1話目 奇絶怪絶
奇絶怪絶、奇々怪々。世にも奇妙な、常識では起こり得ない不思議な出来事。
それは時に、視えざるナニカや、人ならざる存在によって引き起こされた事件や事故。それらに巻き込まれた人により、語られることが多い。そのナニカは怪異――、都市伝説上の存在や妖怪、幽霊などに、その呼び名が当てはまる。
某所、事務所を構える男の元に届く、奇妙な依頼。
事務机に向かいながら、書類を眺める男。彼は溜め息をつくと、ぽつりと呟く。
「行方不明者、続出ねぇ……」
「なんだァ、怪異が活発になってやがるのか?」
どこからともなく、聞こえてきたのは呑気な声。しかし、声の主の姿は見当たらない。
男は気にする素振りもなく、問いかけに答える。
「さぁな、今はなんとも言えない。でも、まぁ……この辺りで迷い家に遭遇した、なんて情報もあったような気がするが――?」
「おい、しっかりしろよ見藤ォ。それが本当なら、行方不明者が増えたとしても不思議じゃないなァ」
見藤と呼ばれた男は眉をひそめ、別の書類を手に取った。
現代において怪異と偶発的に遭遇する、となると――。必然的に、その行方を眩ませることになる。そんな話が、この事務所では日常だった。
* * *
久保はどこにでもいる、平凡な大学生だった。青年らしい背格好だが、特筆すべきことは何もない。
毎日同じ時間に起床し、下宿先から大学へ通い、講義を受けてクラスメイトと他愛ない会話を交わして帰宅する。その繰り返し。
春の訪れとともに、二年目の大学生活が始まろうとしていた。しかし、単調な毎日に少し飽き飽きしていたところだ。
(何か新しいこと、ないかな……)
構内掲示板をぼんやり眺めていた久保の目に、アルバイト募集の張り紙が飛び込んできた。軽作業、事務処理、初心者歓迎。時給は悪くなかった。
(アルバイト、ね……。始めてみようかな)
学業に精を出してはいるものの。特に毎日それ以外何をするわけでもない。ただ繰り返される日常に変化を求めていた。
張り紙に書かれた住所を確認するとスマートフォンを取り出し、住所を調べる。この距離なら、大学と下宿先とも遠くはない。先方に連絡し、面談の日程を取り付けるまで大して時間はかからなかった。
◇
面談当日。久保は軽装で、雑居ビルの中にある一室へと向かっていた。
ビルは経年経過している建物のようだった。外壁の塗装は剥がれ、ひび割れが目立つ。都会の喧騒の中にありながら、どこか時代に取り残されたような雰囲気だった。
(ちょっと古いな……。大丈夫かな)
違和感を覚えつつも、面談時間に遅れるわけにはいかない。観察はほどほどに、久保はビルの中へと入った。
そうして、目的の部屋の前に辿り着くと、扉を数回ノックする。
「どうぞ」
中から訝しんだ声が響く。
久保が扉を開けると、目にしたのは事務所兼、応接室のような造りの一室だった。
事務机で作業をしている男が、先程の声の主だろう。短く切り揃えられているはずの髪の毛先は寝ぐせがついており、顎には無精ひげ。身に纏うスーツは所々に皺ができていた。
要はさながら、くたびれた中年の風貌。歳は壮年期半ば、三十代後半くらいだ。目元の小皺と切れ長の眉が、どこか穏やかな印象を与える。落ち着きのある声で、心地よい低さだった。
久保は扉の前で軽く一礼する。
「こんにちは。アルバイトの面談に伺いました、久保といいます」
そう名乗ると、男は少し眉を寄せた。彼は困惑した表情を浮かべながら、そっと口を開く。
「アルバイト……? 募集した覚えはないが……? ――まぁいい、座ってくれ」
「あ、はい。ありがとうございます……」
男の言葉を聞いた久保はぎこちなく返事をする。――確かに面談の連絡をしたはずだが、この男には伝わっていないらしい。事務所には事務机がひとつだけ。久保の中で思考が巡る――、ここの職員は彼一人なのだろうか。一抹の不安を覚え、表情を曇らせる。
男は事務机の前方に配置されたローテーブルとソファーを見やる。そこで面談を行うというのだろう。久保は言われた通り、ソファーに座る。男もそれに続いた。
そして、久保はリュックから履歴書を取り出し、男に手渡す。男は一通り眺めると短く息を吐いた。
丁度のそのとき、机の影からぴょん、と毛玉が飛び出した。――猫だ。茶虎柄の猫が久保を一瞥し、我関せずといった様子で立ち去って行った。
(なんで、こんな所に猫が?)
