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side:彼の事情1


「私も連れて行ってください」

「駄目だ」


 上目遣いで繰り出された妹のおねだりを、クリュセルドは素っ気なく跳ね除けた。


「お前、少し動いただけでも疲れてしまうじゃないか。連れて行ったって、すぐ歩けなくなるのが目に見えている」

「歩くの、頑張りますから」

「それで明日になってお前が熱を出したら、母上に怒られるのは私なんだぞ。そんなのごめんだ」

「……お兄様の、いじわる!」


 セレニアは大きな目を潤ませながら、精一杯クリュセルドを睨みつける。そんな様すら愛らしくて、2人のやりとりを後ろでみていたライゼルは、つい笑みを漏らした。


 今日は朝から、クリュセルドと城館敷地を抜けた先にある森を探索する予定だった。

 森といっても屋敷から馬ですぐの距離にあって、人の手も入っており、さほど入り組んでいない。だから、12、3の子供だけでも踏み入ることが許されている。

 冒険には物足りないが、1日遊んで回るにはもってこいの場所で、2人は稽古や授業が無い日となると、大抵この森に出掛けていた。


 ところが、昨日になって突然、セレニアが自分もついて行きたいと言い出した。

 理由は分かっている。ライゼルが、森へ行く途中にヒバリの巣を見つけて、そこの雛がもうすぐ巣立ちそうだという話をうっかりセレニアにしてしまったからだ。


 年齢にしては分別があり、物分かりもいいセレニアは、これまで2人に混じって探索に行きたいなどと一度も口にしたことがなかった。だが、雛については話が別のようで、かなり熱心なお願いを昨晩から繰り返していた。


 そのためクリュセルドは早朝に起き出し、妹がまだ寝ているうちにこっそり森へ出かけようと画策したのだが、いざクリュセルドとライゼルが部屋を忍び出たら、廊下にしっかり身支度を済ませたセレニアが待ち構えていた。——彼女は、兄の思惑をしっかりと読み取っていたらしい。

 確かに、セレニアはすぐ熱を出す子供だ。呼吸器も強くないようで、調子が悪いと少し走っただけですぐ咳をしたり動けなくなったりすることもある。

 クリュセルドが連れて行くのを渋るのも無理からぬ話だ。


 だが、このまま置いてきぼり、というのも少々酷である。ライゼルにはセレニアの好奇心を煽ったという責任があるのだ。


「クリュセルド、奥様はもうお目覚めになっているかな」

「母上か? ……まあ、そろそろ起きる時間だとは思うけど……」

「じゃあ、セレニア。奥様に俺たちと森に行っていいか聞いてごらん。奥様がいいっておっしゃるなら、一緒に連れていってあげる」

「ほんとう!」


 セレニアが顔をぱあっと明るくして、ライゼルを見上げる。そして天使のような相貌いっぱいに笑みを浮かべた。


「お母様にきいてきます。ライゼル兄さん大好き!」


 そう言って、セレニアは母親の寝室へと駆けていく。「おい走るな」と小さな背中に声をかけたあと、クリュセルドはライゼルを睨めつけた。


「ライゼル、どうしてあんなことを言うんだ。母上が良いと言ったら、本当に連れて行かなきゃいけなくなるぞ」

「いいじゃないか。セレニアなら、勝手に走り回って森で迷子になるなんてことないだろうし」

「あいつに合わせて移動していたら、その森につく前に1日が終わってしまう」

「散策はまた今度すればいい。とにかく、あんなに行きたがっているのに仲間はずれはかわいそうだよ」

「……ふん」


 クリュセルドは不服そうに唇を結んで、つんとそっぽを向く。何か気に入らないときに彼はよくこの顔をする。本人には言わないが、この横顔は機嫌が悪い時のセレニアにそっくりだった。


「あんまりセレニアに冷たくすると、また閣下から叱られるぞ」

「兄というのは損な役回りだ。私は上に兄か姉が欲しかった」

「そんなこと言うなよ。あんなに素直で聞き分けのいい妹、なかなかいないぞ。あれくらいの年の女の子は、もっと煩いし生意気だし」

「ならお前にやる」


 クリュセルドは仏頂面を更に険しくした。


「小さくて愛嬌があるものだから、みんなあいつのことばかり可愛がる。それで私には、妹を大事にしろだの、兄としての自覚をもてだの、跡継ぎとしての器を磨けだの……あまりに不公平だ。兄や姉がいなくても、まだ私1人だった方が気も楽だったのに。

