下
玲子の冷たくひんやりとした太ももが頭を冷やす。
身体を動かそうとするも、力が入らず起き上がることすらできない。
玲子「いつき! ああ良かった……目が覚めたぁ」
僕「ここ……は……?」
玲子「多分手術室」
僕「……僕、どうなったんだ?」
玲子「覚えてないの? いつき苦しそうに通路を進んで、その先の手術室の手前で気を失ったんだよ」
僕「そう……だったのか」
呪いに耐えられず倒れてしまったらしい。
しかし、あんなに呪いが充満していた通路の先の手術室には呪いの力は全く感じられない。
ここではないのか……。
玲子はかんなに電話をしていた。
玲子「健吾……、下痢らしい」
僕「……まじか」
玲子「しばらくかかりそうだって」
僕「その方がいい。一階は安全だから」
玲子「そうだね」
しばらく休み、ようやく身体が動かせるようになった。
起き上がり、スマホのライトで辺りを照らし見る。
僕は扉のすぐそばに寝かされていたようだ。
すぐ隣には患者を乗せるベッドが鎮座している。その上の天井から伸びる円盤のライト。小自動車ほどの大きな機械。他にも数々の機械。そして、ノートパソコン。
手術室……。ここだけ、廃墟とは思えない。
まるで、つい最近まで誰かがいたようだ。
僕「常連のフリーライターが言ってたことは本当かもしれないな」
玲子「……うん。ここだけ明らかに真新しいもん。誰かいるのかな」
僕「かもしれない。とりあえず、先に進もう」
入り口と反対側の壁面に小さな扉があった。
ゆっくりと、玲子の肩を借りながら立ち上がる。そして、そこで気がついた。
僕「そう言えば、竜介は?」
先程から姿が見えない。
手術室内を見渡すがやはり竜介の姿はない。ということは外にいるのか? もしそうならすぐに戻さないと。呪いの溢れた場所に居続けると危険だ。
そう思い、入り口の扉を開けようと手をかけたその時……。
玲子が後ろから僕を抱きしめた。
強く……強く……。力強くて、息苦しくなる。
僕「玲子? 苦しいって。どうしたんだ?」
玲子「今、なんて言ったの?」
僕「なんて言ったって?」
玲子「竜介って言ったよね」
僕「うん。だから竜介は?」
玲子「……して」
僕「玲子?」
玲子「どうして今竜介の名前が出てくるの!?」
僕「……え?」
玲子「いつき……、どうして」
力が抜けたように、玲子はその場に崩れ落ちた。
玲子と付き合って三年、初めてこんな姿を見た。
……いや。初めてではないかもしれない。
玲子「やめて……。お願いだから」
僕「どうしたんだ玲子」
玲子「それはこっちの台詞だよ」
玲子が何を言っているのか、僕には理解ができなかった。
僕はどうすればいいのか分からなくなり、玲子のそばにしゃがみ込む。膝を抱え、顔を埋めている玲子の頭をそっと撫でる。
竜介「いつき」
突然暗闇の中から声が聴こえてびくりとする。そちらに光を向けると、入り口と反対側の扉の前に竜介の姿があった。
僕「竜介! びっくりした……、なんだよそこにいたのかよ」
どうやら竜介は大きな機械の裏に隠れていたようだ。
竜介はどこか寂しそうな表情を僕に向けてくる。
僕「竜介? どうかしたのか?」
玲子は相変わらず塞ぎ込んで顔を上げようとしない。
僕「竜介、玲子に何かしたのか? 玲子すごい落ち込んでるぞ?」
竜介「いつき、俺な、薄々気づいててん」
僕「何が?」
竜介「ずっと目を背けてた」
僕「だから何がだよ」
竜介「……ごめんな」
竜介までおかしなことを言い出し、僕はだんだん腹が立ってきてしまう。
僕はじっと竜介を睨みつけると、竜介はフッと微笑み、そして口を開いた。
竜介「俺な、去年ここに来てん」
僕「ここって、この廃墟に?」
竜介「おう」
僕「何しに? てか僕らには何も言ってなかっただろ」
竜介「まあ、これは俺の都合やからな」
僕「竜介の都合?」
竜介「いつきには言ったよな。昔迷子んなった時に助けてもろたって」
僕「ああ、関西のお姉さんに助けてもらったんだったよな」
竜介「そうや。それで俺な、大学一年ときにそのお姉さんと再会してん」
僕「え、関西に行ったのか?」
