中
通路の突き当たりに階段があった。
二階へと続く階段。
かんな「てかさ……健吾どこ?」
忘れてた……。
恐らくトイレに行ったのだろうが、そのトイレがどこにあったのか気付かなかった。
僕「受付のとこにトイレあったっけ? 全然気付かなかったんだけど」
竜介「暗くてよう分からんかった」
玲子「私も……」
僕「大体受付辺りにあるよな、トイレって」
玲子「一度戻る?」
かんな「あたし見てくるわ」
玲子「え! 一人で!?」
かんな「大丈夫だって。あたし霊感ないし」
玲子「けど……」
僕「じゃあ僕も行くよ。二手に分かれて行動しよう」
竜介「じゃあ俺は東堂と二階を探索──」
玲子「え、無理無理無理!」
竜介「……え」
玲子「いつき一緒に来てよ!」
竜介「……俺とじゃそんなに嫌……なんか……」
僕「泣くなって。けどそれじゃかんなが一人になるだろ」
かんな「大丈夫大丈夫! 健吾のとこ行くまでだから」
かんなはふんと鼻を鳴らした。かんなのこういう所が男らしくてかっこいい。
逆に竜介はというと、玲子に拒まれたのが相当こたえたのか目が潤んでいた。多分玲子はそういうつもりで言ったわけではないと思うが……。
ここからは二手に分かれる事になった。
かんなはトイレに行ったであろう健吾を探しに受付に、僕と玲子と竜介はそのまま二階の探索にそれぞれ向かう。
二階も一階とほとんど変わらない作りだった。床には、硝子の破片や紙くずが散乱している。
何かの書類だろうか。
確認しようとしゃがんで紙くずに手を伸ばした、その時だった。
突然、背筋を誰かに触られたような感触がした。
途端に悪寒が走り、身体中が恐ろしく暑くなる。ずんと重い空気がのしかかって、視界がゆらりと揺れ始めた。
僕「うっ」
玲子「どうしたの!?」
僕「……いる」
竜介「いるって、何が?」
僕「……怨霊が」
玲子「おんりょう?」
僕「呪いを振り撒く幽霊だよ」
竜介「いつき、お前って……霊が見えるんか?」
僕はもうこのことを隠すつもりはなかった。
竜介に頷きをかけて肯定する。竜介は驚いたように目を見開いたが、すぐに「そうだったんか」と受け入れてくれた。
竜介は生まれも育ちも東京だ。けれど、彼は関西人に憧れを抱いていた。一度訊いてみたことがある。どうして関西人に憧れているのかを。
竜介『俺な、小さい頃に迷子んなったことあってん。ほら東京って人多いやん? それで親とはぐれてもうた時にとあるお姉さんに助けてもらってな。んで、そのお姉さんってのがバリバリの関西弁喋ってはってん。それで関西っていいなぁって』
僕『じゃあいつか関西に行くのか?』
竜介『まぁ、できればそのお姉さんに逢えたらなって。お礼だけでも言えたらなって』
竜介は誰に対しても陽気だった。けど、その反面傷つきやすく、そして優しかった。
本当は僕のこの力、玲子ではなく真っ先に竜介に話すつもりでいた。入学式の時、僕の隣に座っていた竜介。てっきり関西人だと思って話していたら「俺、バリッバリの関東人やで!」と返されて思わず笑ってしまったものだ。
今日、こういう形でとは思わなかったけど、竜介に明かすことができて良かった。
けれど……喜んでいる場合でもなかった。この今までに感じたことのないほどの悪寒。二階一帯に呪いが充満している。今すぐにでも一階に戻るべきだ。
僕「これ以上進むのは危険だ」
玲子「……まずいの?」
僕「うん。こんなの今までに感じたことがない」
竜介「……戻ろう」
僕「とりあえず一階に……」
玲子「……ねぇ、いつき……何…あれ……」
玲子の声が震えていた。異常なほどに……。
玲子は通路奥の暗闇をじっと見つめている。
その方にスマホのライトを向けてみる。
そこには、人が立っていた。
患者が着るような白い服に包まれた女の人。
長い髪が顔にかかって容姿がはっきりと見えない。
