4.シフミの要求(3)
だから、僕を使ったってわけだ。
ムカついた尚人は不機嫌全開で、
「もう、帰っていいですか」と言った。
「そうねえ、泊まればって言いたいところだけど、明日は会社だもん。着る物困るよね。それにさ、一線越えちゃっても困るよね、わたしたち」
ソファーにだらしなく伸びた詩史は、首だけこちらに向けてニヤッと笑った。
「編集長、そういうジョーク止めてくださいってば。それ、セクハラですよ」
「フックンにセクハラするの、好きなんだもーん」
まったく、いくら彼女のいない二十四歳の僕でも、アイロンを掛けてないのがありありとわかるノースリーブシャツと短パンというスタイルで、でれっとソファーに寝っ転がっている人使いの荒い女が相手じゃ、やる気になんかなるわけないよ。
そう思って尚人が振り返ったら、詩史のシャツの肩がずり落ちて左肩が大きく露出し、胸のふくらみが見えるほどになっていて、思わずコケそうになった。
しかも手の平サイズの柄の付いたローラーで、片頬づつコロコロとしごいているし……。
例え、張り出した胸元を引き合いに出しても、色気があるような、ないような。ビミョウだし……。
尚人にフックンとあだ名を付けた詩史は、じゃあ誰に似てるだろうと思って斜めから顔を見やった。
あれっ……内田有紀に見えなくもないぞ、と思った。
CMみたいに、『大丈夫ですか?』と訊ねたら、ちょっとだけハスキーな声で、
「大丈夫よ」なんて返してきたりして……。
「なにが大丈夫なの?」
「え? あ、いえ」
……やばい、やばい。
「泊まっていけるってこと? いいわよ、ベッドひとつしかないけど」
「へ、へんしゅ~ちょ~」
「あら、変な子ね」
「帰りますからね」
と、ばしっと言って玄関に向かった。
詩史は後ろを付いて来ながら、
「リーフイ、フックン・イズ・ゴーイングホームよ。セイ・グッバイ!」
と怒鳴った。
リーフイが部屋から顔だけ出した。
「グッバイ、フックン」
詩史はというと、
「ご苦労さん」
と投げキスを送ってよこした。
ご苦労さん……か。
そりゃ、詩史はずっと年上で会社の上司だ。
しかし社用ではなく、プライベートの用事で使い回されたのだ。
『ありがとう』と言うべきだと思う。
僕をなんだと思ってるんだ。
おとなしく言うことを聞くからって、甘く見やがって。
尚人は帰る道々、どんどん腹が立ってきた。
いつもこうなのだ。
目の前でまくし立てられると、言いなりにならざるを得ない。
なんでこんな目に遭うんだという憤慨は、後になって出てくる。
詩史の前に出ると、臆病な捨て犬みたいに尻尾を丸める自分が情けない。
こんな状況を続けていたら、自分は将来ダメになるんじゃないだろうかと思った。
医薬品の業界誌の仕事なんて、やりたくてやっている訳じゃない。
尚人は中学の頃から漫画家志望で、大学へは行ったけれど、やっぱり夢は捨てられず、某漫画家の所でバイトをしていたことがあった。
一年ちょっと下働きして、皆とも仲良くなったので、『卒業したら、うちに来いよ』と誘ってくれるのを期待していた。
ところが、ようやくその頃になってみると、人は増やせないと言われた。
バイトでいいなら引き続き来てもいいよと言われて、卒業後も一年ほど続けたっけ。
しかし、友人たちが皆それなりに就職している中で、一人だけ学生時代と同じバイトの身の上というのはきつかった。
備品の買い物などで外へ出たりしたとき、スーツ姿の同年輩のサラリーマンを見ると、ジーンズにTシャツで、お茶を入れたり、なんとか背景を塗らせてもらったりの、単純作業をしている自分がいかにも落ちこぼれのようで、顔を上げられなかった。
そればかりか、当時付き合っていた彼女にも、
「尚くん、やりたいことってないの?」
と、軽蔑したように言われたことがあって、深く傷ついた。