35.5話 事件後の細波
颯爽と事務所を後にしたキヨの背を見送った見藤と霧子。依然二人はソファーに腰掛たまま、少しばかり時間を過ごしていた。
見藤の手には止血するため鼻にあてられたタオル。それは所々、赤く染まっており彼の顔色も悪いままだ。その様子に霧子は眉を顰め、見藤を支えていた手に思わず力が入った。
「ねぇ、少しいいかしら?」
「うん?」
珍しく遠慮がちに掛けられた声に見藤はなるべく彼女を心配させまいと、いつもの調子であるように取り繕った返事をした。しかし、霧子はお見通しのようで、呆れた顔をされてしまった。
言わずもがな、見藤はその真っすぐな視線にいたたまれなくなり、視線を逸らしてしまう。
「その時が来るまで、好きにしたらいいとは言ったけれど……。あんなの、あまり見たくないのよ」
彼女が言うのは、見藤が血を流すことだろう。
今回、見藤が被ったのは怪異からの危害ではく、人からの悪意――遅延的な呪いだ。キヨが言った通り、呪いの対象外である者に助力を求めればいくらでも対処のしようがあったのだ。それを怠った結果、無駄な血を流す羽目になってしまった。これではキヨに未熟者と言われてしまうのも頷ける。
何も、呪い師というのは孤高の存在ではない。斑鳩のように組織立って動く者たちもいる。キヨのように情報を扱い、他の呪い師と利害関係において協力関係を結ぶ者もいる。
いずれも、人と人の繋がりを基盤とし、その力を振るっている。怪異である煙谷でさえ、適材適所とでも言うように見藤の所へ面倒事を持ってくるではないか。
「ね、少し……休みなさいよ」
「それは、」
そう言うと霧子はちらりと事務机に置かれた依頼書を見やる。その山は半分以下に減らしているが、その隣には新たに届いた未開封の茶封筒が数枚重ねて置かれている。
見藤はそれを気にするような素振りを見せたが、霧子は首を横に振った。しばらく依頼を請け負うのではなく、療養しろと言っているのだ。何も、他人のために死に急ぐような真似をするなということだ。
「……、一日だけなら」
「もう!!せめて二日よ!!」
少しばかりの沈黙の後に、見藤から出た言葉に霧子は憤慨した声を上げた。
そんな彼女の様子に見藤は眉を下げながら止血していたタオルを離し、手元へやる。もうすっかり血は止まったようだ。そのことに先ほどと少し変わり、安堵した表情を浮かべた霧子。
「大方、あと少しなんだ。あと少しで、この忙しさも落ち着くはずだ」
「む、何を根拠に」
「斑鳩の認知操作で広まった流行に可能な限り歯止めをかけている。もうしばらくすれば、効果が現れ始める頃だ」
「そう……、それならいいけれど」
可能な限り――、という言葉に若干の不安要素は拭えないのだが、現状よりは良くなることを祈るしかない。
今までも、見藤がこうして依頼に打ち込むことはあった。しかし、今回ばかりはどこか違う、と霧子は直感的に感じ取っていた。それは斑鳩と再会し、彼が置かれていた状況を知った。そして、その元凶であった犬神を斑鳩から落とした後、さらに顕著になったように思う。
親友を襲った人の業、そして利用される怪異。怪異は悪しきもの、人に危害を加えるものだという認識の広まり、そのどれもが見藤を突き動かしているようにも取れる。
――ちくり、と霧子の胸を何かが刺す。それは見藤の関心が自分から大いに逸らされたことによる抱く嫉妬心なのか、はたまた彼への執着心なのか。その痛みの原因は分からなかった。
見藤からすれば、ここまで呪いや怪異が世間に流布され、貶められている現状が我慢できなかった。それを何としても収束に向かわせたい、その一心だった。
彼は昔、怪異との共存を夢見た過去がある。夢は所詮、子どもがみた夢でしかなかったがその一端として、せめてもの償いと懺悔の想いから、この事務所を始めたのだ。助力を求めてやってくる怪異達に彼が心を砕くのは、その想いあってこそ。
しかし、彼の唯一である霧子にここまで心配をかけるとなると――。最早、本末転倒だろう。
目の前の霧子の表情。悔しそうな、泣き出しそうな――、震える唇を必死に止めようと噛んでいる。眉は下げられ、目には薄っすら涙が溜められている。
見初めた唯一の存在が危機に晒されても、それを見守ることしかできず、人による悪意の形である呪いに対抗する手段を持ち得なかった。それは彼女の怪異としての誇りに傷を付け、そして見藤への想いをさらに強くさせた。
