6話目 機微に疎い男は想い人に許しを請う
霧子はさも不機嫌であると言わんばかりだ。ソファーに腰掛けているものの――。鋭い視線で見藤を睨みつけ、ローテーブルの上で長い脚を組んでいる。
見藤はその光景を目にし、仏頂面を晒した。
(お行儀が悪い……。だが、今は聞いてもらえなさそうだ……)
言い訳ができないと悟った見藤は、困り果てて眉を下げた。助けを求めるように猫宮を探す。しかし、彼は霧子に恐れをなして、どこかに隠れているようだ。
重い沈黙が流れる。しかし、こうしていても仕方がないと、見藤は意を決して口を開いた。
「あの、霧子さん……」
「………………」
「えっと……、すまん」
「……浮気者」
霧子の拗ねた口調に、見藤は肩をすくませる。――怪異や霊の痕跡が憑くことを極端に嫌う彼女からすれば、怪我を負った霊障とは言え、「浮気」と認識されるようだ。
見藤はいそいそと、向かいのソファーに腰を下ろした。次の言葉を口にするのに、時間を要する。
「油断しマシタ……」
「でしょうね」
突き放すような霧子の声に、見藤は謝罪も通じないと悟った。拗ねる霧子に、ほとほと困り果てた見藤がとった行動は――。
ローテーブルの上で、綺麗に組まれた霧子の長い足。見藤は立ち上がり、片膝をつく。彼女の足を手に取り、丁寧に靴を脱がした。――そして、先にそっと唇を寄せる。
慌てたような霧子の声が降りかかる。
「ちょ、ちょっと……!?」
しかし、その次の言葉は出て来ないようだ。唇を戦慄かせて、顔を赤らめている。
見藤は止まらない。足先に唇を寄せた次は足の裏、足の甲。――その行為は崇拝心や服従といった従属的な意味を持つ。
霧子にとっては羞恥心を煽るものでしかないだろう。彼女は見ていられないと言わんばかりに、顔を両手で覆ってしまった。
見藤はそんな霧子の反応に、悪戯心が湧いた。さらに、その綺麗な足にすり……、と頬を寄せる。短髪の毛先が少しくすぐったいのか、霧子は身をたじろがせた。
顔を覆っている彼女の手。その指の間から、期待に満ちた視線が注がれる。見藤は、じっと彼女を見つめた。自然と上目遣いになる、熱っぽい視線。
霧子は怒ったように声を上げる。
「ちょ、調子にのらないでよ!?」
「ぶべっ……!」
途端、見藤は顔面を鷲掴みにされた。勢いの余り、妙な声が漏れる。見藤は霧子の手に触れながら、そっと尋ねた。
「俺らしくなかったか?」
「ほんとにね! もう、いいわよ! 許してあげる!」
「そうか、よかった」
照れたような、拗ねたような――可愛らしい霧子の返事に、見藤は笑みを溢した。
すると、それすらも不服とばかりに霧子は口を尖らせる。
「クソガキ……。可愛くないわ……」
「はいはい」
恨めしそうに呟く霧子と、楽しそうに笑う見藤。
二人は怪異と人間。時間の流れも、存在の定義すら異なる。それは恋人や夫婦と言った、人間同士の繋がりを示す言葉では言い表せないほどの――、傾恋の仲だった。
すると、霧子は弾かれたように声を荒げ始めた。
「そ、そもそも! どうして、こうも頻繁に危険な目に遭うのよ!? 気が緩んでるんじゃないの!」
「それは――、面目ない……」
見藤は霧子のお小言を受け入れるしかない。それは霧子に懸想している見藤にとって当然のことだった。
――怪異によって引き起こされる事件・事故の解決を生業としながらも、怪異に懸想している男というのは、不思議なものだ。
霧子は口をさらに尖らせ、声を漏らした。
「むぅ」
「う、べっ……!?」
突然、霧子は見藤の両頬を白く綺麗な手で挟み込んだ。俯いていた見藤の顔を無理矢理、自身の方へ向けさせる。そのとき、見藤の呻き声が事務所に木霊した。
霧子はそのまま言葉を続ける。
「その時が来るまでは、あんたの好きに生きればいいわ。でもね――――、あんたは私のものだって、少しは自覚しなさい」
――何も恋焦がれているのは見藤だけではないようだ。怪異である霧子は、言葉では言い表せないほどの激情を持つことがあるのだろう。
