40話目 大晦と楽欲③
見藤は年が変わると早々に就寝したかと思えば、陽が登る前には起き出していた。年始だというのにその短い髪は寝ぐせがついており、無精ひげもそのままだ。
彼は寝間着にしているスウェットの上に紺色の半纏を羽織っている。昨日、細雪が降った影響か、いつもより冷え込んでいる。呼吸の度に、肺が冷やされ吐息が白くなる。
事務所は未だ薄暗く、寒さと静けさだけがそこに存在している。窓から外を見やれば、あと小一時間もすれば初日の出が拝めるだろうと見藤は頷いた。
年神というのは、ご来光と共に訪れると言われている。そのため、見藤は日の出よりも前に起き出すのが年始の通例になっていた。
薄暗い事務所の中、霧子が還る神棚の方を見やれば、そこは静けさに包まれている。まだ彼女は眠っているようだ。
見藤はソファーに腰かけ、珍しく足を組む。そして、ソファーのひじ掛けにもたれるようにして頬杖をついた。夜明けまで特になにをする訳でもなく、そこで過ごすようだ。
「……ふぅ」
未だ明けぬ夜を窓越しに眺める見藤は何を思うのか。
そうして、黎明が夜明けを知らせる。事務所に差し込む光、その眩しさから見藤が目を細めていると――。
「邪魔するぞ」
どこからともなく、老人の声が事務所に響いた。見藤はその声にさして驚きもせず、返事をする。
「いらっしゃい」
そうして事務所の中にも徐々に来光が差し始め、日が完全に登る。すると、当然のように向かいのソファーに腰かけているのは、年神だ。
その姿は翁であるものの、やはり神の名を持つ怪異に相応しい成りをしていた。福耳が目立ち、その顔は福をもたらすと言われれば万人が納得しそうな表情を浮かべている。
怪異は認知によってその力を増す、そしてその存在をも左右される、というのが通説だ。そして、現代において神の名を持つのは、人々の信仰によって神として祭り上げられた怪異とされている。
それも先の河童の一件で正しいと断言できる訳ではなくなったのだが、今は置いておこうと見藤は首を横に振る。
通説とおりに言えば、この年神は年末年始に大いに力を蓄えることになる。そして、日の本の認知が全て集約された年神の力。それは霧子という存在では到底、及ばないだろう。
そのため、こうして年神が毎年元旦に事務所を訪れることも彼女は許容しているようだ。
見藤は年神の姿を見ると立ち上がり、涼しい所に置いてあった折りを手にとる。それを風呂敷で包んでやり、年神に手渡した。
「はい、これ。餞別だ」
「ほほほ、毎年すまんの。これが楽しみでな」
年神は見藤から風呂敷に包まれた折りを受けとると、嬉しそうに微笑んだ。その笑みはなんとも縁起が良さそうなものだった。
その折の中には、見藤が一昨日から少しずつ仕込んでいたおせち料理が詰められている。
「この味が好みでの」
「そうか、それは良かった。何か困ったことがあればここに寄るといい」
「あい分かった、今年もつつがなく過ごせるように――」
年神はそう言い残すと、瞬く間にその姿を消してしまった。
年神を見送った後、見藤は事務所の窓を開けていつものように日課をこなしておく。そして満足したのか、見藤は再び眠りにつこうと居住スペースへ姿を消したのであった。
◇
見藤が目を覚まし、起き出してきたのは既に昼を目前にした頃だった。疎らな睡眠の影響か、欠伸が絶え間なく出ている。居住スペースから出て来た見藤は欠伸を噛み殺し、どうにも寝ぼけ眼だ。
「ふぁ……」
「あら、遅かったわね」
「ん、おはよう。霧子さん」
事務所には霧子が社から降りてきており、いつものようにソファーでくつろいでいる。
普段は電源が落とされているテレビが着いており、霧子は毎年恒例の正月番組を観ていたようである。テレビからどっと笑いが巻き起こる音声が聞こえる。しかし、霧子はそんな見所とも言える場面のテレビを気に留めることもなく、見藤を振り返った。
彼女は見藤を目にすると、どこかそわそわと落ち着きがない。
「あぁ、少し待っていてくれ」
見藤は霧子のそんな様子に思い当たることがあるのか、目を細めながらそう声を掛ける。そして彼は用意していた物を取りに、給湯スペースへと足を運ぶ。
