49話目 動き出す禁色たち
見藤が目を開けると、見慣れた天井が目に入る。一気に意識が覚醒し、慌てて飛び起きた。手をついたシーツが皺になり、指先に触れる低い体温。
「……霧子さん」
見藤は小さな声で彼女を呼んだ。隣で寝息を立てているのは、社を後にしたはずの霧子だった。――どうやって自室まで戻ったのか、まるで記憶がない。神隠しとはそういうものだろう、と見藤は無理矢理に己を納得させた。
不意に肌を撫でた冷たい空気に見藤は肩を震わせ、小さな声で呟く。
「寒い……」
はたとして見れば、上裸であったことに気付く。自室を見渡し、畳んであったスウェットに視線が止まった。そして、ベッドに視線を戻す。
カーテンの隙間から差し込む光が霧子の寝顔を照らし、少し眩しそうに身を動かす。その拍子に、彼女の艶やかな髪が顔にかかった。
見藤は髪をよけてやろう、と手を伸ばしたが止めた。途中まで霧子へ伸ばされた手は、ずり落ちた毛布を掴む。そして、肩を出した霧子にそっと掛けてやる。
温かさを無意識のうちに感じ取ったのか。身をたじろがせ、霧子は毛布に包まってしまった。見藤は短く息を吐くと、彼女を愛しく思い目尻を下げた。
(起こすといけない……、そっと出るか)
物音を立てぬよう、見藤はベッドから起き出した。そして、畳んであったスウェットを着る。ついでと言わんばかりに、隙間の空いたカーテンを閉めた。
「……」
見藤は何かを思い至り、振り返る。そうして、霧子の元へ戻った。ベッド際に腰を降ろして、霧子の顔にかかった髪をよけてやる。そのまま身を屈めて彼女の横顔にひとつ、口付けを落とした。
離れ際、ぽつりと溢れた言葉。己の口から自然と出た言葉に、見藤は照れくさそうに目尻を下げた。
契りを交わし、縁を繋ぎ直したことで、こうして再び霧子は事務所へ自由に出入りできるようになったのだろう。だが、霧子の社となっていた事務所の神棚は壊れたままだ。
見藤は新たな神棚を用意しようと思い至る。
(完成したら、霧子さんに見せよう)
――きっと喜んでくれるはずだ、と確信するように頷いた。
◇
見藤が自室から出ようと、扉を開く。すると、そこには――。
「け、見藤さん……!?」
「んァ? いつ戻ったんだ?」
驚いた声を上げた久保と、事もなげな様子で見藤を見やる猫宮がいた。そして、久保の隣には驚きのあまり身を固めた東雲の姿があった。
猫宮はともかく、まさか彼らが事務所を訪れているなど夢にも思わず。見藤は扉を開いた姿勢から身を固め、目を見開いている。だが、その次には自室への扉を背にして、静かに閉めた。霧子を起こさないよう、気を遣ったのだった。
そして、見藤の口から出た言葉は動揺を感じさせるには十分だった。
「ど、どうしたんだ……君たち」
「どうしたも、こうしたもないですよ!?だって、見藤さん――」
慌てた様子の久保から告げられたのは、驚きの事実だった。
「二週間も行方不明になっていたんですよ!?」
「――は?」
久保の言葉を聞いた見藤は間の抜けた返事をする。そして、怪訝な表情を隠しもせず首を捻った。
「いや、俺は……。そもそも、霧子さんの社に行ったのは、昨日だぞ」
見藤の言葉に、今度は久保と東雲が摩訶不思議と言わんばかりに首を傾げる。
――霧子による神隠し。
ふと、見藤の中で思い当たる事象が浮かんだ。そして、契りを交わした後のこと。
社の中の季節はもちろん、時間でさえ曖昧な空間だった。それ故に久保達が過ごした時間と、見藤が過ごした時間に差異が生まれても不思議ではない。
見藤はそう思い至ると、彼らに心配をかけた申し訳なさからなのか。首の後ろを掻き、そっと口を開く。
「まぁ、神隠しはそういうものだろう……多分」
「はぁ……。捜索願を出そうか、斑鳩さんに相談する所でしたよ」
「それは……、止めてくれ」
久保は呆れたように溜め息をつき、いざとなれば頼れる人物の名を口にした。斑鳩に良い印象を抱いていない、久保がそこまで言うのだ。どうやら、見藤が消息不明となったことに相当、肝を冷やしていたようだ。