竜介「いや、東京で再会してん。あのお姉さんたまたま東京で仕事があったらしくて、ほんで俺すぐにあのお姉さんやと分かったから声かけたら、そのお姉さんもあのこと覚えてたみたいで。しかも俺の名前まで覚えててん」
僕「……そうだったのか」
竜介「ほんまに嬉しかった」
僕「けど、それとここに来たのとにどういう関係があるんだ?」
竜介「お姉さんな、去年行方不明になったんや」
僕「行方不明?」
竜介「再会したのをきっかけに、お姉さん……さゆりさんって言うんやけど、そのさゆりさんと時々会うようになったんよ。さゆりさんはフリーライターの仕事してはって、色々と悩みとか聞いたりしててな、それでその時さゆりさんはY県の山奥に立つ病院の廃墟について調べてた。ここがまさにその病院や。それから一週間後に、さゆりさんと連絡がつかんくなった」
僕「それで探しに行ったのか」
竜介「そう」
僕「見つかった……のか?」
竜介「……見つかった。遺体で」
僕「…………」
竜介「いつき」
僕「……なんだ」
竜介「俺に触れてみてくれ」
僕「……嘘だろ」
竜介「……いつき」
僕「そんなことって……」
竜介は、僕の方に歩み寄った。
そして……僕の肩に手を置いた瞬間、プツンとスマホのライトが消えた。
辺りが暗くなり、冷たい声が耳を通る。
竜介「俺……もう死んでんねん」
──頭の中が真っ白になる。
僕は耳を疑った。暗闇の中に微かに見える竜介の姿は、いつもと変わらずそこにある。けれど……どこか、違って見えた。
そして、閉ざしていた記憶の扉が開く音が聴こえた。
玲子の泣き叫ぶ声が聴こえてくる。
もう見てられないほどに泣いて崩れる彼女を、皆で慰めていた。僕、かんな、健吾……。竜介は……いなかった。
夏休みの計画をしていたさなか、竜介は用事があるからとそれを断った。
彼女が出来たのかとか、家族で海外旅行だとか色んなことを訊いても彼は何も答えなかった。そんな反応に違和感を感じてはいた。けれど、気にする事はないと、僕らは竜介抜きで旅行に行った。
そして、竜介は夏休みが終わっても学校には来なかった。家に行っても、実家に連絡しても、竜介は帰っていなかった。
警察に相談したが、手がかりは全くなく、捜査もしばらくして打ち切りになった。
玲子は泣き崩れた。父親を亡くしていることもあり、最悪の事態を想像してしまったのだ。
そして、その想像は現実となった。
僕「なんで……僕……」
竜介「いつきはずっと俺を見ていてくれた。俺はもうとっくに死んでたのに、いつきだけは俺が見えてた。だから……、俺も今の今までその事に気づかんかった」
僕「竜介……」
竜介「いつき、知っとるか? 俺な、お前らとくだらん事でワイワイするのめちゃくちゃ楽しかってんで? できることなら……、死にたくなかった」
それは、竜介の本音だった。
僕は去年の夏からずっと竜介の死から目を背けていた。行方不明になったことすら忘れていた……いや、記憶に蓋をしていた。
暗闇に目が慣れ始めているのに、竜介の姿はそれに反しだんだんと薄く、見えなくなっていく。
僕「竜介……、待てよ……。待ってくれ」
竜介「俺はようやく気づいたんや。本当の俺に。だから、先行くわ」
竜介は僕の側で俯いている玲子に目を向けた。
竜介「俺の為に泣いてくれてありがとうな、東堂」
竜介の辺りに光が灯る。まるで、妖精が周りを飛び回っているかのような、綺麗な真っ白い光だった。
僕「竜介! 僕は……」
竜介「何も言わんでええ。分かってるから。言わんでもお前の言いたいこと、分かるから。お前分かりやすいもん」
僕「……ごめん……ごめん」
竜介「いつき……一個だけ、頼んでもええかな」
僕「……ああ」
竜介「俺を見つけてほしい」
僕「……当たり前だ」
そして、竜介は安心したように笑顔を見せて、静かに消えて逝った。
辺りに再び暗闇が訪れ、そして僕のスマホのライトが眩しく灯り始めた。
玲子「いつき」
玲子は顔を上げて、僕を見つめる。彼女の頬には涙の跡が残っていた。
僕「大丈夫か?」
玲子「いつきは、ずっと竜介が見えてたの?」
僕「……うん」
玲子「竜介は?」
