祖母の事情6
それは、礫のような雨が降った翌日のことだった。
「親父! レアが川に落ちて流された!」
家に駆け込みそう叫んだのは、今年8歳になる三男坊のハルトリスだ。
息子の言葉を聞いて、サイラスは手にしていた工具を床にがちゃんと落とした。同時に修理中だった窓枠も落ちて、床に破片が散乱した。
「な、流されただと!?」
「昨日雨が降ったせいで、流れが急になっているんだ! あいつ、そこに飛び込んで……。兄貴たちは現場に残っている。とにかく早く——」
「ただいまー」
ハルトリスの必死の訴えは、2つののんびりとした声にかき消される。
それに続けて現れたのは、モーリスとエドガーだった。二人とも、足が濡れて全身泥だらけである。
……更にモーリスの脇には、びちゃびちゃにずぶ濡れたカトレアが抱えられていた。
「うっ、うっ、うええええっ。死ぬかと思ったぁ……」
「そうだな。それには同意だよ」
泣きじゃくるカトレアにモーリスが頷く。そして彼は、妹を玄関口にぽいっと下ろした。
めまぐるしく変化する情報を処理しきれず、サイラスは濡れ鼠な娘を呆然と見下ろす。
仕方なく、ことの始終を見守っていたガルデニアが口を開いた。
「一体何があったのです」
「一匹猟犬がいなくなったのでみんなで捜しに行ったら、増水した川の中洲で立ち往生しているところを見つけたんです」
エドガーが肩を竦めて答える。
「そうしたらこいつ、いきなり川に飛び込みやがって。流れに飲まれてすぐ姿が見えなくなったので今度こそもうダメだと思いましたが、しばらくするとピーピー泣き声が聞こえてきたので捜してみたら、下流の倒木に引っかかっていました」
「……」
「きゅーん」
エドガーの言葉を肯定するように、まだらな雑種犬が現れ切なげに鳴く。
「ホワイトロック」とカトレアが呼びかけると、犬はカトレアの側にちょこんとお座りした。
……そしてカトレア、犬の潤んだ瞳が「許しておくれ」とガルデニアを見上げる。
「……。それでカトレアは、その犬を助けたわけですか」
「いえ、犬は自力で岸に上がっていました。レアはただ、勝手に川に落ちて俺たちに迷惑をかけただけです」
擁護のしようがなかった。
カトレアは、そのあと滅茶苦茶怒られた。
◇
”美しく優雅な女性になるように”という願いを込めて、サイラス4人目の子供はカトレアと名付けられた。
しかし、「この子は手がかかる」という母親の言葉はその通りで。
彼女は齢11ヶ月頃には己が才覚を遺憾なく発揮するようになり、脱走、失踪、暴走——あらゆる騒ぎを引き起こした。
そして6歳となった現在。
カトレアが経験した生命危機一髪経験は、両手の指では数えられない程の数にまで積み上がっていた。
こいつ実は既にループしているんじゃないか、という疑問がガルデニアの頭に浮かぶ。
だがカトレア本人にループのことを訊ねるわけにはいかない。もし彼女がループの存在をしっかり認知してしまったら、きっととんでもない事態になるだろう。そんな予感とも確信ともつかぬ思いがガルデニアにはあった。
とにかく、放っておくとカトレアは勝手にあの世に向かって走り始めてしまう。
だから彼女には、ループと――命のやりとりとは無縁の生活を歩ませねば。
そう考えて、ガルデニアは川の一件があったのち、カトレアに武術禁止令を下した。異を唱えるのは本人ばかりで、大体の人々は「そりゃそうだよな」と納得した。
「自分も武術を学びたい」と泣いて暴れていた本人も、「武術を学ぶと王子様との結婚が遠のくぞ」と軽く仄めかされただけで、あっさり抵抗をやめた。
カトレアの才能に少なからず期待を抱いていたガルデニアは、ちょっぴりショックを受けた。
だが、ここで落ち込んでいる場合ではない。
カトレアの母は、カトレアがまだ赤子のうちにこの世を去ってしまった。
もうこの家には、ガルデニアと使用人しか女手が存在しない。立派な家庭教師を雇う余裕もない。
だからガルデニアが、カトレアをまともな令嬢に育て上げねばならないのだ。
「貴族の令嬢として生きていく以上、貴女には学ばねばならぬことがたくさんあります」
「はい!」
カトレアの令嬢特訓初日。
厳しい声音で語るガルデニアに、カトレアは瞳を爛々と輝かせながら元気よく応じた。
「お祖母さま。ここで頑張れば、わたし王子さまのお嫁さんになれるんですよね?」
「その通りです」
教育的事情のため、ガルデニアは嘘をついた。
「素敵な令嬢になれば、どこにいても必ず王子様の目に留まるはずです。だから精進するように。……では、まずは読み書きの練習から始めましょう」
「ええー……」
「王子様はたくさん本を読む賢い女性を好むのですよ。それに、いずれ王子様と文通するときに文字が書けなくては困るでしょう」
「……なるほど! お勉強します!」
ひどく単純な孫娘を巧みにコントロールしながら、ガルデニアはこれからのことを考える。
……カトレアは反抗的な子供というわけではない。だが、何故か彼女の前には危険が転がり込んでくることが多くある。そして更に悪いことに、彼女はその危険に「そいや」と足を突っ込む悪い癖があるのだ。
ならば、その悪癖を矯正してやればいい。今から彼女を徹底的に鍛え直して、淑やかさと分別を叩き込んでやるのだ。そうすれば彼女が遭遇する危険は劇的に減少するだろう。
それに、美少女と言うわけではないが、カトレアには愛嬌がある。まともな女性に成長すれば、王子様は無理だがそこそこの家に嫁がせることはできるかもしれない。
(カトレアの未来は、私の手に掛かっている)
ガルデニアは静かに己を鼓舞する。
こうして、長い長いカトレア花嫁修行の日々が幕を開くのであった。





