40話目 大晦と楽欲
無事に時期外れの繁忙期を終えた見藤。冬晴れの日が続き、歳晩が近づいていた。
その頃になると、やはりと言うべきか。都市伝説や怪異と言った諸説紛々な存在などよりも、人々の関心は目前となった年末年始の休暇に移り変わっていったようだ。
世間は数日後に控えた大晦日を迎えようとせわしなく、道行く人々の往来も増えた。
言わずもがな、見藤の事務所も久保と東雲の出入りはなくなり、久しぶりに見藤と霧子は二人だけの時間を過ごしていた。もちろん、猫宮は煙谷の所へ酒をせびりに行っている。
「残りの買い出しは何だったかしら」
「確か、」
コートに身を包んだ二人は、年を越すために買い出しへ出掛けるようだ。こうして何度目か分からない年の瀬を過ごそうとしていた。
だが、二人にとって今年は少し違ったようだ。久保と出会い、そこに東雲も加わった。そして、少しだけ縮まった見藤と霧子の距離。それは長年、二人と一匹だけで切り盛りしてきたこの事務所では起こり得なかったことだろう。
「年神を迎える用意もしなきゃならん。はぁ……相変わらず、年の瀬が押し迫ってくるとやることが多いな」
「仕方ないじゃない、今年はぎりぎりまで忙しかったんだもの」
「そうだな。よし、行こうか。霧子さん」
「えぇ」
そうして二人は事務所の扉を開き、一歩踏み出した。
* * *
見藤と霧子が訪れたのは、都心から少し外れた所にある商店街だった。そこは朝早い時間ながらも、既に人の往来激しく雑踏していた。それはさながら満員電車のようだ。
その人の多さに、見藤は辟易としながらも目的を果たす為。片手に現金を握り締め、その雑踏した群衆の中に身を投じたのであった ――――。
「しまった……、はぐれた」
見藤が左右どこを見渡しても人、人、人。そして、そんな人々の賑わいに寄せられ集まって来た怪異の姿がちらほら。
―― そこに霧子の姿はなかった。それどころか、押し寄せる人の波に呑まれそうになる始末。
このままでは霧子を探す所ではない、見藤は慌てて脇道に逸れた。手に持っていた購入品が人の流れに吞まれ落としていないか確認し、ほっと一息。そして視線を上げる。
脇道から主要通りを覗くだけでも、その人の多さに辟易とする。だが、はぐれてしまった以上、霧子を探さねばならない。いくら霧子が人の姿を模っていると言っても、一般女性と比べればその長身は目を引くはずなのだ。
見藤は脇道から少しだけ顔を覗かせ、左右を確認する。しかし、霧子と思わしき影を見ることはできない。
(困ったな……)
見藤はそう心の中で呟き、眉を下げた。何も方法がない訳ではないのだ。
―― 霧子は見藤に取り憑いている。彼が霧子の名を呼べば、霧子には見藤の居場所くらい見当がつくというものだ。若しくは、霧子が見藤の身の危険を察知した時だろうか。
だが、それがよくない結果を生んだことを、二人は身を以って体験している。よってその手段を選択するのは憚られる。
「あの、何かお困りですか?」
「はい?」
どうしたものかと考えあぐねていた見藤。突如として掛けられた声に驚き、思わず反射的に聞き返してしまった。
声がした方を振り返れば、見藤と同じように歳末の買い出しにこの商店街を訪れたと一目でわかる、初老手前の女性二人組がこちらを心配そうに見ていた。
「いえ、特になにも」
見藤が不慣れな固い愛想笑いを浮かべてその場をやり過ごそうとしたのだが ――。
「お困りの様でしたら、」
「いえ、あの、」
どうにもそう簡単にはいかないようだ。初老手前のご婦人二人組に捕まった見藤は、その間髪入れず繰り広げられる会話を中断する術を持たず。
見藤はどうにか話の切れ目にその場を後にしようと距離を取る。が、手荷物が多いことと主要道路に出ようとするとその人の多さによって押し返されて、現在位置に戻ると言ったことを数回繰り返していた。
(あぁ……くそ、面倒だ)
心のうちに悪態をつき、見藤は眉間の皺をさらに深くする。ご婦人二人組はどうにも怪しいのだ。身なりや風貌はごく一般的であり、買い物客を装っているものの。大抵の場合、怪しい人間というのは「普通の人」に擬態する。
