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【完結】禁色たちの怪異奇譚~ようこそ、怪異相談事務所へ。怪異のお悩み、解決します~   作者: 出口もぐら
第五章 楽欲編

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46話目 泡に消えた楽欲


 その日。事務所には余所行きの格好をした見藤と霧子の姿があった。

 見藤は珍しく身なりを整え、スラックスにクルーネックのニット、チェスターコートを羽織っている。霧子はそんな見藤の格好を目にすると、合格と言わんばかりに頷いた。

 見藤は彼女の満足気な表情を見ると、安堵の表情を浮かべる。そして、そっと手を差し伸べた。


「それじゃあ、行こうか。霧子さん」

「えぇ」


 おずおずと伸ばされた霧子の手。見藤の手を取ろうとしたが、その指先が触れるとさっと手を引いてしまった。――未だ彼女は見藤に触れることを躊躇っているようだ。

 しかし、見藤は僅かに触れた霧子の指先を追うことはなく、静寂に耐える。彼は霧子を尊重し、彼女の心が決まるのを待っていた。

――その手に触れてもいいのだ、と。


「大丈夫だ」

「……、そうね」


 霧子は不安を払拭するかのように首を横に振った。

 そう、今日はせっかくのデートなのだ。沈んだ気持ちでは楽しめない、そう言い聞かせながら霧子は見藤の手を取った。


◇ 


 冬の水族館というのは意外と乙なものなのかもしれないと、見藤は天井まで続く水槽を見上げながら思う。冷えきった空気が水槽の青をより深く感じさせる。足元は暖房が効いていて、それほどこの寒さも苦ではない。そして平日ということもあり、人の往来も少ない。順路を辿って行くと徐々に人の流れは消えた。


 見藤の隣を 歩く霧子は海の生き物が物珍しいのか、表情をころころと変えている。


「ね! ペンギンよ! 可愛い」

「そうだな」


 彼女のそんな様子に思わず、見藤の口許が緩む。

 水族館を訪れる前は見藤を子どものようだと言った霧子だが、いざ訪れてみると彼女は少女のように楽しんでいる。そのことが見藤にとってはとても愛しく、可愛らしく思えるのだ。


 足を進め、順路を行く。すると、そこは天井が水槽となった展示場だった。見藤と霧子は頭上を泳ぐ、魚影を見上げる。


「鰯の群れだ」


 旨そうだな、と思ったことは口に出さない方がいいと思い至り、彼はそっと口を閉じた。

 すると、同じく鰯の群れの魚影を見上げていた霧子がぽつり、と。


「あの魚、美味しいのかしら……」

「ぶっ、……はっはっは!!」

「なによ」

「いや、何でもない」


 思わぬ霧子の言葉に見藤は笑い出してしまった。

 どうやら二人は感性が似ているようだ。――長年、共にいれば少なからず似てくる部分もあるということだろう。


 水槽という限られた空間にも関わらず、優雅に泳ぐ魚の群れや、海獣。その優雅さは、自由であるような錯覚を覚えるには十分で。

 水槽を見上げ、泳ぐ海獣をじっと見つめる霧子の姿。暗めに設定された照明と、水槽の青。それらに囲まれた彼女は儚げな雰囲気を纏い、その美しさは見藤の視線を奪う。しかし、彼はふっとその目を伏せた。


(……本当に俺は、狡い人間だ)


 彼女の自由を望んだ少年は、こうも狡い大人になってしまったと見藤は自嘲する。そして、霧子という存在に抱いた愛情を強く自覚したのだ。

 長身の怪異という集団認知を切り離し、霧子という個としての存在を繋ぎ止めるためには、恐らく深紫色の眼を対価にしただけでは足りない。そして、毎日お供え物を献上したとしても足りないのだ。

――霧子と共にある未来を欲すれば、それに見合ったものを捧げなければならない。


(怪異と契りを交わす、本当の意味……か)


 見藤は心の内の呟きを噛み締める。

 少年の頃に霧子と交わした契り。それはただの、人と怪異の間に交わされた利を目的とした契約だった。しかし、人と怪異の間に交わされる、もう一つの契りがある。


(怪異に魂を捧げる行為……)


 見藤はちらりと、隣に立つ霧子に視線をやる。依然、彼女は目の前の水槽に夢中な様子で、見藤の真っ直ぐな視線に気付いていない。


 霧子という怪異へ自身の魂をも捧げる、それは既に見藤の中ではとっくの昔に決めていたことだっただろう。しかし、その手段とも呼べる行為が彼を踏み留まらせていた。それには少なからず、過去に負った心の傷が関係している。

 それを乗り越え、男女の契りを交わすとき。霧子が求めた見藤の魂は正真正銘彼女のものとなる。

――その心積もりが、ようやくできたのだ。


 しかし、それは魂の輪廻からの脱却を意味する。そうなれば、もう二度とその魂は人の形を成して現世にその生を受けることはなくなる。だからこそ、霧子はそのときまで見藤に猶予を与え続けた。


 そして、見藤が霧子に抱く感情は――。その猶予を長年、与えてくれた彼女への感謝と仁愛だ。なにも、怪異である霧子からすれば人の尊厳を奪うことなど雑作もないこと。だが、霧子は見藤という一人の男に寄り添い続け、その行く末を見守り続けた。

