41話目 猿の真似事
新年を迎えた見藤の事務所は寒威に晒されていた。今年は新年早々、厳しい寒さになると予報されていた。もともと老朽化が進んだ家賃の安い雑居ビルということもあり、冷え込む要因となる隙間風に悩まされることになったのだ。
寒さに弱い猫宮と霧子は今日もソファーに座りながら毛布にくるまっている。そして、その傍には暖房器具が置かれ、彼らを温めていた。
久保と東雲はと言うと、事務所にその姿はない。彼らは未だ冬期休暇中であるものの、最早恒例となった課題の追い込み作業があると言うのだ。言わずもがな、見藤は二人に学業を優先させるよう説教する羽目になってしまったのであった。
東雲は実家である神社の手伝いがあったために仕方のない部分があるのだが、そこは久保と平等に。―― と、いう事があり、冬期休暇を終えるまでは事務所に顔を出さないようにと見藤から言いつけられた助手達であった。
そうして正月休暇を終えた、見藤の仕事はじめ。
先の時期外れの繁忙期を終えたため、見藤の元に舞い込んでくる依頼は数を大いに減らしていた。依頼は専らキヨからの斡旋であるものの、稀に一般人からの依頼という物があるのだ。
依頼人との詮議はローテーブルを挟んだ、今現在霧子と猫宮が陣取っているソファーを隔てて行われる。そのため、いつまでも彼女達の好きなようにさせておくのも憚られる。
見藤はその旨を伝えようと、霧子へおずおずと声を掛けた。
「霧子さん、今日は昼から依頼人が来るから ――」
「むぅ、分かってるわよ……」
毛布にくるまりながら、恨めしそうに見藤を見やる霧子。
どうやら社の分霊は無事に行われ、こうして霧子は事務所に住み憑いたようだ。その分、見藤と過ごす時間が増えたという訳だが ――。
「……もっとゆっくりすれば、いいじゃない」
「ん?」
「なんでもないわよ!!」
小声で呟かれた霧子の本音は見藤の耳に届くことはなかったようだ。霧子も少しばかり機嫌を損ねてしまい、ぷん、と顔を逸らしてしまった。そして、ぬくぬくとくるまっていた毛布を体から引きはがして見藤に投げたのだった。
訳も分からず、毛布を手にしている見藤を余所に霧子はその姿を社に消してしまった。
「はァ……、面倒くさいなァ。お前たちは」
「どういう意味だ?」
「はァ……」
その様子を眺めていた猫宮には、呆れたように溜め息をつかれる始末。毛布を畳みながら、見藤は訳が分からないと怪訝な顔をしていたのだった。
* * *
そうして時刻は昼過ぎ。これから依頼人が訪ねて来るということで、見藤はいつものように使い古したスーツに着替え、事務所内を軽く掃除していた。
ローテーブルに置かれた新聞は新年を祝う記事が一面を飾っており、情報収集に向かないただの紙屑となっているようだ。見藤はその新聞を事務机へと移動させる。
猫宮は邪魔をしなければよいと、見藤がいつも座っている事務机に向かうための椅子を陣取り、そこで眠っているようだ。
すると、事務所内に響くインターホン。見藤が来客を出迎えようと、事務所の扉を開くと――。視界いっぱいに広がる、黒。
「……っ、!?」
ぬっと、見藤を見下ろすのは、まさしく『影』だ。その影はまるで意思を持った怪異のようだ。ゆらゆらと体を震わせて、見藤への興味を示すように彼の顔を覗き込んでいる。
見藤は咄嗟に一歩身を引いた。そして次の瞬間には ――。
「お還り下さい!」
影に向かい、そう叫んだ。
そうして同時に、覗き込まれた ―― 顔、と思わしき部分を勢いよく殴ったのだ。それは影にも関わらず、人の身でありながら物理的に干渉できるというのは見藤だから成せる事なのか。
影は殴られた衝撃をその身に感じるのだろうか、ゆらめいていた体が大きくのけぞる。すると、その影は扉から数歩後退り、床に伸びる影へと戻って行った。
「はーーーっ……、くそったれが!!」
ゆらめく影が姿を消したのを見届けた見藤は、思わず大きな悪態をついた。そして、視線を廊下に向ける。彼の視線の先には、尻もちをついて怯えた表情を浮かべる青年が一人。
眉間に皺をこれでもかと寄せた見藤は、普段からは想像できないほどの低い声で問うた。
「どういう事だ、何に手を出した」
「あ、あの……っ、」
言葉に詰まる青年。彼もあの影を視ていたのだろうか。その声は震え、顔面蒼白だ。―― 少なからず、見藤の威圧感にも恐怖を抱いているというのもあるだろうが。
人を嫌う見藤とは言え、依頼人に対しては節度ある対応をしてきたつもりだ。だが、先ほどの影を目にしてしまえば、話は別だとでも言うようだ。
それほどまでに、あの「影」は異質だったということだろう。
