番外編 女の赫怒
僅かな物音を耳が拾い、見藤は目を覚ます。朧気ながらも、霧子の姿を探した。
意識を手放す前は、確かにその腕に彼女の体温を感じていたのだ。思わず伸ばした手が掴んだのは、脱ぎ捨てたシャツだった。そして、視界に入るのは木目の床。
(そうだ……、俺は霧子さんの社の中に――)
寝起き特有の浮遊感の中。霧子と交わした契りを思うと、見藤は目を伏せる。
すると、視界の端に捉えた霧子の姿。彼女は既に身支度を終えていた。白地のワンピースは霧子の白い肌を強調させ、細やかな刺繍が優雅さを醸し出す。見藤はしばらくの間、そんな彼女の姿に見とれていた。
霧子は背後で布が擦れる音を耳にし、見藤が起き出してきたことを察する。振り返れば、寝ぼけ眼でこちらを見やる見藤の姿。
霧子はそっと近付き、床に腰を降ろした。それに合わせて体を起こそうとした見藤を、彼女は止めた。
「起きたの?ここで、もう少し寝てなさい。……随分、眠れてなかったみたいだから」
「ん」
霧子の言葉に、小さく頷くと見藤は再び床に体を横たえた。すると、彼女の言う通りなのだろう。次第にうつらうつらとし始めた。
だが、身支度を終えた霧子のことも気掛かりなのだろう。床に着いていた彼女の手をそっと上から握った。小さな声で霧子を呼ぶ声。
「どこか、行くのか……?」
「ええ。少し、やることがあるから」
霧子の答えに見藤は思うことがあったのか、黙り込んでしまった。彼女が言う、『やること』を想像したのだろうか。それとも、霧子と離れがたいのか――。
重たい瞼を誤魔化すように眉を寄せた見藤を、霧子はじっと見つめる。
「……」
「そんな顔しなくても、大丈夫よ。ちゃんと戻るから。全くもう」
見藤の表情を目にした霧子は、眉を下げて口を尖らせた。その次には、愛しく想うような眼差しを向け、にこりと微笑んだ。
「ふふ、捨てられた子犬みたいな顔してるわ」
「……からかわんでくれ」
そう呟いた見藤の声は掠れていた。
「霧子さん――」
見藤が低く、柔和な声音で彼女の名を呼んだ。霧子の手を引き、じっと瞳を見据える。その表情はひと目見て、霧子を心から心配しているものだと分かる。
霧子はそんな見藤の心情に寄り添う。身を屈め、横たわる彼の腰に手を添えて、体を密着させた。そして、鼻先を寄せて口付けを交わす前の仕草をする。
見藤も、そんな霧子からの口付けを受け入れようと目を伏せた。――が、霧子は口付けを交わす所か、見藤の上唇を食んだのだ。
突然の感触に、眠気は何処へやら。見藤は目を見開いて身を固めている。離れ際に、鼻腔を掠める霧子の残り香は、ほのかに甘かった。
出立の挨拶にしては熱烈な抱擁だろう。霧子の抱擁と悪戯に動揺したのか、行き先を失った見藤の手は空を掴む。
眉を下げ、困ったような表情を浮かべる見藤。そんな彼を余所に、悪戯が成功したことに機嫌を良くした霧子は、鼻歌混じりに立ち上がる。
「それじゃ、行ってくるわ」
振り向きざまに手を振り、霧子は姿を消した。
* * *
「やぁ、久しぶり」
霧子が訪れたのは、煙谷の事務所だった。彼女が姿を現すや否や、煙谷の呑気な声が事務所内に響く。
だが、霧子は煙谷の挨拶に答えるつもりはない。煙草の煙が充満した室内。その匂いに眉を寄せ、冷ややかな視線を送る。そして、少しばかり時間を要したが、霧子はそっと口を開いた。
「……で、頼んだことは?」
「はいはい、上々に」
煙谷は頷くと、咥えていた煙草を手に取り、長く息を吐いた。室内に充満していた煙が煙谷によって集められ、天井に描かれていく地図。煙の流れが落ち着いたところで、得意げに口を開く。
「ここだよ。貴女とあいつの縁を断ち切った奴の所在」
煙谷の言葉を受け、霧子は地図の一点を睨み付けた。
