19.5とある青年の回想録
本編よりも長い番外編です。
読まなくても支障はありませんが、読んでいただけたら光栄です。
初めて彼女に会ったのは、確か…そう、六歳の時。ふわふわしたドレスを着て、恥ずかしそうに父親の足元に隠れて俺を見ていたんだ。艶々の黒髪が綺麗だなと思って、「この子がお前のお嫁さんになるんだよ」と父親に言われた時は、何となく胸が高鳴った。たった六歳の餓鬼が、生意気にも一つ年下の女の子に一目惚れしたんだ。
父親同士仲が良く、生まれた子供が年齢差一つの男女だからと結ばれた婚約だったが、最初のうちは二人とも子供なりに仲良くやっていたと思う。
パーティーの時にはお揃いのコサージュを付けて行ったこともあるし、色を揃えて衣装を着てみたり。幼い頃は「可愛いカップル」と大人たちは微笑ましく見守っていたようだが、幼い婚約者は嬉しそうに、恥ずかしそうにはにかんでいた。真っ白な肌をうっすらと赤く染める顔が可愛くて、俺は彼女の照れている顔が好きだった。
社交界デビューして、二人揃って夜会に出るようになってからも、それなりに仲の良いカップルをしていたと思う。彼女はいつも微笑みながら隣に寄り添ってくれていたし、デートに誘えばいつもめかし込んで来てくれた。それが当たり前だと思って、俺はだんだんと彼女の扱いが雑になった。
友人たちにからかわれるようになったのも、そうなった原因の一つだと思う。婚約者殿とはどこまでいった?手を繋ぐとか、ハグをするのは当然として、キスやそれ以上はしたのか、と。
初めのうちは適当に流していたけれど、キスもまだだと言うと馬鹿にされた。
「お前それでも男か?」
「どうせそのうちするんだから、さっさとやっちまえよ」
本当に貴族子息かお前らと言いたくなるような事を何度も言われ続けると、何故かだんだんと「俺の方がおかしいのか」と思うようになっていった。
確かに婚約者ということはいずれ結婚して夫婦になるし、夫婦になればそういうこともするだろう。
キス以上は流石にする気はなかった。でもキスくらいはと思って、それとなく顔を近付けてみた。
「婚姻前にすることではありませんわ」
明確な拒否。扇で口元を隠され、軽蔑するような目を向けられたのだ。それがとてもショックだった。俺が彼女に向けている感情は一方的なもので、彼女が俺に抱いている感情とは別なのだと思った。
以来キスどころか手を繋ぐこともなくなったし、ハグもしなくなった。またあの目を向けられると思うと怖かった。今思えば、きちんと話し合えば良かったのだ。
友人たちには見栄を張った。もうあれもこれも済ませたと。そんな嘘を言えば、婚約者の評判がどうなるかなんて考えなかった。婚約者相手とはいえ結婚前に体を許す女性だと。
きっと彼女の耳にも噂は届いていた筈だが、彼女は何も言わなかった。きっと何も知らないのだろうと都合の良い解釈をして、俺は何も言わずにい続けた。
「ウィル、最近なんだか可笑しいわ」
「何も可笑しくないよ」
「そうかしら」
少し距離を置くようになってから、初めて彼女からの抗議の声だった。
不満げな顔はしたけれど、彼女はそれ以上何も言わなかった。面倒くさい女だと思った。
俺の事を拒否したくせに、今更何だと。口には出さなかったけれど、彼女は「そうですか」とだけ言い残して、口を噤んだ。
そうして一年も経つと、このまま彼女と結婚するのかと思うと憂鬱だった。口づけを拒否されたあの日の、軽蔑するような彼女の目。大好きだった、萌黄色の綺麗な瞳。彼女の目が、怖い。
「ごきげんよう、ウィリアム様」
甘ったるい声。彼女と夜会で少しの間離れているときに掛けられた、耳にべったりと張り付くような声。
「失礼、どちら様かな」
「初めまして、私マリアと申します」
布がたっぷりと使われた赤のドレスを着て、ゆっくりと頭を下げた女性。初めは耳に残る声の人だなとしか思わなかった。何故わざわざ話しかけてきたのだろう。ファーストネームだけ名乗って、家名を名乗らないのは何故だろう。色々と気になることはあったけれど、婚約者のいる身だしと思い直して、マリアと話すことは避けていた。
それでも、何故かしつこくマリアは隙を見て話し掛けてくる。
「またお会いできましたわね」
「こんばんはマリア嬢。今日も素敵だ」
「まあ、お上手ですのね」
褒めれば素直に、嬉しそうににこにこと微笑むマリアは、派手な顔付きに濃い化粧で、婚約者とは正反対の女性だった。婚約者も美人だが、儚い美人といった感じだ。褒めてもあまり嬉しそうにはしないし、可愛らしくおねだりをするとか、甘えることもしない。正直、可愛げが無いと思っていた。
