31話目 果たされなかった約束
見藤が斑鳩と合流し、沙織と共に体育館を出る頃。すっかり辺りは黄昏に包まれていた。既に所々、街灯が点灯している。
帰り道、夕陽を背にしながら見藤と沙織、その後ろを斑鳩が歩く。斑鳩の目には彼女の足取りが軽やかに映るのは気のせいではないだろう。
そんな中、三人の沈黙を破ったのは見藤だ。
「どうせなら、何か食べて帰るか……。今日はまだ何も食べてないからな」
「え、お腹空かない?」
「少し、忙しくてな」
何てことのない会話をしながら歩いていく。不意に見藤が沙織を見やり、その横顔が晒される。
前を行く二人の背を眺めていた斑鳩はその横顔を目にすると、少し驚いたように目を開く。その表情は斑鳩もよくする表情だったからだ。
── 子を思いやる顔だ。
「何か食べたいものはあるか?好きな所へ行こう」
「うーんと、」
見藤のその誘いは沙織を慮ったものだった。どうせこのまま家に帰したところで、あの養父のことだ。
彼女は身の回りのことは全て自身で賄っていることは想像に容易い。それならば、夕飯くらいは楽しく過ごしたとしても罰は当たらないだろうと見藤は考えたのだ。
(……これじゃあ、まるで)
前を歩く二人の背を見つめながら、斑鳩は思うことがあったようだ。そんな斑鳩の心中を読み取ったのか、沙織は嬉しそうに微笑むのであった。
すると、ぴたりと見藤が立ち止まった。どうしたのかと、沙織も彼を見上げている。彼の表情は、何かまずいことをしたと言わんばかりにしかめられていた。
そのあまりの表情にどうしたのかと一瞬身構える斑鳩。そして見藤の口から出てきた言葉に、斑鳩は拍子抜けするのであった。
「いや、未成年と出歩くのは流石にまずいか……?」
「はぁ?見藤、その子は怪異だろ」
斑鳩のその言葉にむっとした表情をしたのは見藤だけではなく、その隣に並ぶ沙織も同じことだろう。二人はほぼ同時に斑鳩を振り返った。
彼が発した言葉はあまりに差別的だ。その意を理解した見藤は斑鳩を諫めるような視線を送り、沙織は「この人嫌い」とぽつりと言葉を吐いたのだった。
斑鳩は沙織が人として生きていく選択をしたことを知らぬとは言え、怪異はその姿と生きてきた齢が比例しないことに常識を縛られている。
斑鳩と見藤、過去に同じ時間を共有した仲であったしても、こうも顕著に怪異に対する考えが違っているのも彼らを取り巻く環境が故に仕方がないことなのかもしれない。
斑鳩は二人の視線にばつが悪そうな表情を浮かべながら、がしがしと雑に首の後ろを掻いたのだった。
すると、ふと気付く。影が三人に覆い被さるようにその色を濃くしていることに。
夕陽を背にしながら歩いて来たのだが、周りには自分たちを覆い隠す影ができるような遮蔽物は何もなかったはずだ。
ずぞぞ、ずぞ…… ────。何かを引きずるようなその異様な音は彼らに身の危険を知らせるには十分だった。
「斑鳩!!!」
彼を振り返っていた見藤の叫び声が辺りに木霊する。
斑鳩の背後に見藤が視たのは、自分たちの背丈を優に超える体躯を持ち、腰を折りながら這うように歩く外套を身に纏った老人のような風貌の怪異。
しかし、その折られた腰に続く上半身の更に先。頭から被っている薄汚れた頭巾はその顔を隠して外套に繋がっており、その外套は地面に引きずられている。
皺が刻まれた骨ばった手に持つのはただの長い柄だが、その先にあるのは大きな剃刀刃だ。
(ユビキリマワリ!?)
見藤は直感的にそう感じた。視線はそのまま、咄嗟に隣にいる沙織を背に庇う。が、その判断を誤ったことに気付く。
ユビキリマワリが手にしている剃刀刃は大きく振り上げられ、その弧の軌道はこちらではない。
(違う、狙いはっ ──、)
斑鳩だ。
振り上げられた剃刀刃、それはただ小指を切り落としてしまうにはあまりに不自然な動きだ。それが意味する事など、想像しなくとも分かる。
彼の命を刈り取ろうとしている。果たされなかった斑鳩と見藤の約束、その対価をユビキリマワリは回収しに来たのだ。
見藤は肩にかけていた鞄を引き剥がすと、せめてもの時間を稼ごうとユビキリマワリに向かって投げつける。あれには呪い道具が入っている、そのうちのどれかには怪異封じなる物も入っている。
それが効けば、斑鳩がユビキリマワリと距離を取る僅かな時間程度は稼げるはずだ。ほんの一瞬だが、ユビキリマワリのその体躯が揺らぐ。
しかしそんな見藤の行動も虚しく、斑鳩はその場を動けずにただ立ち竦んでいたのだ。間に合わない、せめて斑鳩を突き飛ばすことができれば ──。見藤の伸ばされた手は空を彷徨う。
「……喰らい付け」
ぽつり、と呟かれた斑鳩の声を聞いたのはユビキリマワリだけだろう。
斑鳩の言葉に呼応するかのように彼の背後からぼこぼことした沸騰した液体のような音を響かせながら何もない空間から現れた怪異。
怪異は土竜のような風体で体は斑模様、目は光を必要としないのか潰れている。そして、現れた怪異は一体ではなかった。
初めに現れた一体を先頭に、後ろからいくつもの同じ怪異が列を成して現れる。それらは、斑鳩の言葉に従うようにユビキリマワリへと一斉に襲い掛かったのだ。