霧子は見藤との繋がりが絶たれていた間。縁切りを行った存在の居場所を特定するよう、煙谷に依頼していたのだ。索敵に関しては煙谷の方が適任だろう。そして、居場所を特定するということは、霧子が望むことはただ一つ。
煙谷は予見する。その事象を想像すると、肩を竦めた。
「女の怒りはおっかないねー」
「言ってなさい」
「まぁ、僕としても少し借りがある奴だ。制裁を加えることには賛成、かな」
煙谷は言葉を溢すと、手に持っていた煙草を再び口に咥えた。彼なりに、檜山が目撃した不幸に関して思うことがあったようだ。飄々とした態度はそのままに、ただ彼の眼は笑っていなかった。
「そう」
端的に答えた霧子の冷ややかな視線はそのままに。彼女は煙谷を一瞥すると、忽然と姿を消した。
◇
霧子が足を踏み入れたのは、とある神社の境内だった。視線を据えると、拝殿が月明かりに煌々と照らし出されている。彼女は拝殿の先に佇む本殿を睨みつけると、一歩。足を踏み出した。
本殿に祀られているのは神なる怪異―― 、元は御霊信仰によって神と成ったモノだったのだろう。しかし、霧子が目にしたのは神が住まう社を祀るにしては、禍々しい空気が満ちた境内だった。ここの主の姿は社に籠っているようで、その姿を見ることは叶わない。
本殿から拝殿にかけて、溢れるように地を這う無数の糸。その糸は、まるで意思を持ったかのように蠢いている。その形状は様々で、中には無理やり千切られたような断面の糸がある。
拝殿前に佇む霧子は、足元に視線を向けた。すると、小人のような姿をした怪異があくせくと動きまわり、地を這い逃げ惑う糸を鋏で切っているではないか。彼らはここの眷属なのだろうか。
切られた糸はのたうち回り、絶命したかのように次第に動かなくなった。その光景を目にした霧子は、これでもかと眉を寄せた。
(あぁ……、こうやって私達の縁を切ったのね。ほんと、悪趣味)
彼女は心の内に悪態をつき、足元を通り過ぎようとした小人を見るや否や――。
「気分が悪いわ。失せなさい」
霧子が言葉を溢すと、小人が爆ぜた。地に残ったのは、小人が爆ぜたときに飛び散ったもの。それが何であるのか最早、霧子にとっては気に留める必要もない。
彼女は爆ぜた跡を気にする素振りもなく、本殿へ向かうために歩みを進める。すると、霧子の存在を危険分子だと判断したのか――。
糸を切るために、あくせくと動いていた小人達は一斉に霧子へ襲い掛かったのだ。小人は身の丈以上の大きさの鋏を悠々と手に持ち、或いは剃刀を手に持っている。
だが、やはり霧子の目に留まらない。小人は霧子の元へ辿り着く前に、その体が爆ぜて行く。まるで、彼女の歩んだ道を飾るかのように、地面に描かれていく跡。
霧子は歩みを進める。すると、蠢いていた糸は本殿へ引っ張られるようにして、その姿を消した。それを目にした霧子もまた、姿を霧に変えた。
霧子が次に姿を現したのは、本殿前。感じた気配に、霧子は息を呑んだ。
「……人の願いに堕ちたのね」
溢した言葉は闇夜に消える。人々の認知、信仰や願いによって神なる怪異が、悪神へと身を堕とす末路を辿ったのだろう。
霧子はそっと目を伏せ、憂いに満ちた表情を浮かべる。だが、それは目の前の悪神に対してではない。過去に起きた、山神が悪神へと堕ちた出来事を思い出しただけだろう。
(あいつに、手を下させる訳にもいかないもの)
霧子は心の内に見藤を思い浮かべ、本殿を見据えた。本殿の扉から覗くのは、中に引き込まれた縁の糸だ。扉の向こう側にいる存在から逃れようと、蠢いている。
霧子はじっと本殿を見据え、片腕をかざした。途端、扉が勢いよく開け放たれる。
「出てきなさいよ」
霧子の凍てついた声音が周囲に響いた。突風が吹き荒れ、無数の糸が戦慄く。