霧子の元に運ばれて来たのは、こじんまりしたお重に綺麗に詰められたおせち料理。そして、その後からは寿司やら温め直された雑煮やら、そして霧子が好きな酒まで。これは、至れり尽くせりである。
「こっそり仕込んだ甲斐があったな」
「これ、食べていいのよね!?」
「ははは、どうぞ」
見藤の言葉に霧子は目を輝かせた。見藤は霧子のために年神への餞別分の他にも、こうして二人で食す分を用意していたのだった。
霧子は景気よく大吟醸の王冠を親指で跳ねて、その口を開封する。怪異という力加減を存分に生かした、その開封方法。
あまりの行儀の悪さに、見藤は一瞬目を見開いたが今日は新年の最初の日だ。野暮なことは言うまい、と困ったように眉を下げたのであった。
そうして、少し腹も満たされた頃。
見藤は少し電話をすると言い残し、事務机の方へ向かう。霧子は見藤を送り出すと、すかさずぱくりとおせちを頬張った。そんな霧子の様子が微笑ましく見藤は目を細めると気を取り直し、電話をかけはじめた。
「あぁ、キヨさん? 年が明けた。あぁ、今年も年神を送り出したから。これで今年も――」
電話の相手はどうやらキヨであるようだ。見藤は新年の挨拶を交わし、年神を見送ったことを報告する。
「ん?スーツなら仕立てたから問題ない。受け取るのはもう少し先になるが……はい」
見藤は以前にキヨの元を訪れた際、彼女に上等なスーツを仕立てるよう言われていた。どうやら、きちんとスーツを仕立てたのか再三確認されたようだ。
(キヨさんのことだ。これは絶対、何かあるな……。まぁ、聞いたこところで教えちゃくれないだろうが)
という心の声は口に出さないに限るだろう。
そうして、キヨとの電話を終えた見藤は霧子の元に戻る。
「ん、なんて?」
「スーツをちゃんと仕立てたかどうか確認された……」
「あら」
「はぁ、いつまで経っても世話がかかると言われたよ」
「ふふ、それは良かったじゃない」
「……どこが」
キヨのお小言に困ったように眉を下げながら、見藤は霧子の向かいに座る。そして、霧子の空になったグラスに大吟醸を注いでやる。
すると、霧子はどうにもキヨの心情を理解できるのだろう。キヨからのお小言に、楽しそうな表情を浮かべている。
それもそうだろう。ああも人を嫌う見藤が斑鳩に並び、唯一心を許す相手だ。それも、彼が成人するまで面倒を見てくれていた。
そして、こうして呪いに長けた見藤が世の影とも呼べるようなこの世界で、この先もやって行けるように、この事務所を開業する手助けや依頼の斡旋をしてくれている。それはキヨの親御心のようなものだ。
親の心、子知らずとはよく言ったものだ。見藤が気付かないだけで、霧子には十分理解し得るものなのだろう。
だが、見藤が感じているキヨの思惑も、確かだ。それはいずれ知ることになるだろうと、見藤はどこか他人事のように考えていた。今は、こうして霧子との新年を祝う席を楽しむのだ。
「久保くんと東雲さんにも新年の挨拶をしておかないとな」
「そうね」
――そうして二人は新年最初の食事を大いに楽しんだ。
因みに、見藤が新年の挨拶を兼ねて久保に連絡をすると、彼は帰省もせずこちらにいる予定は変わらずのようで。気を利かせた見藤が事務所におせちを食べに来るといいと誘ったのが、災いの元。
元日ともなると東雲の実家である神社は、初詣の参拝客の往来が大いに増えるだろう。東雲はその対応で忙しいかもしれないと気遣い、その翌日に東雲にも新年の挨拶を兼ねて霧子が連絡をしたのだ。すると、丁度その食事の席にいた久保に気付いた東雲。
――見藤手製のおせちを口にした久保に向かって、電話越しに恨めしそうに呪詛を吐いていた。
「うわぁ、縁起悪っ……」
「ははは、相変わらずだな。君らは」
「笑いごとじゃないですよ! 新年早々! えんがちょ!」
「……久保くん、その言葉はあまり使わない方がいい。呪術の類だぞ」
「えっ!?」
なんとも楽しげな新年を迎えたのであった。
おまけ
「初詣なぁ……行きたいんですけど、人混みがちょっと」
「ん?どうしたんだ久保くん。社ならあるじゃないか。詣でておくといい」
「はい?どこにそんな……」
「霧子さんの社。神棚だが、分霊してあるから神社なんかにある社と同義だぞ」
「あぁ!そうですね。では早速 ――」
「あんた達、手軽で便利な出張お社にしないでくれる?」




