47話目 縁切り②
扉を開くや否や、彼らの目に飛び込んで来たのは、床に倒れている見藤の姿だった。
「っ……!? 見藤さん!!」
「あぁ……どうして」
久保と東雲が慌てて駆け寄り、霧子はその光景に悲痛な声を上げる。
猫宮は火車の姿に変化しているが、倒れている見藤を下手に動かすのは憚られたのか、どうすることもできず狼狽えている。
二人と霧子が見藤の傍に辿り着くと、霧子がそっと見藤を抱きかかえ、ソファーに横たえた。彼の顔は血の気が引き、少し青白い。そして、どこか痛むのか時折呻いている。
すると、しばらくして見藤の瞼がわずかに震え、その紫黒色をした瞳が開かれた。
「……、霧子さんか」
「えぇ」
「……よかった、やっと顔が視れた」
掠れた声でそう呟いた見藤は、その眼に霧子を映すと顔を綻ばせて見せた。
彼のそんな表情を目にした霧子は、涙声を誤魔化すように笑ったのだった。そして、霧子は見藤の元に体を寄せた。ソファーの近くに膝を折り、床に座る。そうすればようやく、見藤を近くに感じられる。
霧子は痛みに呻く見藤を心配そうに見つめながらも、そっと天邪鬼な悪態をついた。
「…………っ、馬鹿ね。こんな時まで」
見藤の掠れた声で紡がれた、霧子を想う言葉。そして、無理に笑った霧子の微かな吐息。
その会話を聞いていた東雲は二人の胸中を察し、沈痛な面持ちで見つめている。久保は何か悪い事が目の前で起こっていることを感じ取ったのか、険しい表情を浮かべながらも、黙ってことの成り行きを見守っていた。
見藤と霧子の間で交わされる再会の言葉。そんな会話の最中、見藤の匂いを嗅ぎ取った猫宮はその異様な匂いに顔を歪ませたのだ。
「オイ、こりゃァ……よくないぞ。俺は人間の死期が匂いで分かるんだけどよ。見藤の死期が異様なまでに早まっている。こいつァ、一体どういうことだ……」
困惑した猫宮の声音が事務所に響く。
久保と東雲は猫宮が溢した「見藤の死期」という言葉を耳にした瞬間、顔を青くした。東雲に至っては、目に大粒の涙を溜めている。
猫宮は巨体を覆う毛を逆立たせて、ナニかを警戒する動きを見せた。
「死の匂いに妙な気配が混ざってるぞ……! うっ……こいつ、確実にナニかに干渉を受けている」
「私、のせいよ……私がこいつを手放したくなかったの。……きっと、その変な気配というのは……、私達の縁に介入している存在」
「なんたって、そんな事――」
一体、何者が縁切りを行っているのか。
霧子は猫宮の問いに対する答えが分からず、悔しさで唇を噛み締めた。
見藤と霧子。二人が繋いだ、人と怪異の間で交わされた契約。そして、共に過ごした二十年余りの月日。その間に芽生えた互いを想い合う関係すらも、断ち切られようとしている。
――縁切り。それがもたらすものは、人の死か、二人の別れか。二人に残された選択肢はひとつだ。
長い沈黙と細い吐息の末に霧子が口にした言葉は、別れを意味したものだった。
「方法は、あるわ。結んだ縁。それを――――、切るのよ」
霧子の言葉を聞いた瞬間。見藤のひゅっ、と息を呑む音が彼女の耳に届く。
そして、見藤は未だ続く痛みがあるのだろう、顔を歪ませながらも、霧子の提案を否定する。
「駄、目だ」
「既に切れかけていたのよ……。だから、私は切れかけた縁を戻そうと本能に身を任せて、あんたを喰らおうとしたんだわ。あんたにも、影響が出て……原因不明の頭痛があんたを襲うようになった。やられた……、こうなるまで気付かないなんて」
しかし、霧子も見藤の意思は受け入れられないようで、緩やかに首を横に振ったのだった。
霧子が告げた事実――。それは少し前の出来事だ。霧子が見藤を喰らおうと、傷を負わせた要因。そして今、目前で起こっている異変の原因だった。
見藤から縋るように伸ばされた手を、霧子はそっと握った。骨ばった見藤の手はいかにも男性的で大きいはずだが、怪異本来の姿をした霧子が握ればその大きさに大差はなくなる。その手を愛しそうに見つめる霧子の表情は憂いに満ちている。
だが、見藤は霧子から突きつけられた事実が到底受け入れられず、困惑した表情のまま。彼は思わず、声を荒げる。
「……くそ、駄目だ! 縁を切るなんて――、そんなことを、すればっ……また会える可能性は」
「恐らくこのまま抵抗すれば、あんたは死んでしまう……。怪異と人、その縁を切るなら人を殺めた方が早いもの……ほんと、悪趣味ね」
「そ、れでも……!」
「駄目よ、絶対に。それだけは許さない。それに――、きっと……また見つけるもの」
――見藤自らが死を選ぶことなど、霧子は決して許さない。それが何モノかによる介入であるなら、尚更だろう。
霧子は意味深な言葉を見藤に告げると、そっと微笑みかける。しかし、彼女の表情は愁い、そして二人の縁を断ち切ろうとする存在への怒り、様々な感情が入り混じり、複雑な心の内を必死に隠そうとするものだった。
そんな霧子の表情を目にした見藤は言葉を詰まらせる。
――長い沈黙の末に、次に見藤から出た言葉は重く、その声は掠れていた。
「迎えに行く、必ず」
一言一句、苦しそうに呟いた。
その言葉を聞いた霧子は、意を決したように唇を固く結ぶ。その唇は、震えていた。
見藤は霧子に握られていた手を解く――。そして、次に口を開いたときには、彼女の名を呼ぶことはなかった。それは、僅かに繋がっていた縁の糸を断ち切る行為だった。
「お還り下さい、八尺様……」
見藤がその名を口にした―― 、瞬間。
事務所に祀られていた霧子の神棚が墜ちたのだ。けたたましい音を立てて、鏡が割れる。それはまるで、彼女の哀しさや怒りを表しているかのようだ。
それは神棚に留まらず、見藤が霧子とのデートで買った竜胆の植木鉢。その植木鉢は真っ二つに割れ、彼女が愛用していた紅茶ポット、ティーカップが次々に割れた。それは、霧子の存在を――、まるで端からそこに存在しなかったように理が働いたと捉えられる現象。
その喧騒が治まった時。見藤の表情は苦痛に満ち、顔の前で組んだ手は怒りか、後悔か――僅かに震えていた。そして、顔を覆うように組んだ手を額に当て、天を仰ぐ。
霧子が屈んでいたはずの場所には何もなく、その姿を完全に消してしまったようだ。
――見藤と霧子の縁は完全に断ち切られてしまったのだ。
久保と東雲は物が次々に壊れる喧騒に堪らず、耳を塞いでいたようだ。二人がそっと、目を開け、耳から手を離すと――。
「二人は、帰ってくれ」
そう言い放った見藤が覆った手の隙間から目にしたのは、床に落ちた小さな鏡の破片。そこに映っていたのは、自身の瞳に宿る深紫色の眼だった。
それは彼がかつて捨てた不思議な力を宿す眼。見藤と霧子の縁が切られたことによって、彼らの契りは白紙となり、持ち主の元へ返ったのだろう。
少しの静寂が事務所を包んだ後。見藤は久保と東雲を一瞥することなく――。
「事務所はしばらく休業だ」
低く掠れた見藤の声が、静まり返った事務所内にはやけに大きく響く。
――そうして、見藤を蝕んでいた頭痛は、ぴたりと治まった。