 そんな霧子を想うと沸き上がる感情は、心の内に留まる所か溢れだしそうになり、それを見藤は必死に塞き止めている。



 ふらり、と霧子が目前の水槽から移動する。その動きは軽やかなステップを踏み、すっと見藤の視線を外れた。唐突に、霧子の姿を見失うかもしれないという錯覚に陥った見藤は、慌てて彼女の後を追う。


 そして、霧子はまた違った水槽の前で足を止めた。大きな水槽を前に隣に並び立つ二人。


 霧子は目前の水槽中を泳ぐ魚達に釘付けのようだ。そんな彼女の横顔をしばらく見つめていた見藤は、そっと彼女の手を握った。

 どうかしたのか、と霧子の視線が見藤へと向けられる。年甲斐もなく、見藤はおずおずと口を開いた。少しだけ、握った手に力が籠る。


「あの……」

「ん?なぁに?」

「今晩、大事な話が――」


 その先の言葉を見藤が紡ぐことはなかった。

――瞬間、二人を襲ったのは耳をつんざくような高音、そして何かが割れる音。

 さらに、低水位を知らせる警告音が周囲一帯に鳴り響く。一体、何事だと辺りの状況を確認する。しかし、人の往来がないため何も状況が掴めない。すると、館内アナウンスが流れ始めた。


『――へ、越しのお客様にお知らせします。一部水槽で低水位を知らせる警告を感知しました。お客様におかれましては、直ちに館内入口付近まで避難を――、慌てず、館内スタッフの誘導に従い――』


 途切れた音声が繰り返される。

 アナウンスを聞いた見藤はすぐさま霧子の手を引き、安全な場所へ避難しようと試みる。稀有な事故に遭ったものだと、眉を寄せて小さく悪態をつく。

 しかし、優先すべきは彼女の安全だ。一向にその場から離れようとしない霧子を急かすために声を掛けた。


「霧子さん、俺達も避難を――」

「ねぇ、あれ……!」


 霧子の視線の先、それを確認する前にけたたましい亀裂音が耳に届く。二人が並び立っていた水槽から、すこし先。そこの水槽が爆ぜたのだ。


「……っ、伏せろ!?」

「きゃっ……」


 見藤はそう叫びながら、霧子に覆い被さるようにして身を屈めた。

 突風と大きな水飛沫が頭上を行き交う。水槽破裂の衝撃は二人を襲い、腰を低くして身を守ったはいいものの。――途端、押し寄せる水流。水流の中には強化ガラス片、生物、様々な物が入り混じっている。


 見藤は視線を上げ、周囲を確認する。不幸なことに通路は直進、水の流れを遮る物もなく、このままでは水流の餌食だ。視線を戻すとこちらに向かって来る水流はすぐ傍まで迫っている。


 突如として訪れた危機を目の前に、見藤は奥歯を噛み締める。身を屈めた霧子の安全を確認すると、彼女を背に庇い、肩に掛けていた鞄から蛇腹に折られた紙の札を取り出した。


(これでなんとか、凌げるかっ……!?)


――迫る水流。

 見藤は蛇腹に折られた札を足元に投げ捨て、勢いよく踏みつけた。踏みつけられ、くしゃり、と札が形を変えると同時か。


「うっ……」


 水流が二人を襲った。


 だが、見藤が踏みつけた札を中心に、幾重の層となった空気が彼らと水流の間に入り、押し流されることは免れた。見藤の腰ほどの高さを、二人を掻き分けるように水が流れていく。

 どうやら札の効果は水のみ有効のようで、空気の層を抜けたガラス片や、魚らは二人の足元に転がっていく。

 足元に小刻みに跳ねる魚を目にした見藤はこれでもかと眉を寄せ、悪態をつく。


「くそっ、……最悪だ」

「大丈夫……!?」

「あぁ……。霧子さんは?」

「問題ないわ」

「そうか、よかった……」


 そう言いながら、見藤は背に庇っていた霧子を振り返る。

 すると、控えめにジャケットの裾を引かれた。霧子の手が裾を少しだけ掴んでいる。その手を目にした見藤は、すかさず彼女の手を握った。


 そして、二人は亀裂音がした方角を見やる。しかし、その先には何もなく依然、避難誘導を呼びかけるアナウンスが館内に響いている。未だ掴めぬ状況に見藤は困惑した表情を浮べた。


「一体、何が起きてる……」

「分からないわ……。でも、とても嫌な視線を感じるのよ」

「……?」


 不安げな霧子の表情を目にした見藤は眉を寄せ、握った手に力が籠る。

 不運にも遭遇した稀有な事故。霧子との時間を台無しにされたばかりか、彼女にこのような表情かおをさせるとは――。見藤は鬱積した感情を隠すことなく、顔に出していたようだ。霧子とふと視線が合うと、更に困ったように眉を下げられてしまった。

 しかし、今は考えても仕方がない。避難を優先させるべきだと判断し、見藤は霧子の手を引いた。


「行こう」

「え、えぇ……」


 見藤の言葉に霧子は頷く。

 濡れた床を踏みしめる度に水音が辺りに響く。大きなガラス片とえらを必死に動かしている魚達が床に転がっている。それらに目をやることもなく、見藤は霧子の手を引く。

 異質な状況下において――、残滓とも呼べる黒いもやが二人の後を追いかけていることに、気付く術はなかった。


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