46話目 泡に消えた楽欲②
黒い靄は蠢くように床を這い、散らばったガラス片や息絶えた魚を飲み込んでいく。それはゆっくり移動し、その過程で触れた物を巻き込んでいるようだ。すると、徐々に靄ではなくなり、ガラス片と魚であった肉塊の体を持つ――、ナニかに変貌を遂げた。
それは鋭利なガラス片が僅かな照明に反射し、鈍色となる。息絶えた魚をその体に取り込んだためか、鱗や肉塊、その風体は形容し難い造形となっている。そして、さらに蠢く肉塊を変貌させ――、大鰐へと姿を変えた。
大鰐は一歩、また一歩と腹を擦りながら濡れた床を這っていく。まるで目指す物を知っているかのように。
◇
見藤と霧子は順路を逆走しながら避難を続けていた。依然、水槽内定水位による警告、避難を呼びかける館内アナウンスが繰り返される。
――ようやく辿った順路の半分まで戻ったところか。
少し先から声が聞こえる。どうやら、そこまで避難してきた他の来館客のようだ。集団心理か、他にも避難者がいることに見藤はどこかほっとした表情を浮かべた。
見藤は隣に立つ霧子を見やる。彼女は先程から、例の視線を気にしている。しかし、見藤にはその視線は感じられない。
霧子の言う視線を探しているうちに、通路の先から聞こえていた声が消えた。どうやら、取り残されてしまったようだ。見藤は避難を続けようと、霧子の手を引いたが――。
――ひた、ひたひた。と床に吸い付くような水の音。
異質な音は、見藤と霧子の鼓膜にこびりついた。はっと、二人が振り返るとそこに現れたのは、形容し難い体を持つ大鰐。その姿はおぞましい、その一言に尽きるだろう。
見藤はこれでもかと眉を寄せ、その姿に嫌悪を示す。この異質な状況下で悠々と姿を現すものなど、怪異以外思い当たる存在はない。
「怪異――、には到底……視えないなっ!!」
語気を強め、悪態をつく。見藤は引いていた霧子の手をそっと離すと、彼女を背に庇う。
すると、霧子は庇う必要などない、と示すように見藤の隣に立つ。
稀有な事故に遭遇したものだと考えていたが、どうやら違ったようだ。偶発的に遭遇する人を襲う怪異、その存在ほど面倒なものはない。いくら怪異に寛容な見藤と言えど、怪異が人の世に過剰干渉し、人を襲えば対処しなくてはならない。
見藤は目前にした大鰐を視界に捉えながら、焦りを気取られないよう心の内に呟く。
(少々、まずいな)
そう、今日は霧子と水族館に出掛けるという目的だった。それ故に、そもそも呪いの道具は最低限にしか持ってきていなかった。不測の事態を考え、唯一持ってきた札も先程使ってしまったのだ。
ぐっと唇を噛んだ見藤の表情が険しいものに変わる。一歩、また一歩と、大鰐はその短い足を進め、こちらとの距離を詰めて来る。一体、何が目的なのか――。
すると、大鰐はぴたりと歩みを止めた。見藤と霧子、二人がその動向を注視していると――。突如、がぱり、と大鰐の口が開いた。息絶えた魚の残骸、そしてガラス片が混ざった肉塊で形成された体は維持するには少々難があるようだ。開いた口の一部が崩れ落ちる。
そして、崩れ落ちた肉塊が床に落ち、鈍い音を立てた時だった。
『怪異ノ女が人間ノ男と契ったノか、狡い狡い狡い狡い狡い狡い狡い狡い狡い狡い狡い狡い!!!』
それは唐突に金切り声を上げた。
取り乱しながら同じ言葉を繰り返す大鰐に、霧子は得も言われぬ不快感を抱いたのか、不安そうに眉を寄せ、後ずさる。そして、その言葉の意味も不可解だ。
霧子は怪異である、という事実は同列存在である怪異であればその気配から察することができるだろう。しかし、一体何故、この大鰐は見藤と霧子が契りを交わしていると知り得ることができたのか。――そのような思考、この状況下では無意味である。霧子は、その思考を払拭するように首を振った。
大鰐が大きな口をもたげると、再び周囲に響く破裂音。そして、低水位を知らせる警告と共に、大量の水の音。
大鰐が行く手を遮る廊下の後方から響く、水が押し寄せてくる音を耳にした見藤は目を見開く。
「流石にまずい……!!」
見藤はこれでもかと悪態をつき、焦りを隠せない。
霧子は見藤を見やった。水流を凌ぐ札のような道具は手元に残っていない。だとすれば、残る手段は逃げる――、一択しか残されていない。
しかし、通路は一直線。走るよりも、水流の方が早い。そして、この目前の大鰐がそう易々と見逃してくれるとも思えない。
