2.シフミの要求(1)
2.シフミの要求
それから一ヶ月ほど経った日曜の朝のこと。
尚人は携帯電話の着信音に起こされた。
「フックン、いい話があるのよ。今すぐ、こっちに来ない?」
自分の用件をさっさと告げる詩史だった。声が弾んでいる。
こんなときは、あちらには良いが、こちらには良くない何事かを要求するときと決まっている。
「へんしゅーちょー、きょう、日曜ですよ」
「分かってるわよ」そんなこと、と云わんばかりのニュアンス。「フックン、日曜を一緒に過ごす彼女、いないでしょ? だから、彼女を紹介しようってんじゃないの。そんじょそこらの女の子と違うわよ。香港娘よ。しかも十八歳。たぶんだけど身持ちは堅いはず。そうは言っても恋が芽生えちゃったら、そこから先はご自由に……」
尚人は一瞬黙り込んだ。
今までの経験から、詩史の『すぐ来て』系の要求──というか指図で、いい目にあったことなどないのだから。
しかし、香港の女の子がどうしたって……?
「香港人って、言葉は英語でいいんですか? 中国語、無理だし。ニーハオ、ぐらい。英語も駅前留学を始めてすぐ挫折した口ですけど」
そう質問した時点で、尚人の負けは決まったも同然だった。
またしても巻き込まれてしまったのだ。尚人の上司の安西詩史の要求に。
そして、尚人に対して実にミーハーなあだ名をつけたこの人が、はたして尚人の名を『穂芝尚人』と認識しているのかさえ不安だった。
もしかして編集長の中では、尚人の顔イコール・フックンなのではないだろうか。
こうやって定職について生活がやや安定してきたとはいえ、尚人は本来の仕事とは別のところ──納得できないあだ名や休日の呼び出し──で悩んでいることを、電車を二つ乗り継いでいる間に気付くのだった。
さて香港娘の全容は、詩史のマンションに近づいたあたりで分かった。
二人して駐車場の入り口に立っていた。
少女は意外や背が高かった。詩史より頭一つ分、突き抜けている。
だが、もっともっと彼女を目立たせているものがあった。
それは恰好で──彼女は原宿で見掛けるような、お姫様ファッションで身を包んでいた。
接近するにつれて明らかになった、もう一つの事実がある。
意外や美人の部類だった。だが、美人であっても愛想はなさそうだ。
なんだか面倒なことが待っていそうな気がする。
いままで詩史が持ち込んだ「いい話」が、本当に良かったためしはない。
それなのに、なんで言うこと聞いちゃうんだろう、僕のバカ!
詩史がマイカーの運転席のドアを開けて待っていた。
尚人は暗い顔して運転席に乗り込んだ。
詩史はさっさと助手席に香港娘を押し込み、
「フックン、自己紹介は適当にやってね。夕飯までに戻ってくればいいから」
満面笑顔でそう言うと、バタンとドアを閉めて、早く行けとばかりに手を振った。
香港娘は百八十センチはあるだろう。
胸もでかいが、助手席へ乗り込んで来るときに見た尻の存在感。これには負けると思った。
その大きさに圧倒され、少女とは呼び難いと思いつつも、それでもこの子を放って置くわけにはいかない。
ニーハオと声をかけようと思ったが、
「ナイス・トウ・ミーチュー」と、取り敢えず言ってみた。
相手はぎこちない笑顔を向けて、
「ミー・トウ、フックン。コール・ミー・リーフイ」と答えた。
リーフイ(立慧)という名らしい。
「えーと、マイネームイズ・ナオト。ノット・フックン……だからね」
「バット・シフミ、コール・ユー・フックン」
英語で説明するなんてムリッぽ……。だから尚人は渋々、
「オーケー、コール・ミー・フックン、でいいや」と呟いた。
リーフイに何処に行きたいか訊くと、
「ヤング、イッパイ」と答えた。
イッパイは覚えて来たらしい。