1-9:笑いのツボ
「フェルナン?」
星南の細い声がした。呼ばれて意識を戻したフェルナンは、手袋を外した左手で耳のカフスに触れる。その指をパチンと鳴らすと、慣れた痛みを感じた。
『女神の慈悲を受けし月 瞬く星は意味を持ち 忘れえぬ日に 焦がれるだろう 青き忘却の火を灯せ――――勿忘草の青』
ボッと音をたてて、指先に水色の火が灯る。それを直ぐに星南の方に向けてやると、腰を抜かしてドン引きされた。
「…………」
フェルナンにギロリと睨まれた星南は、慌てて首を横に振る。違うんです、人魂が怖いなんて歳じゃありませんから、という意味だ。しかし、唯一の光を手にした青年の目は、完全に座ってしまった。
「ご、ごめんなさいっ!実はちょっと怖かった、というか…………でも無いと困るというか!あぁっ!!消さないでーっ!」
どうやら弁明しているらしい。流石にフェルナンにも分かった。俺は既に、溜息が止まらない病を患ったに違いない。街に戻ったら、本物の薬草師に頭痛薬の処方を頼んだ方が良いだろう。額を押さえた青年は、遂に無知の恐ろしさに屈した。
「…………頼むから、もう黙っていてくれ」
「はい…………」
星南は仕方なく諦めた。何を言っても、通じる事は無いのだ。弁明しても、魔法なのかと尋ねても、凄いねと誉めても。私は馬としか話せない。この配線ミスをやらかした神様を、やっぱり恨まずにはいられなかった。
フェルナンは暫く無言で額を押さえていたが、何度目になるか分からない溜息をついて、人魂を頭上に放り投げた。それはふわり空中に静止して、より広い範囲を青白く染め上げる。
「お前、留守番くらいは出来るんだろうな?」
「はいっ!」
威勢良く返事をして、星南はサーッと青くなった。留守番という事は、人魂と一緒において行かれるのだ。真っ暗で、音も風も無い、巨木の森の中に。
「…………出来ないのか」
その声には、やっぱり、という何かが滲んでいる。気不味いながらも、おずおず見上げて様子を窺うと、彼は腰に下げていた剣をひとふり外して差し出してきた。
「護身用に持たせてやる。怖きゃ、目でも瞑ってろ…………もうじきダヴィドさん達が戻って来るから」
やっぱりおいて行く事は決定らしい。見た目以上に重さのある剣を抱え、星南は青白い光を見上げた。
「…………あれは、光の女神の加護だ。お前を追いかけ回したりしないから、安心しろ。ちゃんと戻って来るから、此処に居てくれ」
彼にしては、随分と優しい口調だった。星南は長い剣を抱えて、渋々頷く。足手まといにしかならないのに、一緒に行きたいなどと主張出来るはずがない。それでも、武器を持たせて貰えただけで、気持ちが不思議と落ち着いた。
もう一度星南を見下ろしたフェルナンは、長い溜息をついて巨木の陰に消えて行く。ちゃんと見えているのだろうか。心配になる程、辺りは暗い。
地面に座り込んだまま、星南はずっとフェルナンの消えた闇に目を凝らしていた。何もする事がない。それは本来幸せな事だったのに、今はとても惨めに思える。役に立たないなんて、努力が足りない証拠ではないか。そんな風に、会社の上司は怒っていたっけ。そう思い出すと、余計に何かしなくてはいけない気分になってきた。
「魔法、なのかな?」
見上げた先にある、青白い光。フェルナンは詩のような言葉を呟いていた。
「見よぞ、ティす?」
耳に残った最後の部分だけ真似してみたが、当然何も起こらない。思わず剣を抱き締めると、カチャッと小さな音をたてた。ウスタージュは何時帰って来るのだろう。ちょっと怖いダヴィドさんより、彼がいい。話しやすいし、人当たりも良いし。何より、裏表の無さそうな性格が安心出来た。
「今日は土曜日の夜、かぁ」
電話すると約束した友は、怒っているだろうか。心配して家に来るという事は無い筈だけれど。あの後、玄関はどうなってしまったのだろう。きっと鍵は閉まっていない。
私が持っているからだ。
左の手袋の中に隠していた、何の変哲もない家の鍵。唯一持つ事が出来た、自分の物。右手でそれの輪郭をなぞる。すっかり体温に馴染んでいて、体の一部みたいだ。もしも明日中に戻る事が出来れば、何事も無かったかのように出来るだろうに。
「そんなに都合よく行くんなら、こんなところに居ない、か」
