サツキの花が咲く頃に
【サツキの花が咲く頃にお迎えに上がります】
朝、咲津木賢吾が寝ぼけまなこで郵便受けに刺さった新聞を抜いた時に一枚の紙が落ちた。
拾い上げて目に入った文章がこれだ。
「なんだこれ……」
達筆な筆文字で書き付けられた半紙。
しかし、入っていたのはそれ一枚で裏を見ても差し出し主についてわかりそうな手掛かりは見当たらない。
宛名や切手を貼った形跡もないから、直接この郵便受けに入れられたのだろう。
賢吾にはそんなイタズラをしそうな相手に心当たりはなかったのでますます気味が悪くなる。
「……って、もうこんな時間!」
怪文書とにらめっこしている間に出勤時間が迫っていた。
続きは帰宅してから考えることにして賢吾は家を出た。
「咲津木先輩おはようございます」
「おはよう」
賢吾が出社してすぐ声を掛けてきたのは深幸莉華だった。
新人研修で面倒を見たのがきっかけで知り合った彼女は、別部署に配属された今でも賢吾を見つけると人懐っこい笑顔で駆け寄ってくる。
「先輩、今日も残業ですか?」
「んー、何もなければ今日は定時で上がれるんじゃないかな」
「おおっ! それじゃ、七時に南口のいつものカフェで待ってますね。ケンちゃん」
跳ねるように女子更衣室に入っていく莉華を見送った賢吾は小さくため息をついた。
社内恋愛が禁止されているわけではないけれど、同僚に知られれば十個も年下の子に手を出したと冷やかされそうだ。
「とにかく。アイツのためにも頑張って定時で終わらすぞ!」
自分に喝を入れ、賢吾はデスクに向かった。
「きたきた! ケンちゃーん!!」
数十メートル離れたカフェから賢吾の姿を見つけた莉華がぴょんぴょん跳ねて手を振っている。
周囲の視線が刺さるのを感じながら、賢吾は莉華の肩を押さえた。
「落ち着いて。会社の人間がいないとも限らないんだから」
「えー? ワタシは別にいいんですよ、公表しても。
あ、そうそう。これケンちゃんのアイスコーヒー。ブラックです」
先に莉華がテイクアウトしていたコーヒーを受け取り、テラス席に座る。
「なんだ、あれか? 莉華の友達もこんな感じか?」
「こんなってどんなですか」
「若いっていうかキャピキャピっていうか……。圧倒される感じだよ」
「キャピキャピって。おじさんみたい」
コロコロと朗らかに笑う莉華の言葉が静かに突き刺さる。
たしかに彼女たちからすれば賢吾は十分におじさんと言える年齢だ。
賢吾もわかってはいたが面と向かって言われるとダメージが大きい。
「あ、そうそう。ケンちゃんこの辺に植物園があるの知ってます?」
「植物園? 聞いたことないな」
「行ってみましょうよ! けっこう綺麗みたいですよ」
莉華の押しに負けて賢吾は首を縦に振る。
「今から行くか?」
「いえ。今日はまだ花の時期には早いのでまた今度にしましょう」
そこまで調べた上だったのか、と賢吾は心の中で舌を巻いた。
「植物園のことは莉華の方が詳しそうだから、日程とかは任せるよ」
「了解です。じゃ、今日はカラオケでも」
莉華の笑顔には有無を言わせぬ圧がある。
いいように振り回されているのを感じながら、賢吾はお姫様の後ろをついて歩いた。
植物園に行く約束をしてから半月ほどが経った頃、莉華から連絡が入った。
明日の仕事終わりに件の植物園へ行きましょうというのがその内容だ。
丁寧に地図まで添付されている。
賢吾はメールに向けていた視線を机の上へと滑らせた。
そこには三枚の紙がある。
一枚は植物園に行く約束をした朝、郵便受けに入っていた【サツキの花が咲く頃にお迎えに上がります】という筆文字の手紙。
もう一枚は【蕾が膨らみ始めました】。最後の紙には【蕾はほころび始めました。明日の晩お迎えに上がります】と書きつけられていた。
どれも同じ、半紙に墨で綴られた達筆な文字が並んでいる。
蕾が膨らみ始めた、という文言の方は一枚目の手紙が届いた翌朝に郵便受けへ投函されていた。
最後の一枚はついさっき賢吾が帰宅した時に発見したものだ。
今朝家を出る時にはなかったものだから、ここに書かれた「明日」は翌日のことで間違いないだろう。
莉華から誘いがあった日に手紙が届くという奇妙な符合。