ユビキリマワリによって振り上げられた剃刀刃を持つ腕に飛びつき、その骨ばった腕を齧るもの。または体に飛びつき這いまわり、齧りつく。
その光景は見藤の目にどう映ったのか、背に庇う沙織にその光景を見せないように手で彼女の視界を遮る。その間、見藤は唇を噛みしめ苦渋の表情を浮かべていた。
「犬、神……」
ぽつり、と呟いた見藤の言葉に、背に庇われている沙織ははっとしたように彼を見上げた。
するとユビキリマワリは声も上げずに、夕陽に照らされた影に溶けるように姿を消したのだ。しかし、消える寸前。頭巾を被ったその顔は分からないが、不思議と斑鳩を凝視していたようにも感じられた。
そうして、ユビキリマワリが姿を消すのと同時に、土竜の姿をした怪異達もその役目を終えたかのように姿を消したのであった。
騒然となったその場に響くのは見藤の怒号。
「斑鳩!!!!」
「………説教は聞かないからな」
「お前……、犬神がどんな物か知っているだろう!!!」
「機嫌を損ねなければ、どうということはない」
斑鳩はその声を聞くと、どうにもばつが悪いのか視線を合わせようとしない。彼は足元に落ちていた見藤の鞄を拾い上げた。
──── 斑鳩は、犬神憑きであった。
犬神とは、人の手によって造られた怪異だ。その生まれ故か、気性は極めて粗く犬神憑きの人間を食い殺すとも言われるほど。
犬神を生み出す手法は蟲毒を踏襲したものとされ、平安の世の頃には既にその手法は禁止されたと伝え残されている。
生きた犬を用い、飢えに苦しんだ末に人の手によってその命を奪われる。そうして残る怨念を呪物として人に憑かせるものや、獰猛な数匹の犬を戦わせた挙句、勝ち残った一匹に魚を与えてその命を奪い、犬が食べ残した魚を人が食べる、などその呪法は様々に伝承として残っている。
そして、その姿は犬神という名らしからぬ、土竜やハツカネズミとも言われている。しかし、いずれも人にとって、ただ都合のよい恩恵を与えるものではない。
斑鳩は項垂れるように、力なく言葉を溢す。
「お前にだけは視られたくなかったよ」
すると片腕が痛むのか顔を歪め、痛む場所を確認しようと袖を捲った。そこには真新しい、犬に噛まれた様な歯形がくっきりと痕を残していた。それはまるで、犬神の力を借りた代償とでも言うようだ。その様子に見藤はさらに顔を曇らせる。
見藤の怒りの感情を読み取ったのか沙織は彼に平静さを取り戻させようと、ダウンパーカーの裾を強めにくい、と引っ張った。はっと、見藤は背に庇っていた沙織を振り返る。彼女の表情は見藤の心中を慮っているようにも見られるが、唇は硬く閉じられその瞳と同じように冷静であった。
そんな沙織の様子に見藤は平静さを取り戻したのか、溜め息をつくと斑鳩へと向き直る。そうして、彼に近付いて行く。
「今晩、うちへ寄れ。話はそれからだ」
「………おう」
斑鳩は短くそう返すと、拾い上げた見藤の鞄を持ち主に返す。
ひとまず目の前の危機は過ぎ去った。しかし、姿を消す直前のユビキリマワリは斑鳩を凝視していた。それはユビキリマワリの怪異としての存在意義、その目的を果していないとでも言うのだろう。見藤は推測を斑鳩に伝える。
「あれは恐らく、またお前を狙う」
「ははっ、怪異退治には好都合だな。……痛っ、!!」
「笑い事じゃない」
鞄を受け取るとき、見藤は空いた片方の手で咬傷を負った斑鳩の腕をぐっと掴んでみせた。その容赦ない力加減は見藤の怒りを表しているかのようだ。
斑鳩は思わず、その痛みで声を上げてしまう。彼は恨めしそうに見藤を睨み付けるが、その表情は真剣な眼差しをしており居心地の悪さから視線を逸らすのは斑鳩の方であった。
人との繋がりを極力持とうとしない見藤であっても、悪友とまで言わしめる斑鳩の存在は彼にとって、呪物をその身に取り憑かせた代償を自業自得だと見放すにはあまりに大きいものなのだろう。
その頃になると辺りはすっかり夜の帳が降り、街灯がその存在を目立たせていた。
そうして、見藤は沙織と共に斑鳩と別れた。何とも言えないような表情を浮かべながら、隣を歩く見藤を見上げる沙織。
沙織は怪異であるため、人の果たされなかった約束の対価を回収する怪異であるユビキリマワリの餌食になることはない。しかし、見藤が咄嗟に庇ったのは彼女だ。そのことが幼心にも嬉しいと感じてしまうのは少なからず、親の愛情に飢えた子どもであるということを自覚してしまったのだろう。
沙織はその思いを払拭するかのように首を振ったのであった。
特に会話のないまま二人の歩みは進む。これでは楽しい夕食どころではなくなってしまった。
沙織はぽつり、と言葉を溢した。それは決して、他の大人に言わないような言葉だろう。しかし、少しでも見藤の胸の内を軽くしようと、彼女なりに気を遣ったのだ。
「お腹空いた」
「あ、あぁ……そうだな」
「ピザがいい」
「…………空きっ腹のおっさんに、それはキツイ」
「えー」
そんな問答をしつつ、二人は街灯に照らされながらファミレスへ向かうのであった。




