6話目 機微に疎い男は想い人に許しを請う②
* * *
事務所に響く、呑気な東雲と久保の声。
「猫宮ちゃん! ただいま~」
「猫缶、買ってきたよ」
丁度、扉が開いたところに、見藤の言葉にならない叫びが木霊した。
「~~~~~っ……!!」
「ちょっと、動かないの!! これで最後なんだから!」
久保と東雲の目に飛び込んできたのは、湿布を片手に見藤へ襲い掛かる霧子の鬼の形相だった。
流石の見藤も、手当と言う名の報復に涙目だ。既に数か所は湿布が貼られている。その度に霧子の容赦ない力で湿布を体に押し付けられていたのだろう。
ソファーに座り、前屈みになりながら痛みに耐える見藤。その姿を見れば、久保と東雲の中には多少の哀れみが浮かんだ。
久保は思わず、言葉を溢す。
「うわぁ……、痛そう」
「霧子さん。なんて、容赦のない……」
東雲が後に続いた。
久保と東雲は目を点にする。よく見ると、見藤の首元には湿布を貼るために中途半端に脱いだシャツが引っかかっている。その下はもちろん上裸だ。普段、使い古されたスーツに隠されていたのが雄偉な体であるとは想像もつかなかったのだ。
更に、見藤の風貌の変化も、二人の視線を釘付けにしていた。普段は分けられている前髪は下され、蓄えられた髭も綺麗さっぱりなくなっている。それ故に、いつもより若々しく見える――、というより幼く見える、と表現した方が合っているだろう。
実のところ、見藤は童顔だ。仕事柄だろうか、相手に与える印象のため強面に見えるよう、見藤なりに繕っていたのだろう。これは新たに目にした見藤の一面だ。
見藤を見つめていた東雲は、途端にぷいっと視線を逸らしてしまった。
見藤と霧子の仲睦まじい様子を見ていられなくなったのだろうか。久保は心配そうに東雲へ視線を向ける。
しかし、彼女が呟いた言葉は――。
「あかん、顔と体が良すぎて直視できひんわ」
「ほんと、流石だよね」
「褒めてる?」
「多少」
呆れ半分、関心半分。久保は東雲の扱いにも慣れてきた頃だ。
すると、久保と東雲の存在に気付いたのだろう。見藤は慌ててシャツを着た。
しかし、二人はあの湿布の下に、鬱血痕があることを知ってしまった。自分たちの軽率な行動が見藤に怪我を負わせてしまったと、今更ながら後悔している。
そうして、シャツを着たことにより、隠されていた首元が露になる。しっかりと残された、絞痕。
久保は息を呑み、慌てて見藤の元へ駆け寄った。
「その痕……! 見藤さん、病院へは!?」
「いや、こんな痕を見られたら事件性ありと見なされて大騒ぎになるだろう。時間が経てば消える。気にするな」
こともなげに言ってのけた見藤。久保は眉を下げることしかできなかった。
一方、久保と東雲の落ち込んでいる様子を目にした見藤。帰ったら説教してやると息巻いていたが、あまり強く言えなくなっていた。
「座りなさい。まぁ……、俺の忠告を無視したことは反省しろ」
「「はい……」」
厳しい一言だが、効果は絶大だ。
見藤に促され、向かいのソファーに腰を下ろした久保と東雲。二人は意気消沈と言わんばかりに、肩を落とした。見藤の隣で、ことの成り行きを見守っていた霧子は心配そうに見つめている。
二人の様子に、見藤は深い溜め息をつく。
「で、君らの方は大丈夫そうか?」
「はい。あの後、同行していた――煙谷さん、でしたっけ。あの人が色々してくれたので、何事もなく。見藤さんは、大丈夫でしたか……?」
煙谷の名前を聞いた途端、見藤の眉間に深い皺が刻まれた。見藤は辟易とした表情を浮かべながら、口を開いた。
