47話目 縁切り③
霧子が姿を消してから、しばしの静寂。ソファーに横たわっていた見藤はゆっくりと、体を起こした。依然、彼は久保と東雲を振り返ることなく、視線を逸らしている。
見藤は霧子が屈んでいた場所に座り、床に散らばった鏡を拾い始めた。そんな彼の背中を、久保と東雲は成す術なく見つめている。ただ、その背中は喪失感に包まれていた。
そして、目前で起こった出来事の理解が追い付かないまま。二人は見藤から発せられた拒絶ともとれる――「帰ってくれ」、その言葉に頷くしかない。
しかし、そこに割って入ったのは火車の姿をしたままの猫宮だった。
「オイ、見藤! そんな言い方はないってもンだろう!」
猫宮は二人を突き放すような物言いをした見藤を諫める。
だが、黙って事の成り行きを見守っていた久保は首を横に振ったのだ。彼は見藤の胸中を慮り、今は一人にしたほうが良いと考えたのだろう。
――見藤には考える時間が必要である、と。
久保は隣に立ち尽くす東雲にそっと声を掛ける。久保と東雲は互いに頷いた。どうやら、東雲も久保と同じ考えであったようだ。
そうして、その場から動こうとしない見藤の背中に向かい、久保は別れの挨拶を口にする。
「見藤さん。僕たちは一旦、……帰りますね」
「あぁ。気を付けて、帰りなさい」
「「……」」
振り向くことなく見藤から発せられた声は低く、冷たかった。
だが、見藤の言葉は二人の帰路を案じるもので、その矛盾した言動は久保の胸を締め付けたようだ。眉を下げ、唇を固く結んでいる。見藤に何か言葉を掛けようと思っていても、今の状況では意味を成さないことなど、分かりきっていたのだ。
そっと、猫宮が久保と東雲に目配せをする。それは「後の場は任せろ」とでも言うようだ。――ガチャリ、と事務所の扉が閉まる音が響く。
事務所に残された見藤。彼は終始二人に背を向けたままで、見送る事すらしなかった。彼らを見送ったのは、猫宮だけだ。
「はァ……、見藤。事がことだけに、神経質になるのは分かるけどよ――」
溜め息をつきながら、猫宮は見藤に視線を戻す。依然、背を向けたままの見藤を不審に思い、彼の顔を覗き込む。すると、その目を大きく見開いた。
猫宮が見た見藤の瞳は、いつも目にしている紫黒色ではなかったのだ。訝しむように目を細めながら、確かめるように呟く。
「……見藤お前。その、深紫の眼は」
「なんだ、お前も知っているのか……そうか、」
「けっ、どうりで――。素で怪異に対抗し得る力を持ってた訳だ。なんだァ、姐さんにその眼の力を譲ってやってたのか」
見藤の言葉に、猫宮は確信を得たのだろう。
猫宮は呆れた顔をし、その大きな鼻先を見藤に押し付けた。マズルが小刻みに動き、何かを確かめるように見藤の匂いを嗅いでいる。
口承されてきた、不思議な力を持つとされる眼。その逸話を耳にしたのは猫宮も例外ではなかったようだ。
――妖怪達の間では、その眼を喰らえば強大な力が手に入る。そんな与太話が口承されている。そのような事をしても、手に入る力など無いと知るのは見藤と霧子だけなのだ。
故に、この状況。猫宮が口を開けば、見藤の目に映るのは大きな牙だ。見藤は猫宮の反応に眉を下げ、力なく言葉を溢した。
「……俺を喰うか?」
「馬鹿言え! そんなことをしたら、姐さんに何をされるか分かったもンじゃない!!」
見藤の問いに、そう喚き散らしながら猫宮は火車の姿から、するりと猫又の姿に戻る。
猫宮の言葉は、霧子の帰りを確信しているものだった。寧ろ、見藤の言葉に憤慨している様子だ。猫宮は鼻を鳴らしながら、見藤に向かって頭突きをした。
見藤は頭突きを繰り返す猫宮の額をそっと撫でる。彼の表情は悲しみに溢れていたが、その目尻は少しだけ下がっていた。そして、次に発せられた声は安堵と僅かな嬉しさを滲ませていたのだった。
「ふっ……そうか」
「そうだよ!! それに――、俺は自由な猫又だ。そんなモノに興味はない。あ! 美味い飯は別だぞ!!」
ぺっ、と吐き捨てられた悪態と言葉。それは猫宮らしい言葉だった。
その言葉を聞いた見藤は口角を上げたのだった。そして、ようやく立ち上がる。
見藤はこれから起こるであろう事象を予見し、手に力が籠った。拾い集めた鏡の破片が食い込み、痛みで平静さを保とうとする。
