42話目 遺されたモノの願い 前編④
久保が司祭と共に広間を退室した後。東雲と煙谷は、首が痛くなるほど見上げなければ端が見えない、とてつもなく大きな絵画の目の前にいた。
そして東雲の手には鬼灯の匣、反対の手にはパレットナイフが握られている。パレットナイフは見藤から説明を受けて、事前準備をしてこうして持参したのだろう。
煙谷は「感心、感心」と彼女の背後で軽口を叩いている。若干、東雲は煙谷に対して苛つきを覚えたが、今は作業に集中しようと首を横に振った。
東雲は絵画の端も端、そこに目星を付けた。鬼灯の匣の蓋を開けてから、パレットナイフを立てる。そして、乾いた絵の具をこそげ取った。絵の具の凹凸が激しいため、意外と簡単に破片がとれた。
「よし、あとはこれに入れて ――、」
パチン、と軽い音が広間に響く。鬼灯の匣が閉じられたのだ。
―― そうして、開始される絵画に施された呪いの解呪。
鬼灯の匣が微細に淡い光を放ち始める。東雲の手の上で行われている世にも奇妙な光景。
普通の人であれば、その魔訶不思議な状況に怖気づいてしまうはずなのだが ――。どうやら、彼女は少し違ったようだ。
―― 見藤の呪いは人と怪異のために在る。その絶対的な信頼が東雲の中にあるのだろう。
煙谷は東雲の背後で、その様子をじっと眺めていた。そして、今度は絵画を見上げると、小さく溜め息をつく。
(どうにも、この絵は好かないな)
そう、心の中で呟いた。
人の世の芸術など、怪異である煙谷には理解し難いのだろうか。それとも、彼はこの絵画が描かれた経緯、この抽象画が表す事象を理解しているのだろうか。
短い間ではあったが物思いにふけってしまったと、煙谷は意識を現実に引き戻そうと首を振った。そして、現状を把握しようと東雲の隣に並び立つ。
すると ――、パカッ、と軽い音を立てながら鬼灯の匣の蓋がひとりでに開いた。
―― 解呪が完了したのだ。
なんとも、不思議な仕掛けを施したものだと煙谷は興味津々にその匣を見つめる。そして、微細に光を放つだけだった鬼灯の匣はさらに光を強めた。
それを合図に、なんと目の前の絵画が ――。東雲はその光景に思わず、声を漏らした。
「う、っ……わぁ……、」
「これはまた、凄いな。絵が動き出すなんて」
そう、煙谷の言葉通り絵画が動き出したのだ。
それはまるで蛇がとぐろを巻くように、絵の中央に向かって絵の具が集約されていくようである。赤褐色の絵の具が、藍色、紫色、翡翠で描かれた部分を吞み込んでいく。
すると、絵画の中心。台風の目のようなものができ始めた。鬼灯の匣がより一層、その輝きを増す。そして一つ、何かが飛び出てきた。
「これだ」
「え、」
「これだよ、この絵画に封じられていた魂」
煙谷の言葉に、東雲は思わず彼を振り返った。彼女が目にした魂というものは、想像よりもはるかにその輝きを失っていた。人魂、そう呼ばれるように燃え盛る炎のような煌めきはなく、心なしかどんよりとした雰囲気を感じる。
その魂は、姿を見せたと思った次には鬼灯の匣の中に吸い込まれてしまった。どうやら、こうして魂を回収していくようだ。
その様子を見ていた煙谷はぽつり、と言葉を溢した。
「だいぶ、擦り減っている」
「魂って、擦り減るものなんですか?」
「んー、まぁ、そうだね。詳しい事は言えないね」
―― この先は聞かぬが仏というものだろう、そう東雲は結論付けた。
この絵画を描いた人物はどのような想いを抱いて、このような呪いを施したのだろうか。そんな思いが東雲の中に巡る。
魂を封じ込めたということは、その魂の持ち主だった人間はこの世を去った人 ――。そう、想像するのは容易い。そして、人の魂はあの世へと導かれるのが理。
その理に抗おうとしたのか、はたまた、ただ単純にその魂の持ち主を想い、死を嘆き悲しんだ果てに、現世に繋ぎとめようとしていたのか。
―― 死が人を別つ時、遺された者の願いは、時にこうして歪な形を成すことがあるのだろう。
東雲はそう思い至り、目の前の光景から視線を逸らしてしまった。
思考に埋もれている間にも、着々と鬼灯の匣は魂を回収していたようだ。次第に、小刻みに震え始めたのだ。すると、手の平に感じる異変。その様子から察することがある。
「これは流石にっ……!?」
「まずいねぇ」
東雲の焦る声と煙谷の呑気な声。だが、珍しく煙谷の表情は険しいものだった。それは非常に危険な状況だと言うことだろう。