「はぁ……、まぁ……。どうやって自分が助かったのか、分からんが」
「えっと、その――」
その言葉に、久保は煙谷から言われた言葉を思い出す。
『見藤には内緒だぞ』
久保は慌てて口を噤む。煙谷が怪異である、という事実は久保だけが知る秘密だ。
すると、事務所内に新しい声が響いた。
「呼ばれた気がしたけど、合ってる?」
「呼んでない」
――煙谷だった。
ふらり、と煙谷が現れたのだ。咥え煙草をしながら、こちらへ歩いて来る。周囲に煙草特有の臭いが立ち込めた。その臭いに見藤は更に眉を寄せ、激しく咳き込んでいる。
よほど煙谷が気に食わないのか、見藤は彼を一瞥もしない。咳き込んでいた見藤は、ようやく口を開くことができたようだ。
「おい、うちは禁煙だ!」
「まずは感謝の言葉の一つや二つ、僕に言うのが先じゃない? 君を助けたのは僕だよ?」
煙谷の要求は至極当然だった。しかし、見藤の態度は変わらない。
すると、煙谷は咥えていた煙草をつまむように手に持ち、ふっと、悪戯に見藤の顔に軽く煙を吹きかけたのだ。
突然のことで避けようがなかったようだ。見藤は再び激しく咳き込み始めた。ほんの少しの煙だったが、肺に深く吸い込んでしまったのだ。「ゲッホ、ゲホゲホッ、ひゅーっ」と、気道が狭まる音がした。
見藤は涙目になりながらも、じろりと煙谷を睨みつける。
「こいつ、暴行罪で突き出してやる」
「ふぅん」
相変わらず飄々としている煙谷の態度。まさに一触即発だ。
すると、とてつもなく強くローテーブルを叩く音が二つ、同時に響いた。霧子と東雲だ。彼女たちは、煙谷の見藤に対する行為が許せなと言わんばかりに、怒りを露わにしている。
「流石に今のは、あかんことやと思いますけど」
「煙谷、あんたねぇ……!」
ぎろり、と煙谷を睨みつける二人。
霧子に睨まれた煙谷は流石に一瞬たじろいだのだ。だが、東雲の方を見ると何か面白いものを見つけたとでも言うのか、にやりと笑い、飄々とした態度に戻ってしまった。
「へぇ……。君、面白いね。助手として、うちの事務所に来ない?」
「お断りします。助けてもろたんは感謝しますけど。さっきの、見藤さんにしたことは許せません」
「ふーん」
「そもそも! あんさん、うちのタイプと違います」
断固とした態度をとる東雲の強さに、久保と見藤は呆気にとられていた。
そして、霧子も同様に睨みを利かせている。しかし、煙谷は飄々とした態度を変えることはなく、面白おかしく言い放つ。
「まぁ、そこまで抗議されたのなら仕方ないね。からかうのは止めるよ」
「そう、なら早く消えることね。私、今とても機嫌が悪いのよ」
低い声で話す霧子は、場を凍り付かせるような雰囲気を纏っていた。そんな彼女に負けたのか、煙谷は肩をすくめながら一枚の紙をローテーブルへ投げる。
「これ、調査報告書。あの婆さんに送っといて」
「はぁ!?」
紙には一言「特記すべき事象なし。以上」とだけ書かれていた。
呆れ果てた見藤にどやされる煙谷。だが、それに取り合う訳もなく、事務所を出て行ってしまった。
残されたのは、冷え切った雰囲気の霧子と東雲。頭を抱える見藤。久保とは、なぜこうなったのか理解できないままだった。
見藤は項垂れるように呟く。
「はぁ……、今回の仕事は上手くいかなかった。あいつと組むと碌なもんじゃない!」
廃旅館の開かずの間の怪談。
奇しくも、開かれたのは怪異が人の世に居憑き、人として過ごしている、という怪奇だった。それを知った久保はただ呆然と、煙谷が去った扉を眺めていた。




