37話目 金の蚕
束の間の休息をとり、二日間の休日を終えた見藤。彼は残る依頼に追われていた。
―― そうなれば、繁忙期も終わりが見えてきた。度重なる依頼からの解放感を求めてその気持ちは逸るばかりだ。
怪異という存在の認知が完全に消えてしまっては大いに困る。だがしかし、その認知が過剰に拡大するのも勘弁願いたい。というなんとも複雑な心境のまま、見藤は今日も依頼をこなす。
なにぶん、斑鳩家による認知操作が上々の効果を発揮し始めたようだ。見藤の元に送られてくる調査依頼の茶封筒は、その数を大いに減らしている。久保と東雲の活躍も大変有難く、報告書などの書類関係は彼らに任せていた。
見藤は隅に置かれているコートハンガーへ歩み寄って、杢グレーのダウンパーカーを手に取った。そして、羽織るとバックパックを背負い、木目の美しい道具箱を手にする。どうやら見藤はこれから仕事に出掛けるようだ。その表情はどこか、軽い。
「よし、大きな依頼はこれが最後だな」
「そのようね」
見藤は霧子と言葉を交わし、彼女が座るソファーの後ろを通る。すると、彼女の肩へそっと手を置いた。
どうしたのかと、少し首を傾げながら見藤を振り返る霧子。彼女はいつものように旅行雑誌を読んでいたようだ。その雑誌を一旦膝の上に置いて、きょとんとした表情をしながら見藤を見上げている。
―― そんな彼女の表情を見た見藤は愛しさから目を細める。
すると霧子によって、くい、と強引に上着の裾が引っ張られる。その力に逆らえず、見藤は思わず身を屈めると、頬に霧子の頬がすり寄せられた。少しだけ低い彼女の体温が、見藤の体温を奪っていく。どうやらそれは、霧子なりの無事を願う出立の挨拶のようだ。
「気を付けてね」
「ふ、……あぁ、行って来る」
その感覚が堪らず、言葉を交わすと見藤はそっと霧子の頬に唇を寄せたのだった。柔らかな髪と肌の感触が、彼女は確かにここにいるのだと感じさせたのだろう。見藤からは自然と笑みが溢れた。
そんな出立の挨拶を交わすと、見藤は事務所の扉を開き、外へ足を踏み出す。
カチャン……、と静かに音とを立てて閉まった、誰もいない扉を見つめる霧子。
―― ボンッ、と音を立てそうな勢いで顔を真っ赤にしていた彼女を知る者は誰もいないだろう。
* * *
時に人は自己利益のためによくない物に手を出す、というのは最早定石だろう。例えそれが、自身が望んだ事象でなくても。先代から続くものであったなら、そのツケを払うのは後世の人間だ ――――。
そこは何の変哲もない田舎だった。夏になれば青々とした山々と高い空が映え、秋になればその実りを示すかのように黄金に輝いた穂をもたげる光景が美しい土地だった。
何ら変哲もない畑の畝には大きな野菜が育ち、冬も同じく豊富な収穫量が懐を潤す。次第に家は大きくなり、近代化に伴い様々な事業を手掛けるようになって行った。
何ら変哲もない田舎の発展模様だ。ただ毎年、一人。その地の人が忽然と姿を消す以外は ――。
「何日も連絡が取れない?」
「はい」
灰色の作業着を纏った従業員達がせわしなく動き回る社内。そんな中、比較的年配の従業員によって掛けられた言葉に、驚きを隠そうともせず大きな声を上げた男。
その反応を受けて年配従業員はおずおずと肯定する。何か都合が悪いのか、彼の心理状態を表すように額には汗が滲んでいる。
しかしながら、その連絡が途絶えたという社員。男からすれば、真面目で愛想のよい好青年という印象だったのだが ――。
「勤務態度も真面目でしたし、無断欠勤を繰り返するような感じでも……。社宅は?」
男の問いに、年配従業員は首を横に振った。男の脳裏に一抹の不安がよぎる。
「なにか、事件に巻き込まれ ――」
「怖い事を言わんでくださいよ、社長。こんな田舎で事件なんて起きる訳がないですよ」
先ほどの態度と打って変わって、そう呑気に笑う年配従業員。確かに彼の言う通りではある、と社長と呼ばれた男は遠慮がちに頷いた。
ここは都市部から遠く離れた地方でありながらも、昔は養蚕業を生業に発展した土地だ。山々に囲まれているものの、人々が住まう土地は平地が多く、今では近代農業が著しく発展している。
―― しかし、田舎という狭い社会は変わらず。何か可笑しなことがあればすぐに、地域住民の噂話となるような場所だ。そのような場所での失踪事件など、小説の中の話だけだろう。
そうして、年配従業員は言うべき報告を終えて肩の荷が下りた、と言わんばかりにその場を後にした。その態度の変わりように、社長は首を傾げたのであった。
社長である彼はこの地の出身であるものの、長らく他の地で仕事をしていた経歴がある。家族経営であった、この会社を継いだのは、ここ三、四年の話だ。