霧子の美麗な顔が近付くと、見藤は目を見開いた。
夜を模したかのような花紺青の色をした瞳に、じっと見つめられる。その瞳はあまりにも綺麗で、見藤はしばらく動けなかった。はらり、と霧子の髪が顔に少しかかる。
霧子は表情一つ変えず、見藤を見つめている。彼女の意思の強さや輝きは、畏敬の念を抱くに相応しい存在なのだと、見藤は改めて思う。
それとは反対に、霧子の瞳に映る自分の姿は、人であるが故の汚さを持っていると自覚する。人の汚さを持っていたとしても、その存在に傾倒している自分が、彼女に触れてもよいのか――。
見藤は迷い、目を伏せた。
すると、またもや霧子に無理矢理、視線を戻される。それは彼女に触れることを許されたような気がして――。
見藤は頬を包む霧子の手に、骨張った手を添えた。霧子の手を取り、許しを請う意味を持つ口付けを贈る。
そうして、より二人の距離は縮まり――。見藤の唇は、そっと霧子の頬を伝う髪の毛へ触れた。
「~~~~っ!! あんたの、そういう所が嫌いなのよ!!」
「はは、今はこれで勘弁してくれ」
見藤の唇が髪の毛に触れた、瞬間。霧子は口付けをされると期待していたのだろう。恥ずかしくなり、顔を真っ赤にして怒り出したのだった。
彼女の髪へ唇を寄せたのも、不器用な見藤の精一杯の行動だった。だが、霧子からすればやり場のない恥ずかしさを怒りに昇華させる他ないのかもしれない。ただ、その怒りはとても可愛らしいものだった。
霧子は口を尖らせ、拗ねたように声を上げた。
「もう!」
やり場のない恥ずかしさから、見藤の頭を些か乱暴に撫でまわす霧子。見藤は笑みが溢れていた。
◇
事務所内に二人だけの雰囲気が流れてから、しばらくして。
見藤は自分らしくない行動を取ったことが突然、気恥ずかしくなり――。おもむろに首の後ろを掻くと、ゆっくりと霧子から離れた。ただ、少し名残惜しいと思ったことは秘密だ。
見藤の心の内を知ってか知らずか。霧子は顔を赤くし俯いている。見藤にしてみれば、その様子がまた可愛らしい。ふっと目尻を下げる。
すると、霧子がわっと声を上げる。
「と、というか、それ!」
「ん?」
霧子が言う「それ」とは、首の絞痕のことだろうか、と見藤は首をさすった。
「違うわよ。打った痕の方よ」
「あぁ、……大丈夫だ」
「どこがよ!」
見藤からすれば、霧子の機嫌を損ねる霊障などよりもずっと意識の向かない怪我だ。放っておけば治る、程度に考えていた。
少し離れた距離を今度は霧子が詰め寄り、容赦なくシャツを捲る。霧子の方が見藤よりも背が高いため、余分に捲りあがるシャツ。
その下には見藤の脇腹や背中に鬱血した痕が痛々しく残っている。霧子はそれを見て、眉を寄せた。
霧子は立ち上がると、事務所内の戸棚の引き出しを漁り始める。探し物があるようだ。
そうして、彼女は目当ての物を見つけたのか、得意気に戻ってきた。手に持っていたのは市販の貼付剤。霧子はその場で呆然としている見藤に、じっとりとした視線を送る。
「座りなさいよ」
「え、いや……。手当てなら自分でできる、から……」
「いいから!」
先程の仕返しだろうか――。有無を言わさない霧子の気迫に、見藤は大人しくソファーに座る以外、許されなかった。
◇
一方、霧子に恐れをなし、窓際のカーテン裏に隠れていた猫宮。
見藤と霧子の甘い雰囲気を察知した猫宮はというと――。
(あいつ等にお使いを頼んでおいて、正解だったなァ……)
見藤の様子を見に、事務所を訪れていた久保と東雲。猫宮は二人に猫缶を買ってくるように要求し、事務所から追い返していたのだった。
――人知れず苦労を物語る、猫宮の哀しい後ろ姿があったことは誰も知らない。
「ゲッフゥ……」
窓際の置物と化していた猫宮は小さめの曖気をしたのだった。
曖気=ゲップのこと。ゲップって書くとなんだかお下品な感じがして……。