 大体、父上は——」


 つらつらと日頃の不平不満が、若君の口から流れ出てくる。


 確かにこのところ、立ち振る舞いや授業態度、話し方や食事の作法——あらゆることで、クリュセルドが父親に叱り付けられる姿が度々見受けられた。

 一方で、体が弱くそれでいて可愛い盛りのセレニアがちやほやされる姿は、クリュセルドの目にはさぞかし小生意気で不公平な存在に映ることだろう。


 だが、ヴラージュ公が息子に厳しく接するのは、彼に並ならぬ期待を抱いているからこそだと、ライゼルは知っていた。クリュセルドは12歳。あと数年すれば公の場にも顔を出すようになり、次期ヴラージュ公爵として求められることも多くなる。

 そうなった時、少しでも息子が苦労しないようにと、ヴラージュ公はあえて息子に厳格な態度をとっているのだ。


 そしてヴラージュ公は、息子が鬱憤を溜めるであろうことも分かっていた。だから、孤児で平民生まれであるライゼルを、師と共にこの城館へと迎え入れ、家族のようにクリュセルドの側にいることを許してくれた。

 同年代の気の合う友が近くにいれば、クリュセルドの気持ちも多少は晴れる。そして、時たま抱く暗い不満も、気の許せる友人になら吐露することができる。


 つまり、クリュセルドの愚痴を聞いてやるのが、ライゼルの役割なわけで。


 若君が一通り不平を並べ終えると、ライゼルは友人の肩を叩いた。


「悪かったよ。せっかく久しぶりに自由にできるチャンスだったのにな。

 でも、今回は俺がセレニアを誘ってしまったようなものなんだ。それなのに置いていってあの子を泣かせたら、俺が先生に絞られる。今度この埋め合わせはするから、今日は付き合ってくれよ」


 ライゼルの申し訳なさそうな言葉に、クリュセルドは硬い表情を少しだけほぐす。

 そして、こくりと頷いた。


 若君の、ご機嫌取り役。それは決して響きのいいものではなかったが、ライゼルはこの役目が嫌いではなかった。

 クリュセルドは、ライゼルの出自を気にすることなく、彼を同門の兄弟子として慕ってくれている。セレニアは自分を「兄さん」と呼び、失って久しい家族の温かさを思い出させてくれる。そして公爵夫妻は、ライゼルにも惜しみなく教育の場を提供してくれた。

 のたれ死んでもおかしくなかった自分が師に拾われたことすら奇跡だったのに、今の環境は身に余る幸運だった。

 不満など、抱くはずもない。



「おにい、さま。あの、あの……」


 語らう2人に、呼びかける声があった。

 ライゼルたちが振り返ると、先ほど母親の部屋に駆けていったはずのセレニアがいた。


 何故か顔を真っ青にして、ふらふらと今にも倒れそうな足取りで、彼女は彼らの方へと歩み寄る。そして、兄の袖を掴み、体を震わせた。


 今にも泣き出しそうな妹の様子にため息をついて、クリュセルドが口を開いた。


「やっぱり、駄目って言われたんだろう。だから私もそう言って——」

「お母様が起きないの」


 兄の言葉を遮って、セレニアが言う。幼い口から漏れる不穏な響きに、空気が冷たく凍りついた。


「お父様も、起きなくて……。2人とも、ベッドの上で動かないんです」

「は……?」


 クリュセルドは眉を顰めて妹を見下ろした。しかし突然、何かを察したように、母親の寝室に向かって駆け出した。

 ライゼルもその背中を追う。追いすがるようなセレニアの視線を感じたが、今は彼女に構う余裕はなかった。


 階段を登り、中央棟最上階の夫人寝室へと向かう。

 4階の廊下にたどり着くと、開け放たれた扉が見えた。普段、この階にライゼルが立ち入ることはない。だが、息を飲むクリュセルドの様子を見て、あれが夫人の部屋の扉であることは、すぐにわかった。


「父上、母上!」


 叫びながら、クリュセルドは室内へと駆け込む。


 夫人の寝室へ立ち入ることに一瞬躊躇したが、室内から悲鳴に似た友の声が聞こえて、ライゼルも部屋の中へと足を進めた。


「起きてください。父上、母上っ……」


 寝台で、クリュセルドが誰かの体を揺り動かしていた。


 思わず逸らしそうになる視線を、クリュセルドの手元に向ける。

 そこには、目を閉じたまま動かぬ、恩人たちの姿があった。その表情は穏やかで、眠っているようにも見えて。

 しかしいくら我が子に揺さぶられても、彼らが目を開くことはなかった。







 その日、幸福だった日々は一変した。

 クリュセルドは家督を継ぎ、ライゼルは再び王宮に仕えることになった師に付いて、ヴラージュ家の城館を離れることになった。


 それでも、ライゼルとヴラージュ家の交流は続いた。クリュセルドは公爵となった後も、ライゼルを家族同然の友人として扱った。


 しかし、クリュセルドがライゼルに不満を漏らすことは、あの日以降1度もなかった。



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