「お迎えに上がります」という文言が不気味に思えていたが、莉華のイタズラならどんなに気が軽くなることだろうか。
真相は明日、莉華に会った時に確かめてみよう。
賢吾は心に決め、莉華へ了承の旨のメールを返した。
「あ、きたきた!」
嬉しそうに莉華が手を振っている。
その背後に建つ全面ガラス張りの建物を眺めながら賢吾は呟いた。
「本当にあったんだな……」
いつも通る道を一本入ったところに植物園があるなんて想像したこともなかった。
しかし、館内の照明は消えていて人の気配もない。
正面玄関に近付いてみると「閉館のお知らせ」という紙が貼られていた。
そこに添えられている日付はもう五年も前のものだ。
「ずいぶん前に潰れてるな」
「いいからいいから。入りましょ!」
莉華にぐいぐいと背中を押されるが、不法侵入で通報されるのでは? という考えが頭をよぎった賢吾はその場に立ち続けた。
体重が倍ほども違うせいで莉華の力では賢吾の体はビクともしない。
賢吾が諦めて帰ろうと促そうとした時、背中に何かを押し付けられる感覚とチクリとした痛みを感じた。
「莉華……?」
「早く進んでください。刺さりますよ?」
「……っ!」
背後を振り向いた賢吾の目に、莉華が握っているものが映る。
包丁の柄だ。
「おい、莉華」
「中へ入ってください」
莉華の表情にいつものような朗らかさはなく、氷のように冷たい目をしていた。
このまま抵抗して刺し殺されてはたまったものではないので仕方なく従うことにする。
正面玄関のカギは誰かに壊されたのか開きっぱなしになっていた。
長年手入れされることもなく放置されていたせいで天井や壁面のガラスが曇っていて、植物園の中には濁った弱い光しか入ってこない。
視界が悪い中、割れた植木鉢や通路にまで張り出した木の根があちこちにあり足を取られないよう注意して賢吾は進んだ。
植物園の中には湿った土の匂いとカビとホコリの臭い、ほとんど野生化したような花の香りが入り混じった独特な風味の空気が滞留している。
重い空気と異様な雰囲気の莉華に板挟みにされた賢吾は逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
力ずくで跳ね飛ばせば莉華を振り切って逃げることは容易いだろう。
しかし、自分より明らかに力が弱い恋人に手を上げることを賢吾の理性は拒んでいる。
「やっと二人きりになれましたね」
植物園の中ほどまで進むと久しぶりに莉華が語り掛けてきた。
口調は柔らかく、いつもの莉華に戻ったようだ。
「莉華……どうしたんだ。何かあったのか!?」
「やめてくださいまし。なぜ皐のことをそのような名でお呼びになるのですか、権三さま」
「ごん、ぞう?」
聞き覚えのない名前に困惑する。
莉華の方を振り向いて賢吾は絶句した。
そこにいる女は莉華以外の何者でもないのに、表情だけがまるで別人なのだ。
「権三さま、お迎えに上がりましたのよ」
賢吾のことを権三と呼びながら莉華は恍惚の表情を浮かべる。
それはあの手紙にあった文言。
「莉華――」
「皐です!」
強い口調で彼女が怒る。
次の瞬間、鈍い衝撃と鋭い痛みが賢吾の体を駆け抜けた。
灼けるように腹部が痛む。
包丁を持った莉華が体当たりしてきたのだと理解するまでにそう時間はかからなかった。
自分の腹から生えている包丁の柄に、気の抜けたような笑いがこみ上げてくる。
膝から崩れ落ちそうになったが何かがつっかえて上手く体が動かせない。
「ほら、ご覧あそばせ。サツキが満開ですわよ」
本当に幸せそうに莉華――いや、皐が目を細める。
彼女の目に賢吾は映っていないようだった。
背後あるらしいサツキの木を見ようとしたがやはり体が動かない。
まるで磔にされたみたいだ。
と、そこで気付く。
背後にある木。その幹に賢吾の体を貫通した包丁が刺さっているのではないか。
あくまで推察にすぎないが、事実であれば下手をすると命に関わる。
どうしたものかと考えを巡らせるが、痛みで思考がまとまらない。
血が流れすぎたせいで意識も飛びそうだ。
「莉……華……きゅ、う……きゅう、しゃ……を」
ぐらりと頭が揺れる。
殴られたのだな、と漠然と理解する。
不思議と痛みは感じなかった。