斑鳩の名を聞いた見藤は、これでもかと言うほど眉を寄せる。そして、力なく言葉を返した。
見藤の脳裏に、斑鳩の顔が浮かんだ。
――再び神隠しに遭ったことが斑鳩の耳に入れば、追求されるに違いない。
霧子と本来の契りを交わしたことが、知られれば彼はどうするだろうか。彼は怪異に対して寛容ではない。寧ろ、敵視している節がある。
斑鳩は人との幸せを築くよう、見藤に苦言を呈していたのだ。親友の願いを反故にしてしまった負い目からなのか、見藤の表情は険しい。だが、見藤にも譲れないもののひとつに、霧子の存在があるのも事実だ。
見藤はひと際大きな溜め息をつくと、視線を上げた。すると、東雲と目が合った。
東雲の瞳が一瞬、揺れた。彼女なりに見藤と霧子に対して、負い目を感じているのだろう。彼女は言葉を詰まらせながら、なんとか見藤に声を掛けようとする。
「あ……、私……っ」
「大丈夫だ、東雲さん」
彼女を慮って、見藤は心配いらないとでも言うように首を横に振った。その声音は柔らかく、あの時のような拒絶を示すものではなかった。
「君が、きっかけを作ってくれたんだろう?」
そう話す見藤の表情は、彼らに感謝の念を伝えようとする想いで満ち溢れていた。そして、見藤は隣に佇んでいる久保に視線を向ける。
「久保くんもだ」
「え、どうして――」
――久保が伝手を用いて願った縁結び。見藤が知るはずはない、と久保は驚き、目を見開いた。
だが、見藤は事もなげな様子で、笑みを溢して見せた。
「ふ、言っただろう? 俺は目がいいんだ」
少しだけ首を傾けながら、悪戯な笑みを浮かべた見藤。だが、彼はすぐさま眉を下げ、頬を掻いた。その表情はどこか照れくさそうだ。
「その、霧子さんのことだが……。ちゃんと、会えたから……大丈夫だ」
見藤の言葉を聞いた途端。東雲は安堵の表情を浮かべ、心なしか上ずった声で言葉を溢す。
「よかった、ほんと……よかったぁ」
東雲の言葉は心から発せられたものだと、誰もが分かるものだった。
――だが、安堵に包まれた雰囲気は、久保の一言で終わりを迎える。彼は、何か心配事があるのか。その表情を一気に曇らせた。
「あの、雰囲気を壊すようで申し訳ないんですけど……。不在中にも関わらず、勝手に事務所に出入りしてしまって……すみません」
「いや、それは構わないんだが――」
見藤が返答する前に、猫宮が視界を横切った。皆が慌てて、その姿を追うと猫宮の猫パンチが何かを仕留めていた。二又に裂けた尾が左右に揺れ、彼が不機嫌であることを示している。その様子を目にした見藤は、何事かと首を傾げた。
すると、何かを目にした久保が申し訳なさそうに口を開く。
「これです。僕たちが事務所に出入りしていた理由」
「……」
久保の目線を見藤が追う。すると、床に散らばる無数の白い紙が目に入る。思わず、眉間にこれでもかと皺が寄る。
猫宮は鼻を鳴らし、見藤を見上げた。
「見藤。お前が発ってからも相変わらず、贈り物が届いていたぞ」
皮肉交じりに言い放った猫宮は、視線を窓の方に向けた。見藤が猫宮の視線につられ、窓を見やれば直したはずの窓ガラスが割れている。そして、よく見れば久保と東雲の手には箒が握られているではないか。どうやら、床に散らばったガラス片を片付けていた様子だ。
――見藤の所在を追う、見藤本家。彼らによる、追跡の呪いは後を絶たなかったらしい。
見藤は苛立ちを隠しもせず、嫌悪感を露にする。
「……ちっ」
見藤は舌打ちをし、床に視線を移す。床には標的を探し出せず、行き場を失った蝶や鳥を模った形代が散らばっていた。大半は久保と東雲によって片付けられた後だったが、未だ紙でできた翼を羽ばたかせようと動くものもある。すかさず、猫宮が猫パンチで仕留めた。
(一難去って、また一難か……)
見藤は額に手をあてがうと天を仰ぎ、深い溜め息をついた。心の内についた悪態は、これからの出来事を予見したものだった。