そして、聞き取ることのできない気味の悪い声を発している。まるで機械音のような生気のない声。
その女の人は、僕の視線に気がつくとゆらゆらと左右に揺れながら、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
玲子「あれ……何? もやもやした影みたいなの」
玲子は彼女を指差して言っている。つまり玲子には彼女がそういう風に見えているらしい。
今までに玲子がそういったものを見たことは一度もない。なのに今は黒いもやもやとして見えている。
一体どうして……。
竜介「いつき! 逃げた方がいいよな」
僕「そうだな、とにかく下に降りよう」
竜介の声で我に返り、後ろを振り向いたその時……、
「たすけて」
耳元で女の人の声がした。
僕の真横に唐突な気配。さっきまで遠くにいたはずの女の人が一瞬のうちに真横に現れた。
そして、スマホを彼女に向けた途端、プツンと光が消えた。
玲子「ひゃあっ」
竜介「なんでライト消えてん!?」
僕「……」
玲子「……いつき?」
僕「玲子、スマホのライト……点くか?」
僕のスマホは彼女に近付きすぎた。
しばらくして、フッと辺りが明るくなった。どうやら玲子のスマホは無事だったらしい。
僕の横に彼女はもういなかった。
玲子「点いた!」
僕「良かった。じゃあ今すぐ一階に降りろ」
玲子「……え、いつきは?」
僕「僕はちょっとやることがあるから後で降りるよ」
今現れた彼女は怨霊ではなかった。
この病院で亡くなった地縛霊だ。何かを訴えるように、彼女は僕に助けを求めた。玲子や竜介ではなく僕に助けを求めたということは、彼女は自分がもう既に死んでいる事に気付いているかもしれない。
彼女は僕が見えているという事に気が付いたから僕に助けを求めた。
幽霊は死ぬ直前から時間が進まない。事件などに巻き込まれてこの世を去った人は永遠に助けを求め続けていることが多い。
相手に自分が見えているかどうかは自分自身には分からない。だから相手が自分を見えていなくても必死で助けを求める。それに縋るしかないのだ。
人が感じる『寒気』はそれによって生じるものだ。
そして今、彼女は僕と目が合った瞬間に近づいてきた。自分のことが見えているのだと確信して。
玲子「いつきが何考えてるかなんとなく分かるよ。何年付き合ってると思ってんの」
僕「玲子……」
竜介「そうやぞ! 俺は何考えてるかは分からんけど、でも一人で行かせるかよ」
僕「けど……」
玲子「いいから! 行くよ!」
玲子は僕の手を握りしめた。
玲子「いつきの様子で戻るかどうか判断するから。あんたは私がいないと死ぬまで突き進むんだから」
僕「……ごめん、ありがと」
玲子に手を引かれ、僕らは奥に進む事にした。
一階と違って二階は通路左右に設置されている部屋に続く扉が、何箇所か開いていた。彼女が消えたことで僕のスマホのライトも点くようになり、開いている部屋を一つずつ照らしていく。
待合室に診察室、まるで泥棒が入ったようにぐちゃぐちゃに散乱して、足の踏み場もない。特に何かを感じることもなく、中を散策する。
玲子「それで、さっきなんでいつきのスマホのライトが切れちゃったの?」
僕「霊気に触れてしまったからだよ」
玲子「れいき?」
僕「そう。心霊スポットで肝試ししてる人の動画とかでよく懐中電灯とか車のライトとかが勝手に消えたりするの見た事ないか?」
玲子「ある!」
竜介「それも霊気ってやつなんか?」
僕「僕も詳しくは知らないけど、幽霊に触れると光が消えてしまうんだ」
物心つく頃には既に他の人には見えないものが見えていた。だから、不可解なことが起きても僕からしてみればそれが普通のことだった。
子供の頃に一緒に遊んでいた女の子が、触れるだけで電気を消せるそれを超能力だとずっと思っていた。死んでいたなんて、そんなの思いもしなかった。