星南は自嘲気味に呟いた。運が悪かったのだ。昨年、両親を交通事故で亡くして以来、悪い事ばかりが続いてきた。このまま失踪扱いになっても、誰も不思議に思わない気さえする。父親の親戚は遺産だ何だと大揉めだし、母方の親戚は医者の家系だけれど、昔から私を毛嫌いしていた。
「トドメとばかりに職場がブラックじゃぁ…………失踪待ったなし、だよねぇ」
何処で普通の人生を踏み外してしまったのだろう。星南は抱えた膝に頭を伏せた。
帰りたいのは、田舎の実家だ。
もう戻る事の出来ない、楽しい思い出の詰まった古い家。進学さえしなければ、大学に行こうとしなければ、仲良く両親と天国に行けたかもしれないのに。
パキンッと近くで音がした。
びっくりして剣を抱きしめる。キョロキョロ辺りを見回すと、松明の明かりが森の奥に見えた。暖色の光が照らすのは、二人の影と二頭の馬だ。
本当に、すぐ帰って来たんだ。
いつの間にか零れていた涙を袖で拭き、星南は立ち上がった。早く天国に行きたいなんて思っちゃ駄目だ。二人の分まで頑張らないと。死んだ後に母さんにこっぴどいく叱られるなんて、御免だ。
「寂しい思いを、させたようですね」
近くに来たエルネスが、星南の頭を撫でた。フードを被っていない彼は、サラサラの黒髪に縁取られた麗しい顔に、にこりと優しげな笑みを浮かべる。目線を合わせるように屈んだその肩に手を置いたのは、ウェーブするオレンジの髪のダヴィドだ。
「泣くこと無いだろう?故郷に近くて恋しくなったのか?」
もう故郷ネタはやめて欲しい。星南は自分の胸に空いてしまった穴が何かを、悟った。歳と共に煙たい事が多くなった両親の死が、こんなにも癒えていない。
「貴女がどんな理由で、結界を越えたかは分かりませんが…………あの壁を再び抜けるには、十年待たねばなりません」
「しかも、完全に消失する訳じゃない。確実に戻れるとは期待するなよ?」
「…………はい」
そんなところに、帰りたい場所は無い。
泣かせにこないで。泣き虫な自分とは、もう別れたのだ。
「セーナ、泣かないでください。青石の国に辿り着けないのは、我々も同じです」
「辿り着けたとしても、墓の前で祈るくらいしか用は無いがな」
お墓?
その単語に、星南の肩が僅かに跳ねた。エルネスはすかさず、尊い女性の永眠の土地なんですよ、と言葉をかける。
「クレールという神人の女性だ。知っているか?」
星南は袖に涙を押し付けた。泣いている場合じゃない。自分の祖国だと思われている国の話を、二人は今しているのだ。
アジュールという国の蛇使い。結界という何か。亡くなったというクレールさん――――お墓参り。
どれも分からない。
開き直って知らないと言ったら、どうするだろう。ウスタージュは気にしないような気がする。なんだかんだ言って、フェルナンも見捨てたりしないだろう。でも、この二人は分からない。
「…………無理に答えなくても、良いんですよ」
エルネスがそっと髪を梳く。ゆるゆる顔を上げると、すぐに頬に手を添えられた。
「街に戻ったら、ハンカチを探さなければ。硬い袖で目を擦ると、腫れてしまいます」
「…………はい」
「青石の国は二百年余り鎖国状態だ。アングラードの市場は、楽しめるかもしれんな」
そう言って、ダヴィドが星南の手から剣を取り上げる。
「こんなものを持たせるなんて、フェルナンは何を考えてるんだ?」
「あのっ!」
「駄目だぞ。子どもが持つ物じゃない」
「セーナは、此方にいらっしゃい」
「オイデ」
エルネスに手綱を引かれていたナディーヌ号も、星南を呼んだ。もう蛇人族の話はお終いなのだろうか。どうにか情報を引き出さないと、いつボロが出るか分からない。頭上で音無く燃える青白い炎。それを見上げていると、みよぞてぃす、と耳に残った言葉が口から滑り出ていた。
「勿忘草の青ですよ」
すぐにエルネスが反応する。彼は左の手袋を外すと少し目を伏せ、スッと髪に差し入れ指を顔の横でパチンと鳴らした。
『大樹に添いし蔦の葉よ 艶やかなりし影の葉よ この手に寄りて悪しきを祓え――――木蔦の緑』
地面から急成長した蔦が、ドーム状に頭上を覆う。口を開けて見上げる星南を、エルネスはくすくす笑った。
「色使いが珍しいですか」
「えっ、えぇと…………」
もしかしてこの世界の人は、標準的に魔法が使えてしまうのだろうか。星南はじわりと焦りを覚えた。肯定したら、何故知らないと思われそうだ。けれど否定したら、やってみせろと言われそう。ならば断然、後者の方が困る!