買い物袋に紛れさせるようにして彼女達が手にしている冊子は見る人が見れば、新興宗教の勧誘冊子であることが分かる。それがどうしてこの年の瀬に、それもこのように人々が雑踏している商店街で勧誘活動をしているのか、と今度はこちらが問い詰めてやりたいものだ。
かと言って、それを行動に移す訳にもいかず。見藤は自身が体格に恵まれていることを自覚している。そんな男が声を荒げたともなると、かえってこちらが恫喝したように捉えられてはたまったものではない。
―― 見藤がとった回避行動は適当に相槌を打ち、視線を合わせない、そして興味がないことを示す。これに尽きる。
(こういう時、久保くんがいれば楽なんだが……)
ここにいるはずのない助手に助けを求めた見藤であった。
そうしているうちに、見藤の態度の意図を察し始めたのだろうか。ご婦人二人組はその愛想ない相槌に憤りを隠さなくなっていった。
ご婦人二人のうちの一人がにっちもさっちも行かなくなったと察したのか、見藤に詰め寄り声を荒げたのだ。
「あ、あなた!こんな年の瀬に言うものでもないけれど……!憑いてますよ!?」
「えぇ、そうですが」
「「えっ、」」
こともなげな様子でそう返した見藤に、かえって驚きの声を上げたのはご婦人二人組の方であった。彼女達の表情は驚愕に満ちていて、見藤を見上げている。
すると、見藤。その反応を好機と見たのか、首を傾げて微笑してみせた。
「どんなモノが憑いてます?」
「ひっ、」
その言葉を聞くや否や。婦人二人組は短い悲鳴を上げて、走り去って行ってしまった。その様子を見送っていた見藤はとんだ災難だったと言わんばかりに、ふんと鼻を鳴らす。
すると、鼻を掠める香りに首を傾げたのであった。朧気ながら記憶の片隅にある香りだったからだ。
(ん、香の匂い?この香り、どこかで嗅いだような……まぁ、いい。はぁ、こんな年の瀬に宗教勧誘に遭うなんてついてない。さてと、もう少し離れて霧子さんと合流するか)
しかし、そんな事を考える間もなく。さも面倒くさそうに溜め息をつきながら、見藤は近くにいた猿のような怪異に声を掛ける。
その怪異はどうやら、賑わう人々の往来を見て楽しんでいる様子だ。室外機の上に胡坐をかいて座っている。
「おい、長身の女怪異を視なかったか?」
『お前、俺が視えるのか。あの別嬪なら、あっちで視たぞ』
「助かる、これは礼だ」
『お、美味そうだな』
猿の怪異はそう言って、脇道から更に奥を指差したのだった。見藤は礼を言って買い物袋から買っておいた干し柿を三つ取り出し、猿の怪異に渡しておく。
そうして見藤は猿の怪異に見送られながら、脇道の更に奥へと足を向かわせた。
◇
見藤は脇道の奥に進む。すると、人通りはまばらになっていき、そこに佇む長身女性に視線を奪われる。長く艶やかな黒髪を後ろで編み込み、可愛らしい髪留めが飾られている。
見藤の存在に気付いた彼女が振り向く。すると、彼女の動きに合わせて髪やロングコートの裾、スカートがふわりと共に舞う。その瞬間は、まるで彼女だけこの世界から切り離されたように緩やかに、見藤の目には映った。どうやら、霧子に見とれていたようだ。
見藤は、はっとして霧子と合流しようと足を速める。どうやら霧子も見藤を探し回っていたようだ、少しばかり憤慨している様子でこちらに近付いて来る。
「いた!」
「すまない、はぐれてしまって……」
「ほんとよ!もう!」
霧子はつっけんどんにそう言い放つ。そして、おもむろに見藤の両手を塞いでいた手荷物を片方分、奪い取った。
見藤は霧子がどうしてそんな行動をとったのか、理解できず首を傾げている。荷物持ちなら、自分にさせればよいのだと口を開こうとしたのだが ――。
おもむろに、霧子から手を繋がれた。そして、未だに情況を把握していない見藤は立ち尽くしている。霧子はそんな彼の様子を見て、珍しく溜め息をついたのだった。
「迷子にならないようにしなさいよ!」
「……ガキじゃないんだが、」
霧子の言葉に、見藤は遠慮がちにそう答えた。
「分かってるわよ!!」
―― そう言って霧子は見藤の手を引き、歩き出してしまった。後ろを歩く見藤がふと上げた視線の先、霧子の耳はほんの少し赤くなっていた。それは寒さによるものか、照れ隠しによるものか。
『分かっている』その霧子の言葉の意味を理解したのか、見藤は俯いてしまった。そんな彼の耳は、霧子とお揃いになっていた。




