33話目 針山の針と影に溶ける影法師⑤
◇
「やっと……終わった……」
「ほんま、とんだ災難やったわ……」
そう呟くと示し合わせたかのように久保と東雲はうーん、と伸びをした。向かいに座る少年の姿をしたドッペルゲンガーも、心なしかうんざりとしたように疲労をその綺麗な顔に滲ませている。
彼らの目の前には綺麗に仕分け、整理された依頼書と報告書が並べられていた。そして、それも比較的急を要するもの、そうでないもの、と仕分けされている。これで見藤の実働調査の効率も上がるというものだろう。
そんな達成感と見藤の役に立てるといった充実感が、二人の疲労感をも心地のよいものへと昇華させてくれる。
久保と東雲は掛け声と共に立ち上がると、猫宮に向かってひと言。
「そしたら、僕らは帰るから」
「ほな、あとは見藤さんによろしく言うといてな。猫宮ちゃん」
「おう」
すっかり日は沈みかけ、夕陽が事務所を照らしている。結局、二人が滞在している時間に見藤は帰って来なかった。
二人は猫宮に彼への進捗状況の報告と、戸締りを頼むと事務所を後にした。彼らを見送った後、猫宮は未だ少年の姿をとっているドッペルゲンガーを見やる。
これまでの彼の様子に鑑みると、どうやら危害を加えようとその時を狙う怪異ではなさそうだ、と猫宮は思い至る。それならば、この実体を成したばかりの怪異の手助けを少しだけしてやってもいい、と気まぐれに考えた。
その実、霧子に危害を加えようとしたあの日。猫宮はその場に居合わせていなかっただけなのだが、その出来事を彼は知る由もない。
猫宮はドッペルゲンガーを見やると、ほんの少し助言をする。
「何も人の姿に固執しなければいい。動物にだってその姿を変えられるはずだぞ?ほれ、やってみろ」
「……、……!」
猫宮の指導の元、ドッペルゲンガーは少年の姿からまた違った姿へ形を変えようと四苦八苦していた。
そうして小一時間ほどだろうか。猫宮の影に出たり入ったりを繰り返しながら、ようやくその形を成したのだった。それは猫宮の姿をとったドッペルゲンガー。
「で、どうだ。この姿は?」
「……体が重たすぎる」
「あァあん?」
猫宮の睨み付けを無視するドッペルゲンガーは、すらりとした猫に姿を変えたのだ。毛色も白と茶の猫宮と異なり、それは金色の瞳を持つ黒猫だ。そして、ようやく彼の口から紡がれた言葉はなんとも率直な感想だった。
どうやら彼はこれまでの道中で見た、黒猫の姿を真似たようだ。些か憤慨したような猫宮の反応を気にすることなく、身体の馴染み方を確認している。
すると、黒猫の姿をしたドッペルゲンガーは事務所に設けられている神棚を見上げた。そして、何かを思い出すかのように目を伏せ、口を開いた。
「……認知の残滓であった頃、見守っていた子どもがいてな。それを誑かす怪異から守ってやらねばと息巻いていたが、どうやら違ったようだ」
「あァ?認知の残滓に意思なんてないだろうが」
猫宮は思わず、げっと声を上げそうになった。
認知の残滓は漂う藻のようでもあり、苔のようなものだ。それに意思が宿っている、という話は聞いたことがない。
それに、残滓から新たな怪異が生まれ出ることは見藤も認識しているが、まさか意思が宿っているとは思ってもみないだろう。だからこそ、事務所に漂う残滓を猫宮に食わせている。
今までそんなものを口にしていたのか、と愕然とする猫宮。そんな猫宮を目にしたドッペルゲンガーは、少しおかしそうに笑いながらも首を横に振った。
「それは、ここのような平常の場所だ。怪異を囲うために断絶された場所であれば、残滓もその場に留まり続け、長い月日を経てそれは意思を持つ」
そこまで話すと、彼は少しだけ憂いを帯びたような目をして、言葉の続きを口にする。