星南は頷いた。色使いなんて知りません。こうなったら、世間知らずを全面に出していこう。服さえまともに着られなかったのだ。変に頭を使っても、それでボロが出たらきっとおしまいになる。
「そんなに必死にならなくても」
エルネスはまだ笑っていた。ダヴィドが、ぽんと頭に手を乗せてくる。
「気を付けろよ。色使いは力を行使し過ぎると、欲求不満になるんだ」
「ダヴィド――――」
笑いを苦笑に変えたエルネスが窘める。
「事実だろうが。金糸雀には二人も居るんだぞ」
ぽん、とダヴィドはもう一度星南の頭を撫でた。
「いいか、夜に二人っきりになるんじゃないぞ。色使いの男は全員、初心者向けじゃないからな」
「なんて事を教えているんですか、貴方は」
「無知な子どもに真実を教えて、何が悪い」
星南はそそくさと、ナディーヌ号の方に逃げ出した。思いっきり下ネタを聞かされてしまったようだ。知りたいのは夜の事情ではなく、蛇人族の事だったのに。何処の世界でも男の人ってこうなのだろうか。そんな事も知りたくは無かった。
「ほら、セーナが引いていますよ」
「いいぞセナ。エルネスに近寄るんじゃない」
「…………ダヴィド、貴方それでも知識者ですか」
「そうだぞ、これでも知識者だ」
「ふぃろぞふ?」
おうむ返しに星南は言った。世間知らずで開き直ったら、知らない名詞が気になったのだ。
「そういえば、最近の言葉でしたね」
都合の良い事に、エルネスはそう言って意味を教えてくれた。
「知識者とは、百歳を超えた若者を指す言葉です。知識ある者、という言い方が、何時の間にか短くなったんですよ。元は、寿命の短い獣人族達が言い始めたんですけど、すっかり定着してしまいましたね」
「百歳の若者?」
「セーナは知識者ですか?」
「まさか」
思わず首を振って否定した。百歳の若者ってなんだろう。明らかに若者って歳じゃない。
「私が知識者に見えないって、顔をしていますね」
「もしかして、からかってます?」
嘘だよね、という気持ちを込めて尋ねてみると、エルネスはもう堪え切れない、と言うように笑い出した。
「お前、どれだけ大人げない事をやらかしたんだ?」
「ねぇセーナ、ダヴィドも知識者に見えませんよね?」
「はい!」
「なにっ!?」
琥珀色の瞳をぎょっと見開いたダヴィドが、大きな手でパシッと額を押さえた。
「セーナ、私は幾つくらいの歳に見えますか?」
エルネスが笑いを堪えて聞いてくる。
「三十歳付近かなぁ、と」
「あぁ、そうでした。特異言語は、数字も発音が違うんでしたっけ」
「えーと」
そう言われた星南は、スリーピースをして見せた。
「実に良いですよ、セーナ。ダヴィドはどうです?」
同じく三本の指を立てて見せると、見る目が無いぞ、とダヴィドは腰に手を当てて抗議した。
「俺は今年で二百九十歳だ。一番年長なんだぞ?」
「えーと、二十九の事でしょう?百円を百万円って言う感じなんだ?」
「無駄ですよダヴィド」
「お前なぁ…………」
「そうだ、フェルナンはどうです?」
「うーん、二十くらい?」
「ウスタージュはどうなんだ?」
「二十五!」
二人はどっと笑った。
「フェルが最年少ですか!」
「これはいいネタになるぞ。怒り狂うだろうな、あいつ。いいか、絶対に本人に言うなよ?」
「は、はい…………?」
どうやら、笑いのツボが違うらしい。