不思議に思う間もなく、男が口を開いた。
「丁度よかった。最近、目が霞んで事務作業に時間がかかって仕方がなくてな。これも何かの縁だろう、これからよろしく。いつから来られそうか?」
「え、あ……よろしくお願いします。いつからでも大丈夫です」
「見藤だ、改めてよろしく」
こうして、久保の平凡な日常に小さな変化が訪れた。
* * *
(それから、はや二ヶ月。ほんと、何なんだろ……この事務所)
久保は思考を巡らせていた。
見藤の事務所は、どこか奇妙だった。ここは一体、何の仕事を請け負っているのだろうか、と疑問に思うほどに。
まず、時代に取り残されたかのように、見藤は機械にめっぽう疎かった。「機械は叩けば直る」と豪語した見藤に、久保は思わず「そんなわけないでしょう!」と声を荒げたものだ。
そして、書類の量が尋常ではない。さらに、その内容も怪しい。見知らぬ地名、聞いたことのない用語、奇妙な図形や図面。まるで怪奇な世界の記録のようだった。
久保は深く考えないよう自分に言い聞かせたが、好奇心が疼く。そんな時、猫の鳴き声が思考を遮る。
「にゃーん」
「お、又八。どうした?」
「シャーっ!」
この猫、名を又八という。名を呼ぶと威嚇されてしまった。小太りで足の短い、なんとも愛嬌のあるフォルムをした飼い猫だ。 しかし、どうやら懐かれてはいないらしい。
久保はひっそりと、心の中で涙を流した。
そうして、夕刻。
見藤は書類作業をしていた手を止め、久保に声を掛ける。
「それじゃあ、今日はここまでだな。お疲れさん」
「ありがとうございました。また、明日来ますね。見藤さん」
久保は見藤に見送られ、事務所を後にした。帰路につき、再び思考を巡らせる。
見藤は不思議な人だった。くたびれた彼の外見とは裏腹に、事務所は驚くほど整頓されている。棚に並ぶ本や書類は埃ひとつなく、潔癖症かと疑うほどだ。さらに、彼が綴る文字はとてつもなく綺麗で、育ちの良さを感じさせるものだった。
さらに、見藤は一見、強面に見える。しかし、話すと穏やかで、時折見せるはにかんだ笑顔は、より優しげな印象を受ける。
(まぁ、深く考えないでおこう……)
こうして、久保は何気ない日を終える。
* * *
その日。久保は講義を終え、友人と帰路につこうとしていた。
「なぁ、久保。最近、巷で怪談話が流行ってるの知らん?」
「え? あぁ……。うーん、あまり興味はないかな」
「まぁまぁ、そう言うなって。都市伝説とか面白そうやない?」
彼は大学入学時からの友人で、こうしていつも他愛ない会話を楽しんでいる。彼は特徴的な喋り方をするが、そんな会話もいつの間にか慣れたものだと久保は頭の片隅に思う。
すると、友人は言葉を続ける。
「ほんまに、心霊体験とかしてみたいわ。な、久保もそう思わん?」
「うーん、したいかと言われれば……したくないかな。僕にはあまり関係ないというか?」
「なんで、自問自答しとんねん」
久保は怪談話や都市伝説を信じていない訳ではない。ただ、自分には無縁だと考えている――、それが率直な感想だった。そんな久保の内心を知りもしない友人は、話を続ける。
「まぁ、ええわ。夏休みにクラスの何人かに声かけて、心霊スポットにでも行こか! 俺がどっかリサーチしとくわ」
「お断りしまーす。まぁ、お喋りはこの辺でお終い。さっさと帰るぞ。僕、バイトあるし」