そして、見藤は久々に視た光景に眉を寄せた。いつにも増して明瞭に視えるのは、事務所を漂う認知の残滓、消えてしまった霧子の残滓だった。持ち主に戻った不思議な力を持つ瞳はこうも奇絶怪絶な世をその眼に映すようだ。事務所内をゆっくりと見渡し、床に落ちた神棚に向かって歩いて行く。
(犯人捜しは後だ。今は霧子さんを迎えに行くことを優先に――。時間が経てば経つほど、『霧子さん』の存在も、認知も薄まっていく……。なるべく早く)
無残にも装飾が砕けた神棚、割れた鏡の大きな破片を拾い上げながら、見藤は巡る思考にその身を投じたのであった。
* * *
見藤と霧子の別れを目にしてから一週間。
東雲の表情は暗いままだ。あれから、東雲は久保と何度か顔を合わせたが、お互いに暗い雰囲気のまま。特に会話もなく時間を過ごしただけだった。そうして、今日に至る。
日常は無情にも悲しみを受け入れる猶予を与えてくれない、ただひたすらに毎日を繰り返す。そんな気持ちを抱いたまま――、東雲は大学構内の食堂で友人と談笑していた。友人とは、西方叶子だ。
学生が集う食堂特有の喧騒の中、東雲は頬杖をつきながら眉を下げている。彼女の隣に座り、今日も何ら変哲もない会話に興じる西方の話を東雲は適当に聞き流している。
すると、そんな東雲の様子を心配したのか。西方は東雲の顔を覗き込んだ。
「ねぇ、あかり。最近どう?」
「うん? 何が?」
「あの人」
「……誰のこと?」
東雲はどうにも西方が言わんとしている事が分からず、首を傾げる。その次に、彼女から発せられた言葉を理解するには時間を要した。
「だーかーらー、あかりのバイト先の! えっと……あの時、見藤さんって呼んでたっけ?縁切り神社にさ、お参りしたんだ!! あの人、今は脈なしだけど……。恋人との縁が切れれば、きっと、あかりの好意に応えてくれると思って」
「――――は?」
頭を鈍器で殴られたような衝撃が、東雲を襲った。
――彼女は何を言っているのだろうか。誰と誰の縁切りを願ったというのか、と。
途端、東雲は指先が震えた。喉が異様に乾く。ようやく口から出た声は酷く掠れていた。
「な、にを……、言って」
「見藤さんとその恋人。二人が別れたら、あかりの恋の悩みは解決ってことだよ! だからさ、初詣がてら縁切り神社に行ったんだ」
西方の口から紡がれていく言葉は、まるで呪詛のように東雲に纏わりつく。
「見藤さんとその恋人の縁が切れますように、って」
東雲は上手く呼吸が出来なかった。
目の前の、友人であるはずの西方が得体のしれないモノに見えた。人の幸せを願い、他人の幸せを躊躇なく壊す、そんな選択をあたかも善意であるかのように振る舞う。
――悪意なき善意。しかし、その善意は人を絶望の底に沈めたことを東雲は知っている。
東雲は無意識のうちに、服の上からいつも首に掛けている木札を握っていた。
「見藤さんと霧子さんの、縁を切った…………?」
そのようなこと一度も望んだことはない、と叫びたかった。
東雲は知っている。人と怪異が偶発的に出会うことなど、稀有な事象と言っても過言ではない。そして、見藤と霧子は何かをきっかけに出会い、その縁を固く結んでいるのだと想像に容易かった。
東雲が抱いた見藤への恋心は、そんな二人の関係に強く憧れたに過ぎない。彼女は見藤の元で過ごす内に、自分の想いを十分に理解していた。だが、自分の中で複雑な恋心の終着点を見つける前に、内に秘めていたはずの恋心を他人に打ち明けてしまったのも事実だ。
――見藤と霧子が縁を切るきっかけを作ってしまったのは、紛れもなく「東雲あかり」自身である。その事実を突きつけられたのだ。
その事実を目の当たりにした東雲は、視界が暗転するような錯覚を覚えた。ふらつく体でようやく席を立ち、西方の顔を一瞥することなく言い放つ。
「ごめ、ん……ちょっと具合、悪い」
「えぇっ!? なに、大丈夫!? ちょ、あかり!?」
心配する声を背に受けながら、東雲は食堂を後にしようと早足で扉に向かう。すると、不意に掛けられた聞き慣れた声――。
「東雲?」
「あ……、久保」
「どうかした……? 顔色が悪い、けど」
久保の顔を目にした瞬間、東雲は視界がぼやけた。