よって、先ほどの年配従業員。彼の方が、この会社のことをよく知っている。そんな彼がああも呑気に言ったのだ、問題ないだろうと社長の脳内は、安直な思考に埋め尽くされていった。
―― しかし、それから数日後のこと。失踪事件は現実のものとなる。
田舎に似つかわしくない、赤色灯が目を引く光景。連絡が取れなくなったという従業員、彼に捜索願いが届け出されたというのだ。もちろん、彼が働いていたこの会社へ調査協力依頼をするよう言い渡されたのだった。
「ご協力、感謝します」
「いえ……、私共としましても突然のことで ――」
社長はありきたりな返答をする。そうして、会社を訪ねて来た警官二名と形式ばかりの挨拶を交わした。
警官は、比較的若い男と中年も後半に差し掛かった齢の男の二人組だった。その一人、比較的若い警官は珍しい髪色をしているように見受けられた。そして、その名前もここらでは聞かないような斑鳩、という名であった。
社長自ら社内に設けられた応接室へ警官を案内し、年配従業員が粗茶だとへりくだって茶を出す。そして、席に着いた警官二人は警帽を脱ぐと机上に置いた。
男と年配従業員もそれに続き、席に着く。そして、意を決したように口を開いた。
「それで、お話というのは何を話せば ――」
すると、その時だった。開かれたままの応接室、女性従業員が遠慮がちに応接室の扉横の壁をノックしたのだ。そこで初めて、扉が開かれたままであったと認識する。
なにぶん、日常的に聞かれて困るような話などあるはずもなく。こうして非日常的な場面に立ち会うなど想定外だ。そのため、いつものように応接室の扉を開けたまま、捜査中の ―― 要は、秘密裏な話をしようとしていたのだ。
そうなれば、この狭い田舎。従業員が失踪した、という事件は瞬く間に広まるだろう。そうでなくても警官が尋ねて来た、その事実だけでも噂は広まることは想像に容易い。
「し、失礼します」
女性従業員は一挙に注目された緊張感と、詮議の邪魔をしてしまったのではないかという罪悪感からか、言葉を詰まらせる。その様子を不憫に思ったのか、若い警官は「大丈夫ですよ」と柔和に声を掛けた。
そして、社長も「どうぞ」と一言付け加え、彼女に話すよう促した。
「お客様がお見えになっていまして……」
「お客様?」
「はい、なんでも取材にいらっしゃったと……」
女性従業員の返答はなんとも歯切れの悪いものであったが、年配従業員は思い当たる事があったようだ。
彼は、はっとしたような表情を浮かべた後に、席を外してもよいか警官に尋ねる。
無論、重要なのはこちらの事情聴取だろうと、少しばかり憤慨したように中年警官は眉を寄せた。どうやら、この年配従業員は心臓に毛が生えているようだ。
すると、遠慮がちに様子を伺うような声が掛けられる。
「すみません、こちらに向かうよう案内されたのですが ――」
どうやら、その声の主が来訪者のようだ。声からして男であることが分かる。そして、現れた姿。その恵まれた体格は目を引くには十分だった。
切れ眉にやや目尻の下がった目は少しばかり強面な印象を与える。短く切り揃えられた髪に、顎に蓄えられた無精ひげは、いかにも冴えない中年であることを伺わせる。
若い警官は、その男を一目見るとおもむろに立ち上がり ――、なんと敬礼をしたのだった。その様子を訝しげに見上げる、中年の警官。
一方、敬礼をされた男は一瞬驚いたような表情をしたものの。すぐにその顔は戻り、敬礼を直るよう手を上げたのだった。それを合図に若い警官は敬礼をしていた手を伏せ、席に戻った。
一連の光景を目にしていた一同は、呆気に取られていた。
「はぁ……、見藤と言います。この度は、取材に伺わせて頂き ――」
「いえいえ、こちらこそ歴史あるこの地の取材ともなると嬉しく思いまして。それにしても、珍しいお名前をされていますね」
思わずして受けた若い警官からの挨拶とこの場の雰囲気に、その男は溜め息をついたのだった。そして、目前の年配従業員へと視線を戻し、互いに挨拶を交わす。
年配従業員の世間話に、彼は少しだけ眉を寄せたようにも見られたが ――。すぐにその表情は柔和なものへと変わった。
「はは、そのような事はないです。ごく普通の名でしょう」
―― 彼は、見藤という名らしい。
先週のことだ。確かに、取材を申し込む電話があったこと、そして承諾したことを今更ながらに思い出す。奇しくも、その取材の日が今日であったとは。社長は少しだけ頭を抱えた。しかし、このタイミングでは致し方ない。
社長は中年警官に断りを入れ、年配従業員を彼の案内へ向かわせたい旨を伝える。中年警官は不服そうな表情を浮かべていたものの、承諾してくれた。
―― どうにも、若い警官が彼に敬礼をしたことに意味があるように思えたのだった。