「え、久保。お前バイト始めたん?」
「言ってなかったっけ?」
そんな他愛ない会話をしながら、二人は構内を後にした。
◇
久保と友人は何気ない日常を過ごす。並んで歩く二人、先に口を開いたのは友人だ。
「あ、そうや、久保。この辺に美味い飯屋見つけたんよ。期間限定のメニューが――」
「おっけ、まだ時間あるから大丈夫だ」
友人の誘いを断る理由もなく、久保は二つ返事で承諾した。
大通りを徐々に外れて行き、次第に人通りはなくなっていった。あるのは連なる建物の伸びた影と、二人の足音、ビルの間をすり抜けていく風の音。
どれだけ歩いたのだろうか――、久保は不思議と時間経過の感覚が狂ったような錯覚に陥る。二人の間に既に会話はなく、ただ足を前に進めるだけだった。
(道に迷った……? なんか、変な――)
久保は得も言われ感覚を覚え、振り返る。しかし、景色は特に変わった様子もなく、歩いてきた道がそこにあるだけだった。――だが、久保は突然の不安感に襲われる。血の気が引いたように手足が冷えていく。
「なぁ……っ!」
久保は慌てて向き直り、自分の前を歩いていた友人に声を掛けたが――。
「いない……」
そこに友人の姿はなく、代わりに都会とは思えない風貌の古民家が目に飛び込んできた。
(なんだこれ……、あいつはどこへ行った? はぐれたのか?)
いくら周囲を見渡しても人の気配はない。あるのは、古民家へ続く小道と田舎風景。――理解が追い付かない。いや、頭が理解することを拒否しているのか。ただ、自分は友人とはぐれて道に迷っただけだ。そう言い聞かせ、来た道を戻ろうと、もう一度振り返った。
「えっ……道が……っ!?」
しかし、目に映ったのは歩いて来た道ではない。小道が続き、小脇には雑草やススキが生い茂っている。――違う、先程までビルが立ち並ぶ、コンクリートだらけの都会にいたはずだ。
常識が思考の邪魔をする。――それに、この不安感はなんだというのだろう。
いつになく心臓の鼓動が早く感じ、久保は胸を押さえた。
(と、とにかく! あいつを探さないと……!)
錯乱状態の久保は冷静な判断などできず、目の前の古民家に近付く。友人もそこにいるかもしれない、という淡い期待が思考を占める。
季節外れのススキが風に靡き、揺れている。久保を民家へ誘うように、ゆらゆらと穂をもたげながら揺れた。
久保は一本道を進んで行き、石垣でつくられた低い門を通る。目前にした民家は、数十年人の手が入っていないと想像に容易いような風体。
玄関前まで辿り着く。脇を見やると、劣化し赤褐色に変色した郵便受けの中には、大量の広告や新聞が詰め込まれていた。何枚かは地面に落ち、散乱している。その状態は悪く、濡れている。
(なんだ、ここ……気味が悪い……)
周囲を見回す。
何よりも異質なのは、辺りは夕陽に照らされていると言うのに、この民家の周囲だけが薄暗い。まるでダムの水底のような湿気とカビ臭さに満ちている。それらの異様な光景は、この民家の不気味さを醸し出すには十分だった。
久保は気分が悪くなり、顔を顰めた。血管が脈打つような頭痛と耳鳴り。体が何かを拒絶しているのだろうか。しかし、考えるのもままならない。
ゴオォ――……!
突風が吹き、まるで玄関を開けと急かすようだった。風の中に、くすくすという笑い声が微かに聞こえたような気がした。
久保は意を決し、引き戸に手を伸ばす――。