「まぁ、その場所も少し前に不浄の地に堕ちたがな。それによって、囲われていた怪異や残滓たちは悉くその場から逃げおおせてな。今はどうしていることやら……吾もそのうちの者だ」
「……複雑な身の上話だなァ」
そうぼやく猫宮は彼の話の内容にあまり興味がないようだ。耳の後ろを器用に後ろ脚で掻いている。猫宮は満足するまで掻いた後、ぶるぶると顔を横に振り、口を開いた。
「兎にも角にも、その姿なら姐さんから、とやかく言われないだろうよ」
「有り難い」
「まァ、俺みたいな獣の姿をした妖怪も怪異も、年々数を減らしている。少しでも縄張りを維持してくれる奴がいれば、俺も楽ができるってなもんだ。ドッペルゲンガーなんて、怪異としちゃあ有名すぎるくらいだからな。その認知が消える心配もないだろう」
猫宮からの申し出は、実体を得たばかりの怪異である彼にとっては有り難いことこの上ない。
猫宮はこの事務所の周辺を縄張りとしているようだが、その範囲すべてを網羅することはかなりの時間と労力がかかるらしい。その縄張りの一部を彼に任せようというのだ。そうすれば、彼は彼で他の怪異からのやっかみからも逃れられるという訳で互いに利益が見込めるのだろう。
猫宮の言葉に彼は力強く頷くと、その姿を影に溶かしたのであった。
「にしても、不浄の地なァ……。まぁ、関係ないだろう」
そう呟いた猫宮の独り言は、誰にも聞かれることなく消え去った。
* * *
それから数日後。何気ない昼下がり。
久保と東雲の働きのお陰か、見藤は少しばかりの休憩を取る余裕が生まれたようだ。
ソファーには霧子がくつろぎ、今日も今日とて雑誌に目を通している。彼女は時折ローテーブルに置かれたティーカップへ手を伸ばし、見藤が淹れた紅茶を嗜んでいる。彼女の隣には見藤が座っており、コーヒーを飲んでいる。
そこに久保と東雲の姿はなく、彼らは見藤の言いつけを守り今日は学業に精を出しているようだ。
「そういえばあのそっくりさん、どうしたのかしら」
「ん?ドッペルゲンガーか?」
「そう、その子。あんなにあんたの姿に固執してたのに……最近、押し掛けて来ないから」
不意に発せられた霧子の言葉に首を傾げる見藤。そして、あの怪異が気になるのかと複雑な気持ちを抱く。それは小さな嫉妬と、焦燥感。
ドッペルゲンガーが霧子に危害を加えようとしていた事を見藤は許していない。だが、霧子自身はあの怪異に寛容であったと思い出される。そのことが見藤の心をざわつかせた。
そうして、見藤は意を決したかの様に口を固く結んだかと思うと、霧子の顔色を伺いながらおずおずと口を開く。
「その……、この間はすまなかった」
「ん?何のこと?」
「いや、あの……」
「何よ、はっきり言いなさいよ。それじゃ分からないわ」
なんとも歯切れの悪い見藤の様子に、ようやく霧子は雑誌から視線を上げ、彼を見た。そして、かち合う視線。
見藤は気まずそうに頬を掻くと、そっと視線を反らしながら口を開く。
「振り向きざまに無理やり口付けたこと……デス」
「あぁ。あの狡いキスのこと?」
「うぐっ……。配慮に欠けた行動で、した……」
霧子の容赦ない指摘は見藤の呵責の念をさらに強くする。終いには、見藤はぎゅっと目を強く瞑ってしまった。そして、眉はこれでもかという程に下げられている。
「あんなキス、ノーカンよ」
そう言い放った霧子は頬を膨らませ、口先を尖らせている。それはいかにも拗ねているという表情だ。
そんな霧子を可愛らしいと思ってしまったと悟られれば彼女は機嫌を悪くしてしまうに違いない、と見藤は何も言わなかった。
だが、思わず細められた見藤の目を見た霧子は、拗ねた表情から今度はその頬を紅く染めたのだ。それほどまでに見藤の目色は軟らかかった。
見藤は気付くと指の背で彼女の頬を撫でていた。霧子の低い体温に、見藤の指先の体温がじんわりと分けられていく。すると、霧子はぴくりと肩を震わせた。