そんな霧子の様子に、流石の見藤もなりふり構わず依頼に打ち込んだ結果が彼女にそんな表情をさせたと理解したようだ。もっと早く、他者に助力を求めればよかったのだ、と。
「心配かけてすまない」
「ほんとよ、全く」
どん、と体にのしかかる重さは疲弊した体であると認識させるには十分だった。
――いつも通りならば、しっかりとその両腕で霧子を抱き留めることができるのに。
霧子が抱き着いた衝撃で座っているにも関わらず、見藤の視界が大きく揺れた。今日までの不摂生と頭痛の影響もあるだろう。彼女の言う通り、休息が必要なようだと自身を納得させる。
見藤はそっと優しく、落ち着かせるように彼女の震える背中をさする。すると、お返しと言わんばかりに見藤の肩へ彼女の額がぐりぐりと擦られた。その仕草はまるで猫のようだと、思わず笑ってしまった。
「なによ……」
「いや、霧子さんが可愛らしくてだな」
「ふん!」
珍しく見藤の素直な言葉は、少しだけ彼女の機嫌を損ねてしまったようだ。肩に寄せられていた彼女の額は離れ、恨めしそうな表情を浮かべながら霧子はそっと体を離すとそのままソファーから立ち上がった。
――その時間が少しだけ名残惜しいと思ったことは、互いに口にしないのだろう。
霧子は少しだけ頬を膨らませながら事務机の方へ向かい、机上を整頓し始めた。その背を見つめる見藤は申し訳なさそうに眉を下げたのだが、手元に残る血を吸ったタオルをどうにかしようと立ち上がる。
いつの間にか事務机に置かれた新たな依頼の存在に、見藤が気付くことはなかった。彼の視線が外れたときを見計らい、霧子はその依頼が書かれた物を整頓された書類の山へと紛れさせた。
それは見藤がたった二日の休息を取るに邪魔だと彼女なりに判断したのだ。そして新たに送られて来た依頼書は一旦、久保と東雲に目を通してもらおうと考えたのだった。
* * *
そこは大学構内、いつもの談笑ペース。
久保と東雲の二人が普段通り、課題をこなしていた時だ。不意に東雲のスマートフォンが鳴る。彼女は電話口に出ると、神妙な面持ちで何やら談義している様子だ。
「そんなことが……。はい、はい。分かりました。夕方には行きますね、では」
「ん?霧子さんから?」
電話を終えた東雲に久保が声を掛ける。彼の言葉に東雲は少しばかり驚いたようだ。彼女はトートバックにスマートフォンをしまいながら、怪訝そうに久保を見ている。
「そう。よう分かったな」
「いや、見藤さんから君に連絡いくはずないなぁって」
「喧嘩売っとるんか」
いつもの軽口もほどほどに。二人は示し合わせたように溜め息をついた。
小一時間ほど前。久保のスマートフォンには見藤から、今回の依頼完了に伴い事務所に出入り可能という端的な内容が書かれたメッセージが送られていたのだ。なんとも業務的な会話文だ。
しかし、無駄を極限まで省いたメッセージ内容から察するに見藤の状態が垣間見えるというもの。そして、久保は東雲にその状況を伝えようかどうしたものかと躊躇していたのだが――。霧子から直接、東雲へ連絡が行くとは。
一方の東雲。霧子から受けた電話、その電話口に立つ彼女の心情がありありと分かるような声音だったと溜め息をついたのだった。
東雲は今回の依頼内容を久保からある程度、話を聞き及んでいる。コトリバコ成る箱の解呪を見藤自身が身を呈して行ったのだ。そうなれば、その影響を受けるというのは想像がつく。
そして、それを最も近くで見守っていた霧子の心情を想像すると、東雲の中にどこかやり切れない感情が浮かんで来る。何か少しでも霧子の気持ちを軽くできる手助けはできないのかと。
――見藤へ純粋な好意を寄せる東雲だが、それと同時に彼が大切に想っている霧子も、東雲は大切だった。
今回然り、見藤は助手という立場の二人を危険から極力遠ざけようとする。それは雇い主であれば至極当然であるのだが、それと見藤の身を案じる彼らの心情は共存しないというもの。
「なにか、できることないかな……」
「そうやね。うちも、そう思ったところ」
――見藤と、彼ら二人を隔てる壁は大きい。
なにも、同じ土俵に立とうなどという訳ではない。力になりたい、そんなささやかな願いだ。