霧子によって、本殿の社から引きずり出されたのは、まさに異形。元は神なる怪異だったのだろうが、神々しさは微塵もない。その姿を目にした霧子は、呆れたように呟いた。
「……最早、神だなんて呼ぶには悍ましいわね」
彼女は艷やかな髪を靡かせながら、目前の異形と対峙する。霧子は悠然とした構えで、異形を見据えている。
悪神へと堕ちた神であった怪異は、巨体に縄のような太い糸を幾重にも巻き付けている。折り重なるようにして積み上げられた縄の当頂部には、元の姿であろう面影を残している。だが、人を模ったものの。そこに意識が宿っているようには見えず、まるで装飾品のようだ。
霧子の力によって、社から引きずり出され、更には身動きが取れないのだろう。異形は己の身に起きた事象を理解するのに時間を要している。異形の体からあぶれた細い糸だけが、打ち上げられた魚のように動いていた。
刹那、異形の体と呼ぶべき部分の一部が、吹き飛ばされる。痛覚があるのか、異形は奇声を上げた。
その様子を眺めていた霧子は鼻を鳴らす。
「そう、『知らない』わよね。私が怒っている理由も」
小さく言葉を溢しながら、風で乱れた髪を払う霧子。事も無げな様子で、異形に向かって話し掛ける。
――だが、返答はない。最早、言葉さえ失ったのだろうか。
霧子にとってはそのようなことなど、どうでも良いのだ。ただ、言葉を続ける。
「あんたが命を奪おうとした人間が、私のものだってことも。私の――、いいえ。私が愛した人間だってことも」
不意に、目が細められる。彼女の胸の内には、困ったように微笑む見藤が思い浮かべられているのだろう。少しだけ、霧子の口元が綻んだ。
だが、視線を上げると目に映る異形。霧子の凍てついた視線が異形を突き刺す。
「あんたには、関係ないもの。だったら、あんたが消滅しようが――」
――異形の体の一部が、更に爆ぜた。
ただ、霧子は何もせず、そこに佇んでいるだけだ。だが、着実に。確実に、異形なる怪異を追い詰めている。
「私には、関係ないわよね?」
霧子の言葉に呼応するかのように、徐々に異形の体が捩じれていく。ゆっくり、じっくりと痛みを与えるように、捩じれていく異形の体。縄のしなる音が大きくなった。――断末魔が周囲一帯に響き渡る。
異形はその身を飛沫に変えた。肉塊が地面に落ちる音が、彼女の耳に届く。凍てついた視線を足元にやれば、そこにあるのは異形だった肉塊。次第に脆く崩れ始め、黒い靄となって消えた。
「あら、もう聞こえてなかったかしら?」
眉を動かさず、言い放つ霧子の表情に感情は宿っていなかった。霧子は短く息を吐くと、天を仰ぐ。そして、社に残した見藤を想う。
「あいつは、とことん甘いから……。報いを受けさせないと、私の虫の居所が治まらないもの」
呟いた言葉は暗闇に消えた。
――凄惨な光景を目にした者は誰もいないだろう。
目を伏せた霧子の視界には、縁切りから逃れた無数の糸。それらは次第に消えていく。
(きっと、すぐにまた新たな怪異が認知によって生み出される。それまでは平穏に――)
心の内に平穏を願う霧子。彼女の表情は憂いに満ちていた。
そよぐ夜風に髪を靡かせながら、霧子は境内を後にした。自身の社に残した見藤の元に帰るのだ。
契りを交わしたことによって、はからずもパワーアップした霧子さんでした。
めちゃ強ヒロイン、好きなんですよね(性癖!!!!)
これにて五章は終幕となります。
五章は『願い』をテーマに、見藤と霧子の関係がより愛情深くなった章でした。
ここまでお付き合い頂き、ありがとうございました。
次回より、いよいよ見藤が過去の清算をしていく六章になります。
最後にブクマ・評価★・感想など、いずれでも頂けると励みになります。