「今夜は、婚約者様はいらっしゃいませんの?」
「ああ、ちょっと都合が悪くてね。今夜は俺一人だよ」
「では、私と一曲踊ってくださらない?」
一瞬困惑はしたけれど、こんな美人に誘ってもらえたのだから、折角婚約者がいないのだからと、深く考えもせずにマリアの誘いを受けた。
踊っている間、嬉しそうに頬を染めて、はにかみながら俺の顔を見上げて踊るマリアが可愛いと思った。正直踊りは下手なんだなと思ったけれど、一生懸命足を動かして踊る彼女は可愛らしい。婚約者は、とても踊るのが上手だから。リードのしがいが無いと思った。
「あまり上手でなくてごめんなさい。でも踊っていただけて嬉しかったですわ」
それでは、と目の前から去って行くマリアの手を、気が付いたら引き留めるように取っていた。一瞬驚いたように俺の事を見て、マリアはにっこりと微笑んだ。
「少し、抜け出さないか」
何を言っているんだと思った時にはもう遅かった。夜の庭を散歩して、また夜会で会えた時には少し話をしようと約束した。
その約束も、あっという間にエスカレートしていくのだけれど。夜会での少しの会話。婚約者の目を盗んで、少し抜け出そう。何処かでこっそり会おう。家においで。
馬鹿みたいに、婚約者ではない女性と仲を深める背徳感が心地よかった。だってマリアは、何をしても喜んで受け入れてくれる。俺の事を好きだ、愛している、二番目でも良いと笑ってくれる。キスをしても、それ以上を望んでも、俺を拒否することは無い。
婚約者とは違う、青空を思わせる青い瞳が、俺はだんだん好きになっていた。この瞳に見つめられると、物事を深く考えられなくなった。初めて体を重ねた時も、婚約者への申し訳なさなんて一瞬だった。蕩けた顔で、青い瞳が俺を見つめると、婚約者の顔なんて頭の中からすっぽり抜けていった。
俺は、なんて馬鹿な男なんだろう。
こんな隠し事、いつまでも隠していられる筈無いのに。
「こんにちは、ウィリアム様。そのお方はどちら様?」
「やあ、セレス。この人はその…友人だ」
「ご友人でしたの。随分と、仲が宜しいのですのね」
大好きだった萌黄色の瞳。その瞳が、恐ろしく冷たい温度で俺を見る。突き刺すような嫌悪を露わにした視線に、俺はその場から動けなかった。
ソファーの上で、どう頑張っても言い訳の出来ない状態で。唇にはべったりとマリアの口紅が移っていて。話を聞いてと懇願する前に、婚約者は背中を向けて去って行く。
「見つかってしまいましたわね」
マリアのいやに冷静な声が、頭の中で何度も響いて、消える。
どうしよう。見つかった。違うんだ、この人は遊びで、妻にしたいのは君だけなんだ。追いかけなくては、詫びなければ。そう思うのに、絡みついてくるマリアを跳ね除ける事も出来ない。呆然と、その場で固まることしか出来なくて。
「ウィリアム!お前…お前は…!」
母の怒鳴り声で我に返るまで、その場から動けなかった。言い訳をする事も出来ず、俺は母親からされるがまま殴られて、マリアは酷く罵られて追い出された。数時間後、仕事から戻った父親にも同じように殴られた。
「婚約を破棄するとダルトン家から申し出があった。よくも父親の友情を汚してくれたな」
怒りを抑えられない父の、地を這うような低い声。顔を上げる事も出来ないまま、痛む体を起こしている事だけに専念した。
「しかも相手はマクベス!子爵家ではないですか!一体お前は何を…セレスティアがお前にどれだけ尽くしていたと思っているの!」
泣きながら怒る母の言葉に、ゆっくりと顔を上げた。尽くしていた?彼女が、俺に、尽くしていた?何を言っているんだと、馬鹿にするように鼻で笑ってしまった。それにもう一度拳をもらったが、尽くしていたという言葉は信じられない。
「会社の経営に携わるだろうからと、勉強してくれていたわ。私のお茶会にも参加して、跡継ぎの妻になりますと今のうちから挨拶までしてくれたわ」
「義理とはいえ両親になるのだからと、もう何年も欠かさず誕生日や結婚記念日に贈り物もしてくれていたよ」
「お前の良くない噂も、きっとそのうち本人が自分で気付くでしょうからと私たちを宥めていたわ」
「セレスティアの優しさと愛情をまんまと裏切りおって…この恥さらしが」
次々に出てくる両親からの言葉に、俺は何も言い返せなかった。彼女はいつの間にか、大人としての付き合いをしていたのだな、いつまでも子供のままで、愛してくれないと拗ねて、何も考えずに都合の良い女に引っ掛かって。情けない。