見藤もまさかここまでの数の魂を絵画に封じ込めているなど、想定外だったのだ。次第に匣は、かたかたと小刻みに揺れ始める。
「あ、あかん!!」
東雲の切迫した声と同時か。―― バチンッ!!と、何かに弾かれる音が広間に響いた。匣が許容量を超えたのだ。
東雲は思わず目を瞑り、首に掛けている身代わり木札を服の上から握り締める。そして、彼女はパタリ、と箱の蓋が閉じられた音を耳にした。
いくら呪いによって作りだされた封印の匣と言えど、その中身は無限空間ではないらしい。鬼灯の匣に入りきらなかった魂は次第に、人の姿へと形を変えて行く。それはまさしく、『幽霊』と呼ばれる魂の姿だ。
「面倒だな、」
煙谷がそう呟き、苦虫を噛み潰したような顔をした時だった。
「よぉ、順調かァ!?俺が呼ばれたってことは、そうでもないみたいだなァ!!お、やっぱり見藤の言う通りになったかァ」
「猫宮ちゃん!?その姿は ――、」
「おぉ、小娘」
猫宮が突然、姿を現したのだ。
荘厳な火車の姿をした猫宮を目にした東雲は驚きの声を上げる。彼女のその口はあんぐりと開かれていた。一方の猫宮は東雲の姿を見るや、先程の危機的状況などなかったかのように呑気に返事をしたのだ。
「とっておき、……ねぇ」
―― してやられた、と言わんばかりに煙谷は頬をかいた。煙のように移ろう飄々とした普段の彼からは想像がつかない姿だ。
どうやら鬼灯の匣が許容量を迎えると、猫宮が匣のある場所へ呼び寄せられる仕掛けとなっていたようである。その仕掛けは何であるのか煙谷には見当もつかず、ただ猫宮の姿を眺めていた。
そうしている間にも、火車の姿をした猫宮は鬼灯の匣に収まりきらなかった魂を次々に導いて行く。猫宮の篝火が天へと昇っていき、魂がそれに続く。それは非常に幻想的であった。
しかし、場所が西洋的な教会ということもあり、得も言われぬ不調和な光景を増長させていた。
そして今度は東雲が、ぴくりと眉を動かす。どうにも猫宮の言葉に引っ掛かることがあったようだ。
「ん?見藤さんの言った通りに……?」
「あいつは匣に入りきらない数の魂が、絵画の中に封じ込められているって分かっていた。ってことだよ。全く、」
東雲の疑問に答えるように、煙谷はそう言って肩を竦めた。そして、ポケットからソフトパックを取り出して煙草を吸い始める。
「僕に一泡吹かせたかったんだろうね。ほんと、やな奴」
そう言い放った煙谷。その言葉とは裏腹に、彼の表情は生き生きとしていた。自身の興味を強く惹かれるものに出会う、それは怪異にとって満ち足りた感情を抱かせるようだ。
怪異である煙谷はこの絵画に触れられない。人の手による呪いは人の手によってのみ打ち砕かれる。
そして、あくまでも獄卒である彼は霊、則ち魂を導くことが役目なのだ。しかし、その数が多ければ多いほど煙谷だけでは困難となる。だからこそ、魂を運ぶための鬼灯の匣、だったのだろうが ――。
「確かに、この匣だと限界がある。匣の中は有限だろうからね。でも、猫宮が火車として霊魂をあの世へ導けば、いくらでも融通が効く。全く、僕の仕事が増えないか冷や冷やしたよ」
「はぁ」
煙谷の言葉に東雲は思わず間の抜けた返事をした。どうやら東雲は久保ほど、怪異や妖怪にまつわる逸話に明るくないのかもしれない。
そして、空で魂を導いている猫宮はことの他、封印において確実性を優先させる見藤が珍しいことをしたものだ、とどこか他人事のように考えていた。それには少なからず、誰かに頼る、信じて任せるという選択肢が見藤の中に生まれたことを意味しているのだろう。
「よぉし、これで最後だなァ」
「はぁ、猫宮。あいつに言っておいてくれるかい?次から、とっておきは禁止だって」
「くははは!」
猫宮の豪快な笑い声とともに、彼に導かれた魂は篝火と共に消えた。
猫宮は最後の魂を見送ると、空を駆けて姿を消してしまった。これから、見藤の元へ戻るのだろう。
―― そうして、静けさを取り戻した広間に残された東雲と煙谷。
猫宮が魂を導いている間。目の前の光景に呆気にとられ、何も言葉を発しなかった東雲が気を取り直して、と言わんばかりに ――。
「これにて依頼は完了、ということで。どうぞ」
「君も大概、肝が据わってるよ」
すっ、と東雲から鬼灯の匣を手渡された煙谷はそう言って、どこからともなく取り出した煙草をふかしていた。




