36話目 珍妙バディの大仕事②
そうして久保が辿り着いたのは煙谷の事務所。
流石に夜も深くなり、周囲は街灯の光だけがその存在を示す。すると、街灯が点滅した ――、かと思うとすぐさま元の明るさを取り戻す。煙谷の事務所への扉はその街灯の明かりを受けて、久保の目には少しだけ緋色に映った。
ドッペルゲンガーは扉の前まで久保を警衛していたようで、足元で歩みを止める。久保がどうしたのかと、足元を見やる。
すると、ここから先は煙々羅の縄張りだと言うので、どうやら彼の警衛はここまでのようだ。久保は礼を伝えると、ドッペルゲンガーは満更でもなさそうな表情をして影に溶けて姿を消してしまった。
それを見届けた久保は事務所への入り口へ向き直る。
「お邪魔します、」
久保は遠慮がちに声を掛けながら事務所の扉を開く。すると、来客など想定していないかのように煙谷はソファーに寝転がって煙草をふかしていた。
あまりに怠惰的な彼の様子は久保に見藤との違いをありありと認識させたようだ。それには煙の怪異 ――、煙々羅としての性分もあるのだろうが。その正体を知る久保は少しだけ肩を竦めた。
そして、そんな久保の来訪にようやく気付いたのか。煙谷はその姿を視線に捉え、咥えていた煙草の先を少しだけ動かした。
「珍しいね、助手クンがうちまで訪ねてくるなんてさ」
そう言うと煙谷は口にしていた煙草を手に取ると、片手で握り潰してしまった。煙草の火は消され、煙だけが煙谷に吸収されていく。
久保はその様子を目にして、ようやく事務所内へと足を踏み入れた。
「夜分にすみません」
「いいよ、どうせ怪異《僕ら》はこれからが一日の始まりみたいなものだからさ」
久保の断りに煙谷は気にするなというように、手をひらひらさせて答える。そこでようやく煙谷はソファーに横たえていた体を起こし、そこに座り直した。
それを見届けると、久保は彼へと歩み寄る。そして鞄から、依頼書なる例の枯れ葉を取り出す。その枯れ葉を煙谷へと手渡し、ことの流れを説明した。
すると、どうやら煙谷の協力を得られるようだ。彼は「この件の報酬は見藤に請求する」とだけ言い、意味深な笑みを浮かべていた。久保はこの場にいない見藤へ心の中で、せめてもの謝罪をしておくことにする。
そうして、煙谷はじっとその枯れ葉を眺めていたかと思うと、唐突に口を開く。
「ふーん、これは……また」
「ど、どうですか?」
「御神木の木霊からだ」
誰からの依頼なのか、どういう依頼内容なのか。その答えを急く久保に対して呑気に返す煙谷。―― どうやら、例の枯れ葉の依頼書の主は御神木の木霊、といういかにも空想的な存在だったようだ。して、その内容だが。
「うーん、どうにも分かりづらいけど。大方、引っ越しの依頼だね」
「そうですか……、ん?引っ越し?」
「直接聞きに行ったほうがいいかもね」
引っ越し?直接?一体どういうことだ、と久保が聞き返そうとした。しかし、煙谷は間髪入れずに言葉を続ける。どこかその表情は得意気だ。
「空がどこへでも繋がっているように、木霊というのはそこらの木々で繋がっている。だから――」
煙谷はそう言うとおもむろにソファーから立ち上がり、事務所の扉を開き外へと出てしまった。その手には依頼書なる枯れ葉が持たれたままだ。久保は慌ててその後を追いかける。
そして、煙谷は適当な街路樹へ目星をつけるとその木を見上げた。すると、彼はその街路樹に向かって何やら話かけたのだ。
「おーい、いるかい?」
『呼んだ?』
「あぁ、この枯れ葉を落とした木を知っているかい?」
『これはね――、』
ざわざわとした木の葉の掠れる音に混じって、そんな会話がなされていた。
―― そうして、しばらく煙谷は木を見上げ、木霊と会話をしていた。そんな様子を少し離れた場所で見守る久保。
すると、木霊との会話を終えた煙谷は少しだけ肩を竦めながら、久保の元へと歩いて来た。
「明日には事が動くと思うから、用意しておきなよ」
「え、何を ――」
「あいつの言いつけを破って、夜更かしする準備だよ」
にやりと笑う煙谷の誘い文句は、いかにも怪異であった。しかし、どうして見藤から言いつけられた言葉を彼が知っているのか、久保が思わず首を傾げたのだが ――。
「あいつが助手クンに言いそうな事くらいは想像つくよ」
街灯に照らされながら、面白そうに微笑む煙谷。彼のソバージュヘアも相まって、纏うアンニュイな雰囲気は久保を納得させるには十分だったようだ。
見藤と煙谷、二人は馬が合わない。見藤が右と言えば、煙谷は左という。思考、行動、すべてが正反対だと本人たちは言うのだが ――。
(なんだ。結局、好敵手ってことだ)
その久保の独り言は言葉にされることなく、胸の中にしまわれる。そして、明日に待ち受ける夜更かしに、少しだけ心躍らせるのだ。
◇
そうして、煙谷は久保を早々に帰すと、事務所へ戻った。ポケットにしまっていたソフトパックから煙草を一本取り出す。長い息と共に、吐き出される白い煙が部屋に立ち上る。
煙谷は気だるそうにしながらも、事務机に置かれている固定電話へ手を伸ばした。
「あぁ、僕だ。檜山、ちょっと調べて欲しいことがあってね ――」
―― どうやら、電話の相手は週刊誌の心霊特集担当記者、檜山であるようだ。
煙谷は咥えた煙草を口で遊ぶ。片手は受話器を持ち、もう片方の手で依頼書なる枯れ葉を眺めながら、彼女に頼みごとをしていた。