「貴方はまた皐を裏切るのですか」
「……お前こそ、また儂を殺めるのか」
意志と関係なく淀みなく出た言葉に賢吾は小さく目を見開いた。
莉華も目を丸くしている。
「権三さま……?」
「皐、儂は待っていたのだよ。あの時も、今までも、ずっと」
噛みしめるように紡がれる言葉。
それを聞いた莉華はたじろぎ、後ずさる。
「うそ……」
「何故そんな嘘をつく必要がある? 儂はお前と添い遂げるためこうして輪廻を越えてまた会いに来たではないか」
「だって、だとしたら皐は……、皐は思い込みで権三さまを……――!」
最後はもうほとんど絶叫のようだった。
莉華の細い体からどうやればあんなに大きな声が出せるのだろう。
喉が張り裂けてしまうのではないかと不安にまでなってくる。
「皐。借り物のこの身を傷つけ、あまつさえ死なせることなどあってはならぬのだ。儂と共に逝こうではないか」
賢吾の体が勝手に動き、莉華に向けて手を差し伸べる。
その時、肉体を木に打ち付けていた包丁が抜けて地面に落ちた。
賢吾の手が莉華の頬に優しく触れる。
うつむきながら身を震わせて彼女は泣いていた。
賢吾の体から抜け出した魂が、莉華の中にいた魂と手を取り合って空へ昇っていく。
目には見えないものの確かにその感覚があった。
それまで体を支えていた魂がいなくなったことでバランスを崩して倒れる直前、瞳を閉じると朧げな景色が浮かんできた。
周りには建物らしきものもない、のどかな田舎の三叉路。
そこに根を張る場所を間違えたように一本のサツキの木が白い花を咲かせていた。
隣にはサツキを守るように枝を目いっぱいに広げた広葉樹があり、その根元に賢吾は腰かけている。
時折通り過ぎていく人の顔をちらりと見遣り、誰かを待っているようだった。
時には空を見上げ、時にはサツキの花に誘われてやってきた蝶を眺め、時には待ち人を探して立ち上がる。
そうこうしていると通りかかった女に声を掛けられた。
「集落はどっちじゃろうか」
「右の道を半刻ほど行きなされ」
賢吾が答えると女は礼を言って歩き出す。
それを見送って通りに視線を戻すと、白い着物の若い女がこちらへ駆けてくるところだった。
「おお、皐」
「権三さま、皐を裏切ったわね」
笑顔で迎え入れた賢吾とは対照的に、女の顔は怒りで歪んでいた。
女は賢吾がどれほど弁明しても聞く耳を持たない。
終いには懐に隠し持っていた護身用と思われる小刀を構えてにじり寄ってくる。
先ほどまでぽつぽつとあった人通りはこういう時に限ってぱったりとなくなってしまった。
誰かに助けを求めることもできないまま賢吾は切り付けられて地に臥せる。
遠ざかっていく意識の中、女が返す刀で己の首をかき切るのが見えた。
賢吾が目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。
不思議なことに莉華に刺されたはずの傷はなく、ケガと言えば倒れた時にぶつけた額にマンガのような丸いたんこぶができているだけだった。
意識を失う直前に見たのは権三の最後の瞬間の記憶なのだろう。
皐という女の愛は純粋ゆえに暴走しやすかった。
それが裏目に出たのだろう。
賢吾が感慨にふけっていると、病室へ申し訳なさそうな顔をした莉華が入ってきた。
「莉華……――結婚しよう」
彼女の顔を見た途端、ふと口をついて出た言葉に自分でも面食らう。
莉華もポカンと口を開けている。
「いや、あの……。前世からの縁があるなんて、滅多にないことだし」
自分でも何を言っているかわからないまま、賢吾はああでもないこうでもないと言い訳を続けた。
それを遮って莉華が言う。
「急に変なこと言わないでくださいよ。頭でも打ったんですか? 咲津木先輩」
その言葉で賢吾の心臓は凍り付いた。
彼女の中にあった恋心は皐の影響で、それがなくなった今はもう付き合っていた記憶さえないのではないか。
疑念と絶望が渦を巻き、胸が締め付けられる。
「……なーんてね。ケンちゃんにあんなことをしてしまった後なので、もう少し考えさせてください」
いたずらっぽく笑った顔はいつもの莉華だった。
ほっと胸を撫で下ろした賢吾は答える。
「わかったよ。次の休み、指輪でも見に行くか」