47話目 縁切り
それから翌日。昼も終わりを迎えようとしている頃、見藤は事務机に向かい電話をしていた。心なしか、彼の眉間には皺が寄せられている。
――見藤と霧子が偶発的に遭遇した、古の神々の一柱、豊玉姫の残滓とも呼べるモノ。
古の神々の残滓。それが現代に残されていたのだとすれば、新たな問題を引き起こしかねない。
怪異は認知の残滓を喰らうことがある。それこそ猫宮のように、特殊な生まれを持つ妖怪や、認知の浅い怪異が力をつけるために残滓を喰らうのだ。それが、神々の残滓であったならば――。それにより得られる力は計り知れないだろう。
見藤は受話器の向こう側にいる悪友に、水族館で遭遇した得体の知れないモノによる事の顛末を伝えた。それは今後、それに類似した事件が起こった際には貴重な情報源となる。
見藤から連絡を受けた斑鳩は、突如として起こった稀有な事件について寝耳に水であったようだ。彼は電話の向こう側で、呆れたように溜め息をつき、口を開いた。
『まぁた、お前は面倒なことに巻き込まれてんな』
「不本意だ」
『それはそうだな。って、キヨさんには報告したのか?』
見藤の痛い所を突いた斑鳩の一言。そのひと言に見藤は眉間を押さえながら、現状を白状した。
「……これからだ」
『早く報告しとけよ。これから――、忙しくなる』
「……?」
斑鳩から意味深に吐かれた言葉に見藤は疑問を抱く。
すると、斑鳩は見藤が言わんとすることを察したのか、もったいぶったように言葉の先を続ける。
『最近、立て込んでてな』
「何か、あったのか――」
『呪い師名家の動きが活発になっている。表立って良からぬことを画策している連中もいる。まぁ、大概……斑鳩家が糾弾すれば蜥蜴の尻尾切りと言わんばかりに――、おい、見藤?』
電話口に聞こえる斑鳩の声が大きくなる。
見藤は平衡感覚を失ったような錯覚に陥り、思わず机に突っ伏した。その時、大きな音を立てたため、斑鳩は何事かと声を上げたのだ。
斑鳩からの呼びかけに見藤は眉間を押さえながら応える。
「っ……、問題ない」
『おいおい、不摂生か?』
「違う」
『いやぁ、俺もこないだの件は嫁さんにしこたま怒られたからな。この歳になると健康は資本だぞ?』
「やかましい。そもそも、お前のあれは――」
そうして、いつもの通りの軽口を叩き合いながら通話を終える。
受話器を置いた見藤は深く息を吸った。そして、再び受話器を取る。先の事件をキヨに報告するのだ。予想される彼女の御小言に辟易としながらも、見藤は電話を掛けたのであった――。
それから、キヨへの報告を終えた見藤は、どっと疲れが押し寄せて来る感覚に溜め息をついた。ふと、神棚を見上げ、その視線を時計に向ける。時計は既に昼過ぎを指し、いつもなら霧子が神棚から降りて来る時間はとうに過ぎている。
しかし、霧子はいつになっても神棚から降りて来なかった。見藤がお供え物を取り替える日課を終えても、いくら時間が経とうとも彼女の気配すら感じられなかった。
(昨日……、霧子さんの機嫌を損ねてしまったのか…?)