「グスタフは白紙以外受け入れないと言っている。マクベスからも、娘を傷物にしたのだから責任を取れと」
「嫌ですわ。私はセレスティア以外認めません」
「そう無理を言うな。セレスティアはこの馬鹿には釣り合わん。…マクベスは金だけはある。娘の嫁ぎ先への資金提供くらいするだろう」
会社の資金繰りの為に、婚約者を諦めてマリアを娶れと。いや、自業自得だ。馬鹿みたいに拗ねて、彼女を裏切ったのは自分だ。何も言えない。マリアにも、不埒な女というレッテルを背負わせた。二人の女性に、不誠実な事をした。
「マリアと、結婚します」
それしか言えず、後日マクベス家の当主と娘のマリアは笑顔で屋敷に来た。母はマリアの事を相当嫌っているようだけれど、婚約はあっさり決まった。
「末永く、よろしくお願いいたしますわ、ウィリアム様」
派手な化粧のマリアが、にっこりと笑った。それからというもの、招待されていない筈の集まりにもマリアは参加したがった。どこで情報を手に入れているのか分からないが、何処に行っても着飾った彼女がべったりと腕に絡みつくのだ。周りの目を気にすることなく歩けるのが嬉しいのと笑うが、どうしてもその笑顔を素直に受け入れられなくなった。
彼女の青い瞳は、なんだか怖い。
「あら、こんばんはセレスティア様」
何を考えているのだこの女は。ぎょっとしてマリアの方を見るが、マリアはにこにこと微笑みながら元婚約者に挨拶をする。先程よりも、もっとしっかりと絡みつきながら。
「…ごきげんよう」
真顔で軽い会釈をして、彼女はさっさと離れていく。一瞬でも、少しでも寂しそうな顔をしてくれれば良いと思った。怒ってくれれば良いのに。でも、彼女は何も思っていないような、ただ冷たい無表情。
「何を考えてるんだ?俺たちがセレスに何をしたか分かってないのか?」
「あら、私はただ挨拶をしただけではありませんか。それに、今の婚約者は私ですのよ?他の女性を愛称で呼ぶなんて酷い人」
拗ねたように、マリアはプイと顔を背けて、人込みの中に消えていく。酷いのは、俺とお前だろう。そう叫びたくても、言葉は出ない。大きく溜息を吐いた時、彼女が友人に手を振って会場を出ていくのが見えた。
何も考えられなかった。気が付いたら、彼女の背中を追いかけていた。
「セレス!セレス、お願いだ話を聞いてくれないか」
「ごきげんようウィリアム様。如何なさいました?」
ぞっとする程、冷たい瞳。彼女の声はこんなに抑揚のない声だったか。それでも、返事をしてもらえたのが嬉しかった。
「この間の事は謝る、ほんの少し魔が差しただけなんだ。結婚するなら絶対にセレスじゃないと嫌なんだ、頼むから考え直してくれないか」
我ながらなんて情けないのだろう。頭の中では分かっている。今更もう遅い事も、彼女が二度と俺を愛してくれない事も。
「何を仰います、マリア様がいらっしゃるじゃありませんか。それとも、私が婚約者のいらっしゃる殿方に靡くような女だとお思いなんですの?」
「婚約はすぐにでも解消する!俺には君が必要なんだ」
遠回しに、「私とあの女を同じと思うなよ」と言っているのだろう。顔は少しでも笑っているのに、声は相変わらず冷たいまま。お願いだから、もう一度だけチャンスをくれないか。そう懇願する前に、彼女から明確な拒絶の言葉。
「残念ですけれど、そういったお言葉は是非マリア様に仰せになってくださいませ。私には必要ありません」
何も言えないまま、彼女は馬車に乗り込んでしまう。見慣れた御者からも冷たい侮蔑の視線をもらって、その場に一人立ちすくむしかなかった。
「酷い人」
背後からマリアの声。いつから見ていたのだろう。いつから聞いていたのだろう。蛇のように冷たい目で、彼女は口元をうっすらと歪めて微笑んでいる。
「私とのことは遊びだったのでしょう」
コツコツとヒールを鳴らしながら、マリアは俺に縋りつきにくる。
「私はこんなにも、貴方を愛しておりますのに」
そっと重ねられる唇。ガラガラと響く馬車の車輪の音は、どんどん遠くなる。もう、足掻いたところで無駄なのだと思った。
自分がしでかした事は、取り返しのつかない事だったのだ。友人への見栄なんて馬鹿なもの捨ててしまえば良かったのだ。ただ一人、寄り添ってくれていた彼女を愛して、信じていれば良かったのだ。もっと話し合えば良かったのだ。
もう、何もかもが遅い。
「さあ、戻りましょう」
マリアに手を引かれるがまま、煌びやかな会場に戻るしかなかった。
誰でも良い。神様という存在が本当に居るのなら、お願いだ。彼女を俺の元に返してほしい。そう願ったところで、もう遅いのだけれど。




