5.シフミの要求(4)
「漫画家になるのが尚くんの本当の夢だったら、今がどんなにつらくても胸を張れると思う。でも、このごろの尚くん、目つきが卑屈だよ。ああいうちょっと華やかな世界にこだわるのも、目立ちたがりの子供みたいだし。
うちの会社はビルや住宅の下水管の交換や清掃で成り立っているの。男も女も作業着とかエプロンして、いろんなところに出かけていって毎日掃除とかしてる。
決して格好いい仕事じゃないわ。でも、売り上げ伸ばすために皆で頑張っていると、前に進んでるって実感があるよ。
そういう目で見ると尚くん、毎日同じところで足踏みしているだけみたい」
ここまで言われても返す言葉のない尚人に焦れたのか、彼女はついに宣言した。
「わたしたち、しばらく会わないほうがいいと思う。会うとわたし、こんなふうに尚くんにキツイこと言っちゃうから……」
尚人は黙って、うつむくだけだった。
同世代の男として情けなかった。
下働きをしている間に分かったことがある。
漫画家の予備軍というのはゴロゴロいて、そのほとんどが食えずにフリーターをしたり、親のすねかじりしている。
そこから這い上がって一人前になれるのは、百人に一人かも知れないし、千人に一人かも知れない。
頑張ればなんとかなる世界ではない。
そんな実態が見えて来て、漫画家を目指すことが本当に自分の夢なのかどうか、自信がなくなった。
中学時代から雑誌や放送局宛にイラストを書いて投稿していた。
漫画家って儲かりそうだし、有名人と付き合えるかも知れない。
そういう下心も確かにあった。
それを『目立ちたがりの子供みたい』と言われると、ぐうの音も出ない。
もう考え直すべきなのかもしれない。
そんな焦りが読めたのか、今までフリーターを続けることに口出ししなかった親が、
「おまえにその気があるなら、就職先を紹介する」と言い出した。
その会社の重役が尚人の父親と知り合いで、それとなく相談してもらった。
「女性が上司になるが、それでよければ」という誘いだった。
溺れる者は藁をも掴む。
そんな程度で就職を決めた。
女が上司であることに、こだわりはない。
安西詩史は仕事ができる。それはよくわかる。
頭がよく、責任感が強く、必ず結果を出す。
仕事の手腕を考えれば、彼女が上司であることになんの異論もない。
だが、部下は友達ではない。
杯を交わした子分でもない。
自分の思いどおりにしないで欲しい。
フックンと呼び名を決められたことは、まあ、いい。
与えられる仕事が、膨大なデータをグラフ化したり、決められたフォーマットにインプットしたりの単純作業であることも仕方がない。
新人なんだから。
だが、詩史の私用に使われるのは心外だった。
詩史は会社の仕事以外に、アルバイト的にいろいろやっている節があり、会社関連ではない人の訪問や電話が頻発して、しょっちゅう外に出ている。
その豊富な人脈が、インタビューなどに応じる人の確保が生命線であるため、そうした行動も会社は黙認しているようだ。
そのせいか詩史の公私混同は極まり、オンとオフの線引きがまるでない。
仕事であれプライベートであれ、出会った人間は即ファミリー化して、つるんで飲み食いしたり、旅行したりしては泥沼の不倫劇だの、過去のセックス体験の比べっこだの、あけすけな打ち明け話を交換し合う。
そのせいで仲間意識も高まるのだが、詩史ほど何もかも喋る女はいない、というのが共通の認識だ。
詩史の男遍歴は、みんなが知っている。
今、誰とどうなっているかもだ。詩史に秘密はないのだ。
別名“私生活のない女”なのだと、ナッキーが言っていた。
ナッキーは詩史にスカウトされて入社して以来、ほとんど秘書のような役割を果たしていた。
本人は妹分を自称しており、そのせいで職場でも、「編集長」ではなく「詩史さん」と呼んでタメ口をきいても、誰にも咎められることはない。