そのような花恥ずかしい仕草を見せられれば、自ずと唇を寄せたくなるものだ。
見藤は指の背を追うように、鼻先を彼女のそれに寄せた。それに驚いたのか花紺青の瞳が少しだけ見開かれたかと思うと、睫毛がふるりと揺らぐ。
―― そっと触れるだけの、口付けだった。
ただ、それだけでも確かにあるのは霧子へ一途に寄せられた見藤からの仁愛。唇が離れると二人は何を思ったのか ――、穏やかに笑い始めた。
「ふふふ」
「ははっ、本当にらしくないな」
「ええ、全く」
ここまで見藤が愛情を露に、霧子へ示すことなど今までなかった。それには少なからず、彼女を襲った集団認知の禍害を含んだこれまでの出来事。それらが見藤に彼女と過ごす時間は有限である、と今更ながらに強く自覚させた。その限られた時間の中で、見藤はようやく、自分の幸せを強請る心積もりができたのだ。
(これじゃあ、ほんの少しの幸せなんてもんじゃないな……)
心の中で自嘲気味に呟いた言葉は、この得も言われぬ幸福感に溶かされていく。
離れるのが惜しいとでも言うように、彼女の頬に触れていた指の背はその先にある耳へ伸ばされ、そっと顔にかかった髪を耳に掛けてやる。その指から伝わる体温に、うっとりと目を細める霧子の恍惚とした表情。
その表情に、見藤は思わず釘付けになってしまった。自分の耳に聞こえて来る鼓動が、心なしかいつもよりも早い気がする。見藤は自制するようにぐっと唇をきつく結んだ。
すると、突然 ――――。
「見藤、お前……ガキみたいな恋愛してんのな」
事務所の扉を開け放ち、そこに佇む斑鳩の姿。ノックをしようとしたと思しき手が彷徨っている。
見藤は一瞬、何を言われたのか分からなかった。ようやく思考が追いつくと、斑鳩に一部始終を目撃されていたのだと思い至り ――。
瞬時に顔へ血液が集まり、羞恥心のあまり眩暈がする。よりにもよって斑鳩に目撃されるなど、猫宮の茶々が可愛く思えるほどだ。
見藤の中に渦巻く、言葉にできないほどの羞恥心と斑鳩への怒りは叫びとして昇華されたようで ――。
「い、斑鳩ぁーーーーっ!!!」
「こいつ、憑り殺していいわよね?」
叫び声を上げながら斑鳩を睨み付ける見藤を余所に、霧子は珍しく冷静な様子。そして冷え切った声で物騒な事を口走っている。その言葉にぴたり、と見藤の叫びが止まった。
そして、間 ――。
「………………、それはヤメテ下サイ。一応」
「あ、おまっ……!一瞬考えただろ!!??これだから、怪異はおっかねぇんだよ!!」
じとり、と見藤に睨まれながら斑鳩は抗議の声を上げる。しかしながら、互いに離れようとしない彼らを見る斑鳩の目は少しばかり呆れたような。見藤が怪異の女に入れ込むことに対して、どこか諦めがついたような、なんとも複雑な色をしていた。
そんな斑鳩の胸中など知る由もなく。見藤は気まずさと羞恥心を誤魔化すように、乱暴に頭を掻いたのであった。
「あぁあ~~~……くそ……。んで、何の用だ」
「そう睨むなって」
「この前からお前が来ると碌な事がない……!!」
見藤の言葉に間違いはないとでも言うように斑鳩は肩を竦ませた。だが、その次にはあっけらかんとした様子で見藤の所に立ち寄った理由を口にした。
「いんや、別に。近くに寄ったもんで、ついでに覗いて行こうかと」
「来なくていい」
「まぁ、そう言うなって」
「にやにやするなっ!!」
そんな問答を繰り広げている斑鳩と見藤。すると、そこに響く新たな声に視線を取られる。
「よ。いるかい?」
「また面倒なのが来た……」
「なに、その言いぐさ。失礼だな」
―― 煙谷だ。彼は見藤の言葉に些か憤慨したように鼻を鳴らした。
心が浮き立つような霧子との時間は、どうやら終わりを迎えたようだ。見藤はいつもの調子で深い溜め息をつくのであった。




