4話目 出張、京都旅。人を呪わば穴二つ④
目の前で起きた怪奇。久保は蚊の鳴くような声で呟いた。
「霧子さん……、怪異だったんですね」
「ふふっ、バレちゃったわね」
その呟きに、霧子はまるで悪戯っ子のように微笑んでみせた。彼女は見藤の背丈に合わせて身を屈ませて、首を傾げる。すると、艶やかな黒髪が流れるように見藤に掛かった。――それはまるで、見藤との関係を示しているかのようだ。
東雲は唇を戦慄かせながら、どうにか言葉を口にした。
「見藤さんと霧子さんって――」
「ま、まぁ。そういう関係よ」
霧子は動揺めいて顔を赤らめた。可愛らしく首を傾げながら、そう語る。すると、彼女の隣に佇んでいた見藤が仏頂面を晒したのだ。
「霧子さん、その言い方……」
「何よ、ホントのことじゃない!」
見藤の気まずいと言わんばかりの表情。一方の霧子は見藤にぴたり、と体を寄せている。その光景に、久保と東雲は察した。
人である見藤と、怪異である霧子。二人の間にある、密な雰囲気。それは種を超えた絆や、愛情があると一目見て分かるものだった。どうりで、「昔馴染み」という言葉だけでは説明がつかない訳だ。
意外な事実――、とまでは言えない。しかし、思いがけない拍子に奇怪なことを知ってしまったものだ。久保は驚きの言葉をどうにか呑み込んだ。
すると、見藤は霧子を見上げ、目元を綻ばせながら口を開く。
「まぁ……その。助かったよ、霧子さん」
「どういたしまして」
交わされる見藤と霧子の会話。
久保は猫宮の言葉を思い出した。見藤には何かが「憑いている」と言っていた。そうだとすれば、突如として霧子がこの場に現れたのは――。
「見藤さんに、取り憑いているモノって――」
「あぁ、それ? 私のことよ。それじゃ、無事だったことだし。私は還るわね」
こともなげにそう答え、霧子は姿を霧に変えて姿を消してしまった。
◇
丑三つ時。月明かりが照らし出す、静けさに包まれた境内。
目まぐるしい展開に、久保はただ騒然とその場に立ち尽くすだけだった。ようやく、久保が口を開いたのは、緊張の糸が切れた東雲が地面に座り込んだときだ。
「それにしても――、あれは何だったんですか……?」
絞り出した声は震えていた。依然として東雲は座り込み、口も開けないほどだ。
すると、見藤は大きな溜め息をつき、問いに答えた。
「人、だろうな」
「そ、そんな訳ないでしょう……! あんなの……!」
人が怪異を喰らうものか、と大きな声で反論する。しかし、見藤から返ってきたのは意外な答えだった。
「あれは……爺さんの依頼にあった藁人形を打ち付けた奴だろうな。多分」
「どういう事ですか……」
久保は間髪入れず、疑問を口にする。到底、理解できる範疇を超えていた。
しかし、見藤は当然のように答えを口にする。
「丑の刻参り。その呪いが跳ね返ってきたんだ」
「でも……! それで、あんな風に――」
久保はその先の言葉を噤んだ。
異形の行動は到底、人のものとは思えなかったのだ。よく思い出してみれば、脳裏に蘇るその姿。――手足の一部は歪んでいて、皮膚は爛れていた。身に着けているものは汚れ、端切れのようなものを纏っていただけのようにも思う。言葉を口にすることはなく、その声は動物のようで。
久保はもよおす嘔気に耐え切れず、口を手で覆った。
「うっ……!」
「ここで吐くなよ」
「でも、なんで――」
どうにか声を絞り出し、久保は見藤を見やる。すると、彼は境内の林の方へ視線を向けた。――そこは、東雲が言っていた呪いの藁人形が打ち付けられていた場所。
見藤は目を伏せ、憂うように語る。
「人を呪い殺したいと思うほどの怨念と執念。それが自分に返ってくると、もう人には戻れない……。精神的にも、肉体的にも異常をきたし始める。ゆくゆくは、怪異と人の狭間に置かれたような存在になってしまう」
狭間、曖昧な存在。怨念と執念に呑まれた、かの存在はどこへ向かうのだろうか――。久保の疑念は尽きない。
「あれは、あのままで良かったんですか……?」
「あぁ。もう、人に危害を加えることはないだろう。ああなった以上、この世に存在し続けることはできないからな」
その言葉が意味すること。久保はその先の思考を放棄した。だが、僅かな気掛かりを口にする。
「でも、人間だったのなら、誰かが気付くでしょう……?」
「日常においても、年間数万人の失踪・行方不明者がでている。よほど血縁関係でもなければ、気にも留まらない。……人を呪わば穴二つだ」
苦虫を噛み潰したような顔で見藤は言い放った。人間関係は希薄なものだ、と言われているようだと、と久保は心の内に思う。
「はぁ……、ここの怪異には悪いことをした」
見藤はそう言うと足を進め、しゃがみ込んだ。そこは異形によって喰い散らかされた、白蛇の残骸が散らばった場所だった。
白蛇の残骸――。頭がないもの、尾だけになったもの。喰い散らかされた残骸は普通の蛇のようであり、目にして気分がよいものではない。久保と東雲からすれば、あまり視たくない光景だ。
それをあろうことか。見藤は素手で掻き集め始めた。そして、まるで弔うように境内の端に埋めてやったのだ。――人の目に視える訳ではない、怪異だというのに。