依頼人と思わしき青年。その身なりは至って普通。二十代後半くらいの齢に、特筆すべき特徴もない外見。
彼の表情を見た見藤はようやく、青年が怯えていることを理解したようだ。眉間を押さえながら、なるべく平静さを取り繕って声を掛けた。
「はぁ……、とりあえず中へどうぞ」
「は、い……。お邪魔します……」
見藤の案内に従って青年が弱弱しく立ち上がり、一歩踏み出そうとすると――。ゆらりと、廊下の影が揺れたのだ。それは徐々に、体をもたげて再びあの「影」となる。
「……くそ、またか」
「ひっ……!?」
青年から漏れた短い悲鳴は無視する。先ほどの「影」だと瞬時に認識した見藤は、彼を無理やり事務所の中へと押し込んだ。
――どちゃっ、と鈍い音が響いたのだが、今はそれどころではない。
見藤は再び目の前に現れた影と対峙する。やはりと言うか、その影は見藤に対して特に何もすることなく、その黒い体をゆらゆらと左右に揺らしている。
しかし ――。
「っ、気色悪いな……!!」
注視すると、その影は何もないのっぺりした黒い影という訳ではなさそうだ。よくよく見ると、影の体の中には渦巻いている模様のようなもの。
顔と思わしき部分には薄っすらと、目や口にも見える部分がある。そして、なにやらブツブツと口を動かしている。こういうモノが発する言葉には耳を貸してはならない、というのは定石だろう。
―― バタン!!と、見藤は勢いよく事務所の扉を閉めた。そして、中へ押しやった青年の無事を確かめようと視線を上げたのだが ――。
「……、影なら何でもいいのか」
「た、助けて下さい!!!!う、うわぁあぁ!!」
その光景はまさに異様。
事務所に置かれている家具の影、窓から差し込む隣のビル群の影。日に照らされて出来た、影という影から所狭しとあの「影」がゆっくりとその体を起こしているではないか。
見藤はすぐさま給湯スペースへと走り出し、塩を手に取った。一方の青年は大きな悲鳴を上げながら、錯乱状態に陥っている。
「動くな!!!」
「おい、見藤!!なんだこの連中は!!」
「なに、どうしたのよ!?」
―― 事務所内に響く怒号。
流石に異常事態を感じた猫宮は火車の姿をとり、その大きな猫の手で影を上から叩き落とした。
どうやら猫宮のような妖怪、そして見藤の影からはあの「影」は生まれないようだ。ことの大きさに、社から霧子も降りてきてしまった。
「動くなと言ってるだろう!!!」
「ひっ……!?」
見藤は錯乱している青年の肩を引っ掴み、その場から動かないよう力づくで膝立ちにさせる。そして、彼の周りを囲うように塩で円を描いてみせたのだ。
すると、複数の影は目的を見失ったかのように、いたって普通の影に戻ってしまった。見藤はその様子を見届けると、大きな溜め息をつく。
「はぁーー……、久しぶりに肝を冷やしたぞ。数が多すぎる」
「なに、一体どうしたのよ!?」
「霧子さん、騒がせたな……すまない」
「そ、それはいいけれど……」
事務所内の喧騒に異変を感じて社から降りて来た霧子には何がどうしてああなったのか、理解が追い付いていないようだ。心配そうに見藤を見やるが、彼は反対に騒がしてしまったことを霧子に詫びていた。
猫宮と霧子は、あの影が一体何であるのか。皆目見当もつかないようで、見藤に説明するように促す視線を送っている。
その視線を受けて、見藤は面倒くさそうにしながらも口を開いた。じっと、その先に追われていた青年を見据えて。
「あの影は、人に呪いを仕掛けた代償だ」
「……」
「おい、なんとか言え」
見藤の追及に青年はさらに顔を青くし、小刻みに震えている。だが何も答えない青年に見藤は構わず、言葉を続ける。
「呪い師なら、影に対処できるかどうかで力量が決まるらしいが……。人を呪うという事は、影に追われることになる。呪いの度合いで、脅威度合いも変わってくる。丑の刻参りよりも遥かにタチが悪いやつだ」
そこで一呼吸置くと見藤はこれまた大きな溜め息をついた。
「そもそも、人を呪う時点でそれは呪い師ではなく、呪術師と言ってもらいたいもんだが ――、」
呪術師、それは見藤からすれば到底、呪い師とは呼べないものなのだろう。呪いを悪しきことに用いる者、呪術を使用する者を指す言葉だ。
古来、呪いというのは、神への祈りの言葉であった。怪異や人の救いとなる術だった。だが、それは長い時を経て人の口で紡がれ続けたことにより、いつしか人が人を呪う呪詛となった。
見藤は怪異や人を呪いによって手助けすることはあっても、呪うことはない。
―― 牛鬼の教えを破らない、それは見藤が決して覆すことのない信条だった。