僕「もう、逝ったよ」
玲子「……そっか」
玲子の手を取り、僕らは奥の扉を開いた。
中はさっきよりも狭い通路が続いており、突き当たりには木製の扉があった。おそらく手術室から伸びているこの通路は当時のものではない。廃墟になった後に強引に設置された簡易隠し通路のようなものだろう。つまりこの木製の扉も同じく後付けされている。
扉の取っ手に手をかけると、あっさりと扉が開き、中に入ることができた。
玲子「ここって」
僕「うん、多分保管庫だ」
木製の天井まであるほどの巨大な本棚が壁に隙間なく詰められ、中に紙の束が無造作に置かれていた。
一束手に取り、内容を確認する。
僕「……これ」
玲子「どうしたの?」
僕「…………こんなことって」
玲子「いつき?」
僕「手術室前の通路に呪いが溢れていた理由が分かった」
玲子「どういうこと?」
玲子は僕が手に取った紙の束を覗き見ると、小さな悲鳴をあげた。
紙にはいくつか写真が載っており、そのどれもに人の死体が写っていた。
玲子「何……これ」
僕「二階の通路に散乱していたのはカルテなんかじゃなかった。研究資料だったんだ」
玲子「一体何の研究を……」
僕「……分からない。けど、少なくともここで人体実験をしていたことは確かだ」
玲子「そんな……」
昔、この病院で何が起きたのかは分からない。けど、ここにいる幽霊は昔に亡くなった人ではない。つい最近、人体実験によって亡くなった人達だ。そして、そこから逃げ出そうとしたがそれが叶わなかった人達の怨霊があそこの通路に溢れていたのだ。
竜介と交流をしていたお姉さんは、ここで行われていたことを調べる為にやってきた。そして……殺された。
……竜介は?
と、そこで一枚の資料に目がいく。
僕「……これは」
玲子「ねえ、なんか鍵? みたいなのがあったんだけど」
玲子に呼ばれ、部屋の奥に進むと玲子が本棚に登って奥の方に手を伸ばしていた。
僕「ちょ……!? 危ないって!」
玲子「違うんだよ。なんか奥の隙間に鍵がかかってるフックみたいなのがあるの」
僕「フック?」
玲子「ちょっと待ってて。もうちょっとで……、……とれたあ!」
と、手を抜いた途端に玲子が本棚から落ちた。間一髪で玲子を受け止め、一気にため息が出てしまう。
玲子「危なかったぁ」
僕「ほんとだよ……。それで、鍵だったのか?」
玲子は手に持ったそれを僕に差し出した。
手のひらほどの大きさのある、錆びついた古いアンティークの鍵。
玲子「これ、何の鍵だろ……」
僕「分からない。そもそも使えるのかな。ずいぶん年季が入ってる」
玲子「なんか、重要なものでも隠されてるのかな」
僕「どうだろ。重要なものか……」
いや、彼が言ってたじゃないか! あそこの何処かにあるはずだ。
僕「竜介がヒントをくれてた」
玲子「……え?」
僕「戻ろう、一階に」
玲子「どういうこと?」
何枚か証拠となりそうな資料を持って、僕らは保管庫を出た。そして、手術室を出ると、そこにはもう呪いの力は消えていた。
そのまま通路を進み、階段を降りる。
玲子「いつき! 急にどうしたの!?」
僕「ここだよ」
玲子「え?」
僕「一階の通路に続くいくつもの扉」
玲子「……そっか! 一階だけ何処も鍵がかかってた」
僕「この何処かにその鍵が合う扉があるはずだ」
玲子は一つずつ、扉の鍵穴に鍵をさしていった。
何処も小さい鍵穴ばかりでまったく入らない。
けど、きっとこの何処かにあるはずだ。絶対にあるはずなんだ。
玲子「ここだ!」
見つけた。他の扉と特に変わらないが、鍵穴の大きさが明らかに違った。
玲子「開けるよ」
僕「……頼む」
ガチャリ……、ギギギ……。
鍵同様錆びついた扉は、二人がかりでも重く、軋む音が激しく耳を打つ。
そして、扉が開いた瞬間……。
僕「ううっ!!」
玲子「いつき!?」
呪いが溢れ出してきた。
二階の呪いを遥かに超えている。
玲子「いつき……!! ……き!! ……!」
意識が遠のいてくる。
息ができない……。
玲子の姿が見えなくなった。まずい……。こんなの……。
…………こんな、の。
いつき……。
知っとるか?