霧子はふっと目を伏せ、見藤の前に一歩踏み出した。そして、纏っていたコートを脱ぎ始める。それはコートに飽き足らず、ニットにブーツ。脱げる物を全て脱ぎ捨てていき、肌が露になってゆく。瞬く間に、彼女の姿は肌を露にしたものに変わってしまった。
霧子が取った行動に見藤は驚きの余り、取り乱す。
「霧子さん!? 何をしてっ……!?」
「なによ、あまりじろじろ見ないことね。全く、面倒ね……。怪異の姿に戻ると、せっかくお気に入りのお洋服が破けたり、神隠しの要領であっちに持っていかれたり。そうすると、この世で着れなくなっちゃうのよ。勿体ないでしょ?」
「……は?」
そう言い終えるや否や、霧子は怪異としての姿に変貌した。
亭々たる長身は彼女の美しさを更に強調させ、凛とした佇まいは畏怖の念を抱くに相応しい。その花紺青の色をした力強い瞳は真っ直ぐに敵を捉えている。そして、少し動くとふわりと白地のワンピースの裾が可憐に揺れた。
「このまま守られるようじゃ、名折れだわ」
その言葉と共に、さらりと艶やかな黒髪が見藤の視界を掠める。
見藤は久方ぶりに見た霧子本来の姿に目を奪われていた。だが、はっと我に返り天井に視線を向けて、監視カメラの有無を確認する。
――あの時のように霧子本来の姿を、有象無象の人の目に捉えられるのは許し難い。
見藤は視線を動かす。だが、どうやらこの通路に監視カメラは設置されていないようだと、ほっと息を吐き出す。のも、束の間――。
「来るわよ!! 構えなさい!」
「構えるって、どう ――」
霧子の言葉を理解する前に、ぐらりと見藤の視界が揺れた。
霧子は見藤をその腕に抱きかかえ、身を呈して盾となったのだ。なるべく身を屈め、濁流と化したガラス片や魚、装飾物、そして水から見藤を守る。
怪異本来の姿をした霧子であれば、その亭々たる長身に見合った体の大きさから、水流に押し流されることはなかった。しかし、それは霧子の体に傷を負わせることに他ならない。見藤に寄せられた霧子の美しい顔は苦痛に歪み、唇を噛んでいた。
――見藤の中に渦巻くのは、困惑と後悔、そして自身の不甲斐なさ。思わず、彼女の名を呼ぶ。その声は悲痛な叫びにも似たものだった。
「っ……!!! 霧子さん!」
目の前にある、苦痛に歪む霧子の顔。見藤が彼女の頬に手を添えると、ふるりと睫毛が揺れ、花紺青の瞳と視線が合う。
すると、霧子は困ったように眉を下げた。だが、少しだけ嬉しそうに微笑んでみせたのだ。
「……なんて顔してるの、問題ないわ。社に戻れば治るもの」
「違う、そういう事を言ってるんじゃないっ!!」
「ふふ、馬鹿ね……」
霧子はそう言うと、見藤を腕の中から解放した。その時、少しだけ彼の頬に自らの頬を擦り寄せた。
霧子の低い体温が離れる瞬間に、見藤を不意に襲う痛み。脈打つ血管が例の頭痛の訪れを知らせる。その痛みをやり過ごそうと、目を瞑った。
(あぁ、くそっ……こんな時に痛む奴があるか!!)
心の内に悪態をつき、痛みに耐えるように奥歯を噛み締める。
この状況下で悠長に頭痛など気にしていられない。痛みが治まらないうちに目を開ける。目に入ったのは、傷を負いながらも見藤を心配そうに見つめる霧子の表情だった。
霧子は屈めていた体を起こし、ゆっくり立ち上がる。そして、背を向けていた大鰐に見向かう。彼女の腕や背には、ガラス片や鱗によって付けられた傷が痛々しく残っている。霧子の背後で息を飲む音が微かに聞こえた。
――きっと彼は自責の念に駆られている。そう思い、霧子は後ろを少しだけ振り返ると、首を横に振った。
「悠長に人の心配してる場合じゃないわよ」
「くそっ……」
霧子が言うことは尤もだ。見藤は己の不甲斐なさに悪態をつく他なかった。
濁流が過ぎ去った床は例にもよって、ガラス片や息絶えた魚や鮫が散乱していた。すると、大鰐の肉体を模っていた肉塊が崩れ、散らばる。肉塊は蠢きながら、床を這う。赤黒い肉体は床に散乱した息絶えた魚と鮫を次々に取り込んでいく。
――瞬く間に、大鰐だったものは巨体な鮫へと変貌を遂げた。
鮫となった肉塊は口を開くと、またもや同じ言葉を繰り返したのだった。
『怪異ノ女が人間ノ男と契った!!! 狡い狡い狡い』
「また、それ……!!」
霧子は不快感に眉を寄せ、見藤を背に庇いながら対峙する。
――その瞬間。鮫は腹ばいになりながら体を左右に揺らし、こちらに突進してきた。