僕の中では、幽霊も人も変わらない。判断するものもほとんどないほどにはっきりと見えてしまう。
二階通路を奥に進む度に、身体が重くなっていく。
とうとう耐え切れなくなり、膝に手をついて息を整える。少し歩いただけなのに、まるで何キロも走った後のように息が切れる。
玲子「いつき!? 大丈夫?」
玲子が僕の背中をさすってくれるが、うまく声が出せず頷くことしかできなかった。
今までにもこういう状況に遭遇したことは何度かあった。
けれど、ここまでのものは初めてだった。怨みの強さが今までとはまるで違う。
ここで一体何があったのか。
玲子「もう戻ろ? いつき辛そうだよ」
僕「大丈夫……。それより、ここはなんで廃墟になったんだ?」
玲子「……私も詳しくは分かんないんだけど、常連さんが言うには医療ミスが多発して封鎖せざるを得なくなったとか」
竜介「……医療ミス?」
医療ミス……。
もしも彼女がその被害者だったとしたら……。
おそらく他にも……。
部屋を一通り散策するも、特にこれといったものは見つからなかった。
医療ミスが多発するなんて通常じゃあり得ない。必ず原因というものがあるはずだ。
何か、当時の証拠のようなものがあれば、どうにかすることができる。
と、そこで思い出した。
僕「そう言えば」
玲子「どうしたの?」
僕「床に紙くずが落ちてた」
竜介「それがどうしたん?」
僕「ほらここにも」
ライトを下に向けるとビリビリに破かれた紙切れがいくつも散らばっていた。
一切れ拾い上げてそれに光を当てる。
竜介「これって」
玲子「何かの資料……? 違うこれ、カルテだ」
二階に散らばっていた紙くずには、患者と思われる人の個人情報や走り書きのような文字がいくつも書かれていた。ビリビリに破れているからはっきりとは分からないが、これは恐らく当時の患者のカルテだ。一階に紙くずは落ちてはいなかった。きっとこの二階のどこかにカルテの保管庫があるはずだ。
患者の症状や治療方法などの情報が記載された診療録。それがあれば、ここで何が起きたのか分かるかもしれない。
通路の突き当たりには全面ガラス張りの窓があり、月明かりが室内を照らしていた。
突き当たりから左右に通路が分かれており、右側には恐らく産婦人科がある。
「ぎゃああ、ぎゃあああ」
ずっと赤ちゃんの泣き声が聴こえていたから。
僕「聴こえるか?」
玲子「何が?」
玲子には赤ちゃんの泣き声が聴こえていない。ということは、皆幽霊だ。
玲子「ねえ、何がよ?」
僕「何でもない」
玲子「やめてそれ一番怖いから。言って」
僕「……さっきからずっと赤ちゃんの泣き声が聴こえてる」
玲子「えっ」
僕「それも一人や二人じゃない。何十人もいる」
玲子「……どういうこと」
「ぎゃあああ、ぎゃああああ」
声はさらに激しく響く。
僕「ここで亡くなった子達だろうな」
竜介「……医療ミスで?」
玲子「そんなことって」
僕「僕は医療ミスなんて思っていない」
玲子「医療ミスじゃないなら……」
僕「……カルテの保管庫を探そう。何か分かるかもしれない」
通路の突き当たりを左に曲がると、突然暑く不快な風が吹き乱れ、息が止まりそうになった。今までの比ではないほどに、呪いが溢れている。思わず口を押さえ、壁にもたれながら前へ進む。
その姿に戸惑う玲子は僕に声をかけてくれるが、もう玲子の声は聴こえなくなっていた。
まっすぐ進む。
ずっと前へ、前へ……。
視界がかすみ、どこにいるのかさえ分からなくなる。
黒い灰のようなものが降り始め、鼻や口に入り、むせてしまう。
それでも進む。
前へ……。前へ……。
…………。
……………………。
………………。
…………………………。
…………つき!!
いつき!!!
気がつくと目の前には玲子がいた。




