13.漫画の鬼(3)
「俺の言うことを聞き、俺のすることを見ていろ。それが全部、勉強だ。自分を真っ白にして、俺の思考パターンをコピーしろ。そうしたら、おまえは一人前の漫画家になれる」
そう言われた。
自分を真っ白にする。それはどういうことか。
「今は自分で考えようとするな」と茂手木は言うのだ。「俺の考えを吸収するんだ。そう努力しろ」
言い訳も反論もする暇はなかった。
茂手木の要求は分刻みだ。
そのどれもが、仕事に関係のない日常の些末事だった。
考えることも出来なくなった。
買物、レストランの予約、宅配便の梱包、コーヒーの用意、ブラインドの掃除、原稿のコピー、ファックス、ファイル綴じ、郵便物の整理……。
コピーやファイルをしながら原稿を見る余裕があれば勉強になるのだろうが、できなかった。
集中力は、茂手木に向けていなければならない。
なにか言われたときに、すぐに反応するためだ。
「俺のアシスタントをやるからには、俺の気分に敏感になれ。俺を怒らせたら仕事の能率が悪くなる。そうなったら飯の食い上げだ。こんな風に言うと、自分のことしか考えてないように思うだろうが、これは穂芝のために言ってるんだぞ。秀吉は信長の要求を先読みした。その能力があったから、太閤にまで出世したんだ」
茂手木の信長気取りに鼻白む心のゆとりは、とうに失われていた。
感情が顔に出がちな尚人だったのに、茂手木を前にすると、言いつけられたことに無表情に「はい」と答えるのが精一杯だった。
出版社の人が来たのでコーヒーを出しながら軽い会話を交わしたら、あとで茂手木に酷く叱責された。
「気楽に口をきくな。失礼だぞ」
失礼もなにも、茂手木は客に尚人を紹介したことがなかった。
出版社の人から電話がかかると、打ち合わせをするからと外に出て行く。
まるで自分の人脈に、他人が入らないよう囲い込んでいるようだ。
金曜の夜に、夕食を一緒に食べようと連れ出された。
色っぽい女将が切り盛りしている小料理屋だ。
小上がりで酒を注いでくれたが、注文は一人で決めていた。
「俺が厳しいんで驚いたか?」
いつもよりは優しげな声だ。
尚人は目を伏せて、コクンと頷いた。
「俺も、こうやって育てられた。先生は鬼みたいなやつで、殺してやろうと何度も思った。でも、頑張って今の俺になった。俺が欲しいのは、もう一人の俺なんだ。おまえが自分を殺して、もう一人の俺になれたら、その時にわかるよ。ああ、茂手木さんの言うとおりにしておいてよかったとな」
自分を殺す。
それが、夢を叶える方法なのか。
だが、実際にプロとして働いている茂手木を前にすると、半人前の尚人には返す言葉がない。
茂手木は有名な漫画家や構成作家などの名前を挙げた。
彼らは茂手木に心酔し、茂手木の依頼なら断らないというほど目をかけてくれる。
おまえがもう一人の俺になれたら、おまえもそこまでの存在になるってことなんだぜ。
でも、くじけたら、おまえはこの先、何者にもなれない。
酔った茂手木は上機嫌で自説と自慢話を繰り広げ、サブちゃんの歌を熱唱した。
土曜も日曜も、尚人はただ横たわって過ごした。
頭の芯が冷え切って、熟睡できない。
月曜日の朝は、身体全体が重かった。
『仕事に行きたくない』
でも、行かなければ何者にもなれないという茂手木の脅しが頭に響いた。
次の一週間も、茂手木の命令に従って過ごした。
腹がキリキリ痛み出したので、茂手木が出張で早く事務所を出た金曜日の夕方、医者に行った。
内視鏡診断をしようと言われた。
画像を見た医者は、
「出血してるよ。なんか、あったの?」と気楽な声で言った。
投薬治療で様子を見ようと帰されたが、尚人はすっかり暗くなった。
胃壁が血を流している。
でも逃げ出したら、本当のダメ男になる。
どうしたら、いいんだ……。
部屋に戻り、布団に倒れ込んだ。
『考えるな、頭を真っ白にしろ』と茂手木の声がする。
その通りにした。
『己を殺せ』と。
自分の部屋にいるのに息苦しくて堪らない。
これが絶望というものなのか。
というより感情そのものがなくなって来たような気がした。
そのとき、携帯が鳴った。
一瞬躊躇したが携帯に出た。
「フックン、げんきー?」
安西詩史の脳天気な声が耳の中で弾んだ。