12.漫画の鬼(2)
尚人は飛び立つ思いで、詩史に連絡した。
急ぎの相談があると言うと、
「いいよ、うちにおいで」と答えた。
いきなり退職させて欲しいと言うのは気後れしたし、反応が怖くもあったが、まさか殺されはしないだろう。
尚人は覚悟を決め、とはいえ殆んど目をつぶって一気に、やりたい仕事のオファーがあったと詳細を告げた。
詩史は黙って聞いた。
尚人が喋り終えると溜息をついて、ちょっと笑った。
「フックン、本当にそうしたいのね」
「はい」
すると立ち上がって、便箋とボールペンを持ってきた。
「退職願、書きなさい。あとはわたしが処理しとくから」
「いいんですか?」
あまりにあっさり承諾され、どんな顔をしていいのかわからない。
「だって、早く行かないと他の人に取られちゃうんでしょ」
「らしいです」
「だったら、行かずに済ませられる?」
「いいえ」
「じゃ、そうしなさい。わたしがフックンのチャンスをつぶしたって、一生恨まれるの嫌だもの」
ああ、そういうことか。
その答えで納得した。
どうせ僕は、ただの会社のおもちゃだしな。
自分勝手な詩史にも、いいところはあるってことだ。
尚人はすいすいと事が運ぶことに興奮して、大はしゃぎで退職願を書いた。
翌日から、茂手木の仕事場へ行った。
初日は畠中がついて、コーヒーの淹れ方から電話の取り方、茂手木ご用達の店のリストなどをこと細かく教えてくれた。
住宅街は環境はいいがレストランもコンビニもない。
いったん事務所に入ったら外に出られないので、自分の食べ物は朝のうちに調達しておくことと言われた。
ただし、茂手木は安っぽいものは食べないから、時間が近づいたらご用達の店まで買いに行かなければならない。
そのために使う自転車がガレージにある。
「カスタムメイドの恰好いいのだから、盗まれないように気をつけてな」
茂手木は離婚しており、身の回りの世話をする人がいないので、洗濯はアシスタントの仕事だ。
下着類は洗濯機で洗い、それ以外のものはクリーニングに出すこと。
コーヒーは絶やさないようにする。
メモパッドからトイレットペーパーまで、すべての日用品の管理をきっちりと。
トイレの掃除も小まめに。
「……て、これが仕事?」と当然訊いた。
「そう。アシスタントは女房役ってわけ。あ、ちゃんと漫画家らしい仕事もあるよ。情報集め。茂手木さんに指示されたら、一時間以内に揃えるようにね」
畠中はニコニコしている。
「僕の携帯番号数えておくから、分からないことがあったら電話して。茂手木さん、仕事中に話しかけると爆発するから」
「えー!」
尚人がたじろぐと、なぜか畠中はますます嬉しそうに笑み崩れ、
「茂手木さん、厳しいよー。根性叩き直してもらってね」と言うではないか。
それに加えて、
「いい勉強になるよ。それは確か。僕なんか、いろいろ教えられたよ。で、卒業するわけ。きみ、頑張ってね。じゃね」
畠中は、あんぐり口を開けている尚人を残してパッと去って行った。
そして、十一時きっかりに茂手木が出勤してきた。
ハンチングに革ジャン、カシミアのマフラーをなびかせて部屋に入るなり、
「加湿器!」と怒鳴った。
「ヘ?」
「冬は加湿器をつけるんだよ。僕が来るまでに室温二十三度、湿度六十パーセントにしておくこと。聞いてるだろうがー。ちゃんとやれ!」
「いや、でも……」
「言い返すな!」
い、いきなりのフルスロットルである。
茂手木は押し殺した声で命じると、尚人に帽子と革ジャンとマフラーを突きつけた。
思わず抱き取った尚人を睨みつけ、
「クローゼットにきちんとしまえよ。綿ゴミひとつ付けるんじゃない。いいな」と猛禽類の目をして言った。
尚人は怖じ気づき、その視線から逃れるために急いでクローゼットに走った。
背後からサブちゃんの『帰ろかな』が襲いかかって来た。
尚人の地獄の黙示録はこうして始まった。
茂手木はパワフルだった。
そばにいると、ものすごい圧迫感がある。
いつもピリピリしており、電話や来客などに答えるときには平静な口調を保っているが、尚人に向ける声は常に怒気をはらんでいた。
言われたことには、即対応。
言い訳、反論、一切無用。
一週間で、尚人は疲れ果てた。