そう、煙谷からの依頼だ。新興宗教団体が保管しているという、人魂を封じ込めた絵画。絵画は呪物であり、見藤は人魂の解放を行う呪いの匣を作った。そうして、絵画に施された呪いは解呪され、依頼は完遂されたのだが――。
どうやら、件の新興宗教団体。そして、絵画の所有者というのは芦屋家だったようだ。見藤は思いがけずして名家を相手取り、ことを起こしていたようだ。
(黙っていれば勘づかれることもないだろう、そう願いたい。呪いの痕跡も――、匣という物体を媒体にした分、残らないはずだ)
見藤は気取られないことを祈りながら、そっと溜め息をついた。
芦屋家当主は現当主たちの中で最も若い。だが、彼は当主という座に登り詰めるだけの実力と、豪胆さを持ち合わせているのだろう。見藤はじっと芦屋家当主を注視する。
すると、彼は見藤の視線に気付いたのか――。そっと目配せをして見せたのだ。見藤は怪訝に思い、眉を寄せる。
これまでの会合。芦屋家当主は斑鳩家と小野家に対し、とても好意的だ。それ故に、付き人の役目を担う人間にも柔和に接するというのは理解できる。
だが、見藤は他者から見たとき顔の認識を曖昧にする呪いを自身に施しているのだ。よって、芦屋家当主の反応には些か疑問を抱く。
(やっぱり、どこかで会ったのか……? いや、今は考えるな)
見藤は軽く首を横に振った。会合が終われば、斑鳩から芦屋家当主について話を聞こうと抱いた疑念を一旦、頭の片隅に追いやった。
そして、未だ声を上げていない名家のひとつへ視線をやった。
(残ったのは、見藤家と賀茂家か。見藤家に至っては既に没落寸前だが……。一体、何を話すのか見ものだな)
それは、対峙。見藤は息を潜めていた。