それは久保が抱いた、強烈な違和感。
(……この人。おかしい)
――見藤は怪異に心を砕く。自らは人であるにも関わらず。
これまで見藤と過ごした短い時間の中。彼はどこか人との関わりに一線を引いている。一方で、一度でも関わりを持てば、際限なく手を差し伸べる。どこか矛盾した行動を見せる。見藤の行動原理を示す答えはいくら考えても導き出せない。
(知りたい、もっと)
この世にも奇妙な世界のこと。そして、見藤のこと――。
久保が自らの心に抱いた所願を噛みしめていると、不意に東雲の呻き声が聞こえて来た。
「う、ぇ……」
「わー!? し、東雲さん!? ずっと、黙ったままだと思ったら――!」
「ずみまぜん……」
恐怖と嫌悪感に耐え切れず、胃液を戻してしまった東雲。そんな彼女を介抱したのは言わずもがな、見藤であった。
* * *
翌朝。祖父は朝早から神社の仕事で家を発っているようだ。
そこで目にしたのは食卓に並ぶ朝食。どうやら、彼のご厚意なのだろう。見藤と久保は有難くご相伴に預かることにした。
三人は軽く朝の挨拶を交わすと、昨晩の疲労感からか無言で食卓についた。
すると、見藤はそっと口を開く。
「久保くんと東雲さんは、参拝に行ってくれ」
寝癖を気にする素振りもない見藤は、疲労を隠せていない。薄っすらと目の下に隈を浮かべている。
普段見られない見藤の寝起き姿だ。それをしばらく眺めていた東雲は、はっとして話を真剣に聞き始めた。――彼女は相変わらずのようだ、と久保は呆れたように鼻を鳴らす。
見藤はそのまま言葉を続ける。
「俺は神に祈るなんて柄じゃないが、君たちは違う。ああ言った類の存在との縁は早めに切っておくべきだ」
久保としても、見藤の言うことは大いに頷けた。
そうして、身支度を進める三人。
テレビに映る、谷合の河川敷で発見された変死体のニュース。よくある事件だ、と関心を寄せるほどのものではないと、誰も気に留めなかった。
◇
その後、神社へ赴いた久保と東雲は、拝殿へと向かった。恙なく、参拝を終えると見藤の元へ向かう。すると――、見藤は鳥居に向かってナニかと話をしている様子だった。久保の目に何かを映すことはない。
「あれは……?」
「多分……、うちの神社の神様」
「東雲さんには視えてるんだ……?」
「うん、大きな白い大蛇が神額に巻き付いてる」
そう答えた東雲は、昨晩の感謝を込めて祈りを捧げていた。――久保は、世の中やはり不思議な出来事もあるものだ、と思い留めておく。
久保と東雲に気付いた見藤は、安心したように目元を綻ばせた。そうして、帰路に着こうと久保を促す。
「それじゃあ、俺たちは帰るか」
「そうですね……。流石に京都観光! なんて気分じゃないですよ」
久保は東雲と「また大学でね」と挨拶を交わし、別れたのであった。
* * *
久保は出発時と違った面持ちで帰路に着いていた。見藤の呪いは悪いものではない、その考えは変わらない。
人が人の死を望み、人を呪うことがある。それは明確な人の悪意だ。今回、それを目の当たりにしたのだ。偶発的に遭遇する人を襲う怪異と、その本質は全く違う。
寧ろ、見藤のように呪いを得意とする者に、相手を不幸にするような呪いを施すよう依頼をしてくる輩がいるかもしれない。その考えに至った久保は、人の醜悪さに気分が悪くなった。
「見藤さんは、どうしてこの仕事を?」
座席に深く腰掛ける見藤に、気が付くとそんな質問をしていた。
見藤は少し考えた後――。
「この生き方しか知らん、からな……」
そう答えた。彼の答えがどのような意味を含んでいるのか、久保には理解できなかった。
しかし、唯一想像できること。恐らく、見藤はこの怪奇な世界に身を置く選択肢以外、持ち合わせていなかったのだ。――人でありながら、怪異に心を砕く。稀有な存在。
(このままじゃ、いけない気がする……)
久保の中に、そんな想いが浮かんだ。
新幹線が到着するまで、ただ沈黙が続いていた。
ようやく事務所の最寄り駅まで辿り着く頃。二人の顔には昨日の疲労が見え隠れしていた。
事務所の扉を開け、二人は慣れ親しんだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。それだけでも、帰ってきたという安心感が心を満たす。
そこに掛けられる、軽快な声。
「お、ようやく帰ったか。遅かったな。って、うわ、何だ! 突然!?」
猫宮の出迎えだ。途端、見藤は猫宮を抱きかかえて撫で回した。ものの数回撫でただけで、短い毛並みがぼさぼさになる。
しかし、猫宮も所詮、猫だ。口では文句を言いつつも、喉をゴロゴロ鳴らしていた。
久保はその光景を神妙な面持ちで眺めていた。すると、猫宮が口を開く。
「そうだ、お前ら。土産はどこだ?」
「…………」
「あ」
――しまった。すっかり忘れていた、と久保と見藤の額に冷や汗が浮かぶ。
お土産がないことを知り、怒り狂った猫宮。そんな猫宮に見藤は強烈な猫パンチを食らい、久保は思い切り脛を噛まれた。
疲れ切った体に容赦のない仕打ち。流石は怪異と言ったところだろうか。
痛みに耐えかねた久保の悲痛な叫びが、事務所に木霊した。