神棚を見上げながら、見藤は気まずそうに頬をかいた。
霧子に触れようとしなかったのは、事実だ。神の残滓という、稀有な事件に巻き込まれた経緯もあり、霧子が己を省みず自身が傷付く行動をとった。己の不甲斐なさへの怒り、疲労から、彼女と触れ合うなどという気分に到底ならなかった。
それに――。
(……流石に動機が不純過ぎる。我ながら、みっともないにも程がある)
見藤の胸中を占めるのは自責の念だった。最近は下手に霧子に触れてしまえば、己の内に抱えた愛情と劣情をぶつけてしまいそうだった。己の欲に対するせめてもの抵抗で、彼女の手に触れるだけであれば純粋な愛情を向けることができた。
しかし、それに対して抱くのは自己嫌悪と、過去の外傷体験への恐怖だ。霧子と本当の契りを交わす決意をしたつもりであったが、事件を経てその気持ちが揺らいでしまったのだ。更に言えば、見藤を度々襲う例の頭痛も関係している。
(くそっ、またあの頭痛だ……)
見藤は眉を顰め、痛みが治まるのを待つ。
例の頭痛は、日に日にその頻度を増やしていった――。そして、数日経っても霧子は姿を見せなかった。
* * *
その日。凍晴の眩しさに目を細めながら、見藤の事務所へ向かう久保と東雲の姿があった。閑散期に入ったこともあり、事務所に足を運ぶ頻度は減りつつも、こうして二人は見藤と霧子、そして猫宮との談笑を楽しみにしている。
見慣れた扉を遠目に、ふとその前に佇む長い影を視た。どうやら、その影は女性のようで扉の前で右往左往している様子が窺える。
久保と東雲は近付くにつれ、その人影の正体に首を傾げた。
「ねぇ、久保。あれ……霧子さん?」
「あ、本当だ。どうしたんだろ」
「それに、あの姿は……?」
霧子の姿に疑問を抱く二人。
彼らが目にした霧子の姿は、いつも模っている人の姿ではなかった。彼女の背丈は人のそれよりも遥かに高く、それは怪異としての本来の姿だった。身に纏う白地のワンピースは首元に細やかなレースの装飾が施されて、彼女が動くとスカートの裾が可憐に揺れた。
霧子は久保と東雲に気付いたのか、振り返る。その表情は困惑に満ちていた。
「あっ……、二人とも」
「どうしたんですか、霧子さん」
「それが……、あいつが据えてくれた神棚に還れなくて。それにっ……、取り憑いているはずなのに、気配が感じられなくて」
「お、落ち着いて……!」
徐々に、語気が強まる霧子をなだめる久保。
霧子の言葉には焦りが感じ取れ、彼女の表情は困惑したままだ。久保と東雲に情況を説明しようとするも、上手く言葉にできないのか身振り手振りで伝えようとしている。
「どんどん、離れていくの……!」
「離れて行く……?」
「えっと……、あいつと結んだ縁が、どんどん細くなっていくのを感じて……! このままじゃ――」
「と、取り合えず中に入りましょう……!」
にっちもさっちも行かず、久保は霧子にそう提案したが、彼女は事務所へ入ろうとしない。それを怪訝に思い、久保と東雲は首を傾げた。
すると、霧子はおずおずとその理由を説明してくれた。
「……私は、こういう怪異だから。許しがないと、その中に入れないの……。今までは、あいつとの縁が固く結ばれていたから許しがなくても、入れたのに……突然、こんなことに……!!」
どうやらそれは霧子の怪異としての特質のようだ。
時に、怪異や妖怪という存在は人の領域に足を踏み入れるためには人の許しや言葉を交わす必要がある、という制約がある。これまで霧子は見藤との誓約に加え、与えられた名と共に過ごした時間により、固く結ばれた絆があったのだ。だが、それがどういう訳か白紙に戻されようとしている――。
霧子の動揺を感じ取っている東雲は、霧子の手を引き安心させようと声を掛ける。
「大丈夫です。それなら私達と霧子さんの繋がりがあるので、このまま一緒に入れば……。霧子さんも事務所にも入れるはずです」
「そ、そうね……」
「はい! なぁ、久保。そのままドアを開けてくれる?」
二人は頷き合い、久保がドアノブに手を掛けようとした――。すると、突然に中から猫宮の声がした。
「オイ、小僧と小娘!! 扉の前にいるんだろう!? 早く、こっちに来てくれ……!!」
「え、猫宮……!? わ、分かった!!」
猫宮の言葉と焦った声音から察するに、何かあったのだろうか。
久保と東雲は血相を変えて、扉を勢いよく開けた。




