11.漫画の鬼(1)
5.漫画の鬼
尚人は、詩史によってもたらされる不幸について愚痴りまくった。
社内では言えないから、大学や漫画のバイト時代の友達にである。
そうしたらなんと、転職の話が飛び込んできた。
それも一時は夢に掲げていた漫画家のアシスタントをしないかというのである。
話を持ってきたのは、茂手木洋司という漫画家のアシスタントだった。
この畠中とは顔見知り程度の仲だが、友人に事情を聞いたと電話してきたのだ。
自分が辞めるので後釜が必要なのだが、茂手木はすごく忙しいので、すぐに仕事を任せられる即戦力が欲しい。
きみは経験があるから、今なら推薦できるがどうかという。
茂手木に直接会ったことはないが、時事的な風刺絵もかける職人的な漫画家として重宝がられていた記憶がある。
アシスタント業が楽でないことはわかっているが、すぐに仕事を任されるという言葉に惹かれた。
なにより、詩史から逃げ出したかった。
私生活のない女に私生活を干渉される、この生活パターンを変えたかった。
土曜日、畠中に連絡すると、「できるだけ早く会いたい」という。
尚人にも異論はないので、その日のうちに茂手木の仕事場に行った。
住宅街の小綺麗な一軒家だった。
出窓のある書斎といった雰囲気の部屋に通され、やたらと感心していると畠中は、
「カッコいいだろう」と鼻をうごめかせた。「茂手木先生は、こだわりの人でね」
メモ用紙はアメリカ製の黄色のメモパッド。コーヒーは行きつけの店で挽いてもらうブラジルとモカをブレンドした茂手木スペシャル。
オーディオも高密度樹脂のホーンと、四十センチ近いウーファーのJBLというものだった。
「毎日、大体十一時出勤で、仕事始めの気合い入れに『帰ろかな』をかけると決まってるんだよね……」
サブちゃん? しかも、午前中から『帰ろかな』って……。
「夜はそのときの気分でマイルス・デイビスだったり、フェリックス・メンデルスゾーンだったり」
「ヘえ」
なんのことだか殆んどわからないほど趣味の範囲が広い。
しかも、ものすごくハイセンスな世界に入った気がして尚人は昂揚した。
そこへ茂手木が登場した。
グレーのトレンチコートを羽織り、同色のボルサリーノをかぶっている。
こんなしゃれた格好をしている日本人、見たことない。尚人は目を丸くした。
「きみが穂芝くん?」
茂手木は脱いだ帽子とコートを畠中に手渡しながら、甲高い声で訊いた。
三つ揃いのスーツもネクタイも、気のせいかすごく高そうに見える。
三十九歳と聞いたが、髪はすでに白髪混じりで、細面の鋭い目つきもあいまって、いかめしい感じがした。
「はい」
「そう。この仕事には慣れてるって?」
「はい、バイトですけど二、三年やってました」
「すぐに来てもらえるのかな?」
一瞬、つまった。
会社の規定だと、退職願の届出は一カ月前だ。
答えを待たずにパソコンを開いて操作していた茂手木は、わずかな沈黙も許さなかった。
椅子をまわして尚人に向き直ると、
「他にも候補者がいるんだよ。悪いけど悠長に考えてもらう時間はあげられないんだ。やるか、やらないか、今決めてくれ」
眼鏡の奥の目が、気の立った鶏のように見えた。
尚人はビビった。
すると、その目がたちまち羊のように和らいだ。
「きみは漫画家志望だそうだね」
「は、はい」
「僕に付いて来れば、必ず今よりはレベルアップした人間になれるよ。ただし、時間がかかるし苦労も多い。夢はあっても才能がない、なにより努力できない人間は、僕のほうがお断りだ。今、見た感じでは、きみにはなにかがある。だから、きみにその気があるんなら、採用したい。だけど、きみが努力できる人間かどうかまで、こんな短時間では僕には見抜けない。決めるのは、きみだ」
茂手木はデスクにゆったりともたれて、微笑を浮かべて尚人を見つめた。
「お世話になります。だけど、まだ会社になにも言ってないので、筋だけは通したいんですけど」
「いいね、その言葉。筋を通す」茂手木は頷くと、くるっと背中を向けてパソコンに戻った。そして、「できるだけ早くね。詳しいことは畠中に教えてもらって」と言った。