霊は自分が死んだことに気付いたら成仏する思っとるやろ。
ちゃうで。
この世に未練がなくなったら成仏するんやで。
僕「……りゅう……すけ」
竜介「目ぇ開けぇいつき!」
耳元で張り上げる声に目が覚めた。
目の前には……彼がいた。
僕「竜介……?」
竜介「この中にあの人がおる! あの人を助けてくれ!」
気がつけば、呪いは弱まっていた。……いや違う。
白い光が僕を包み込み、呪いを弾いている。
身体に負担は一切なくなり、辺りがはっきりと見えるようになる。
扉を必死で押している玲子は僕を見て何かを呟いた。
玲子「いるんだね」
僕はこくりと頷き、そして扉の中に入った。
暗闇のはずなのに、僕を包み込んでいる光によって辺りが明るくクリアに見える。
こじんまりとした真っ白な部屋。
そこに膝を抱えてうずくまっている一人の女の人がいた。
顔色が真っ青で、この世のものではないことはすぐに分かった。目の焦点は僕に合ってはいなかった。
僕「あなたですね、昔、迷子の竜介を助けたのは」
女の人「……」
僕「ここを調べたのは、あなたがフリーライターだからですか?」
女の人「……」
僕「保管庫であなたの写真を見つけました。ひどくやせ細って遺体となったあなたの写真を」
女の人「……」
僕「片桐さゆりさん、資料にはあなたの名前が載っていました。そして、他の資料にはあなたと同じ苗字の男の子の名前が載っていました……。その子の名前は──」
女の人「……竜介」
僕「あなたが竜介に深入りしてたのは、あなたの弟と同じ名前だったからですね」
女の人「……」
僕「昔助けた迷子の子の名前を覚えているなんて妙だと思ったんです」
女の人「……」
僕「弟の竜介くんを探しにここに来て、そして殺された」
女の人「……苦しかった」
僕「……そうですね。苦しかったと思います。僕には到底分からないほどに。けど……」
女の人の背後には黒くて丸い物体が転がっていた。
僕「どうして竜介を殺したんですか」
その物体が竜介だと、最初は気付かなかった。
竜介は誰かに殺されたのではない。彼女の呪いで死んでしまったのだ。
女の人「私は……竜介君を、死なせる気はなかった」
彼女は僕に顔を向けた。その顔には涙が流れていた。
女の人「けど、仕方ないやん。竜介がいなくなって、やっとの思いでここにいるって分かった途端に私は死んでしもうた。もう誰も彼も殺してしまいたくなるやん!」
僕「……さゆりさん」
玲子「その竜介くん、生きてるかもしれませんよ」
いつの間にか、僕に後ろに玲子が立っていた。
いや、それよりも……。
僕「彼女が見えるのか?」
玲子「ううん、はっきりとは見えないよ。けど、そこにいるのは分かる」
女の人「どういうこと!? 竜介が……生きてる?」
玲子「ここのことを教えてくれたフリーライターの人。あの人ね、片桐竜介っていうの」
僕「……彼女と同じ苗字」
女の人「そんな……、竜介は生きてたん……?」
ここから逃げ延びた、ということか。
竜介「さゆりさん」
女の人「竜介……君」
竜介「もう一人で苦しまないでください。俺がおりますから」
女の人「竜介君……ごめん……ごめん……!」
竜介「いいんすよ。大丈夫ですから」
片桐さゆり、彼女が振りまいていた呪いはもうなくなった。
僕の周りから、光が消えていく。
竜介「いつき、俺の未練はもうない。これでほんまにお別れや」
僕「……たまにはこっちに降りて来いよ」
竜介「無茶言うなや!」
僕「……けど、皆待ってるから。無茶でもいい。また来いよ」
竜介「……ほんま勝手なやつや。分かった」
さゆり「いつき……君」
僕「はい」
さゆり「その子にお礼言っといてくれる?」
僕「……伝わってますよ」
花のような香りを漂わせながら、竜介とさゆりさんはこの世界を去った。
──後日。
持ち出した資料を警察に提供し、ここで行われていたことは公にされた。
聞いたこともないような研究機関が廃墟を利用して、不老不死の研究を行なっていたらしい。その主犯格の人達は逮捕され、廃墟から少し離れた森で大量の白骨遺体が発見された。
──僕のひと夏の思い出は、これで終わりを告げた。
かんな「あーあ、健吾の下痢のお世話してただけなんだけど、あたし」
健吾「誤解招くような言い方すんなよ!」
玲子「けどさ、夏休みはまだまだあるじゃん」
かんな「だよね、大学の夏休みめっちゃ長いもんね」
玲子「うん、だから来週でもまたどっか行こ?」
健吾「そうだな。どこ行こうか」
いつき「……関西巡り」
玲子「……いいね」
健吾「竜介が羨ましがるな」
かんな「そうだね」
いつき「大丈夫。竜介もきっと、向こうで楽しんでるよ」