3-26:朝の光
エヴァは離宮の屋根に移転して、見える景色に苦笑する。広がるのはテント街だ。連れて来た青国配備の面々は、夜営の準備を開始していた。割り切りが良すぎるのも、どうかと思う。
「…………ねぇ、君」
目の合った竜人を、呼び止めてみた。すると慌てた様子で跪かれる。やはり神装に黒髪では、力を押さえていても怖いらしい。
「副団長を呼んでくれる?」
「すぐにッ!」
転がる勢いで走っていった後ろ姿に、溜息が出る。唯一の手札を切ってまで、ダヴィドは国境を越えたのだ。下手をすれば全滅だってあり得る。そうまでして、星南を求めているとは思えなかった。
だから彼は、殺されないと踏んだのだ。
帝国は青石の国に開国されたくない。黒色病の蔓延は恐怖だろう。しかし、開国するなと言えるだけの力はないのだ。皇弟が戦死でもしない限りは。それでろくに止められもせず、軍は国境を越えてきた。
「お呼びでしょうか、三色菫の君」
呼ばれて僅かに眉が寄る。顔を知る者が居たようだ。陸は口にしたとたん、すぐに情報が流れ出す。不便で仕方なかった。
「ただの確認に来たんだよ。屋根以外は結界内だ。落ちたら命の保証はないからね」
「心得ております」
意外と若い声がした。跪く顔は分からないものの、灰色の髪に緑のローブ。魔人の血が混ざる、蛇人族だろう。
「君、出身は?」
興味本位で聞いてみる。
「青石の国です」
結界に閉ざされても、誰も慌てない訳だ。青国配備の面々は、この国にゆかりを持っている。そういう血筋の集まりなのだ。水の神人を警戒して揃えたのだろう。確かに蛇人は殺めにくい。思わず苦笑がこぼれた。ダヴィドは頭が回るから、手を焼く隙もあまりない。
それが彼を孤立させる。分かっているのだろうか。
「楽にしてていいよ。僕は居ないものだと思って?」
そう言うと男は頭を上げた。緑の瞳の知らない顔だ。
何に期待したのだろう。
あちこちから上がり始めた湯気に、エヴァは青い瞳を伏せた。マンディアーグは解放されて、青石の国を二分する要素はなくなった。それが思いのほか、大きな変化なのだと分かった。
今頃になって実感が湧く。
手を入れる事も、手放す事も出来なかった都市だ。忘れられればとさえ思った。こんなに上手く鎮めてくれるなんて、想像しただろうか。今は、かつての姿を取り戻すだろう幻さえ描ける。
数を減らした住人の保護。
それも数千人とは思わなかった。追い出せる訳がない。ガヤガヤ雑談の広がる野営地で、つい面影を探してしまう。遠い昔に神に乞い、初めて生まれた蛇人の血筋。間違くなくクレールの子孫だ。神人は本来奔放で、夫や妻というくくりはなかった。泣かされていたのは、潔癖すぎた夫だけ。
――――私の子なのに、ミキは嫌って言うのね!ひどい人!!
「クレール、君は、やっぱりひどいよ」
――――それでも僕は、すきだったんだ。
回廊に飛び出した星南を待っていたのは、フェルナンひとりだけだった。
「エヴァは!?」
「そこのさ…………」
指さされた方を見て、ぐしゃっと裾をたくし上げる。目を離し隙に悪さをされたら、大変だ。味方であるなら、なおさらに!
「ありがとっ!!」
星南は後も見ずに駆け出した。ダヴィドは丸い目をして、フェルナンは石のように固まっている。一瞬、太ももまで見えたのだ。芽生え始めた恥じらいは、やはり気のせいだったらしい。
「…………フェル、あれはマズイぞ?」
「分かってる」
「夫の役を、サボったか?」
「そこまで手は抜いてねぇ…………」
「あれはマズイぞ」
ダヴィドは額を押さえた。その横をフェルナンが過ぎていく。殆んど音の立てない歩き方。爪先さえ見せない、身のこなし。多少は、彼自身の為にも躾けると思った。なのにアレだ。
「フェル坊、星南では不満か?」
ギロリと二色の瞳に睨まれる。即座に否定しないから、ダヴィドにはそれで十分だった。
「お前、自分の首を絞めているのか?」
「…………あいつ、何やっても泣くんだよ」
「初々しいな」
「黙れ」
睨んできても、こうなると可愛いばかりだ。手を焼いた上での今ならば、フェルナンだけでは荷が重かろう。王としてハリボテにもならないとなると、流石に困る。
「お兄様が助言してやる。女は態度も言葉も欲しがる、欲深き生き物だ」
「だ、ま、れ!」
腹を蹴られそうになり、ダヴィドは後ろに飛び退いた。そこで堪えきれずに笑いだす。案外本気であったらしい。ずっと半信半疑だったから、わざと二人を近付けた。夫婦となれば、嫌でも腹は据えるだろう。
「フェルナン知っているか?初恋は拗れるらしいぞ?」
「…………くっそ、さっさと帰れッ!」
「王に望まれた身だ。帰る理由は何処にもないな」
「星南を言い負かしたのか」
「いいや、星南が言い出したんだ。家族に見えるならいい、とな?」
「…………家族」
ダヴィドが言うと、不穏な言葉に聞こえてしまう。それを星南は分かっていない。回廊を歩き出した彼に、フェルナンは慌てて回り込む。
「俺の身分はどうなった?」
問うとダヴィドは、ニヤリと勝ち誇った笑みを浮かべた。
「新国王ミエル・フェルディナン・ラ・アルタは、ヴァニーユ・クローディットの子を認知、これを王太子とした。エルに感謝しろよ?お前など知らないと言った王に、あの短気が半日もかけて説得したんだ」
「母は王妃か」
「そこまで世話する、義理もなかろう?」
辟易した様子で肩を竦めるくせに、瞳が妙に楽しそうだ。彼とて、フェルナンの実父は気に入らない。こういう事情でもなければ、子の認知などさせなかった。
「しっかり星南を捕まえろよ?お前以外の男など、男だと思わせるな」
どこまで本気なのだろう。
フェルナンは、琥珀色の瞳を訝しく見上げた。笑顔で頷かれたが、一体何に頷いたのか。分かりやすく好いた態度は取らなかった。夫婦にまでして一緒にされる理由は、別にあるように思えた。
星南は幼い。花や馬を愛でるのと、同じように思われている気さえする。うっとおしく感じないのは、女未満のせいだろう。頭を振って額を押さえ、フェルナンは己に言い聞かせた。
あれは、子どもだ。
「簡単だろう、フェル?誘惑すればいい」
「他人事だと思ってんだろ?」
「他人事だしな?」
ニヤニヤした表情に、無性に苛立ってきた。結局はダヴィドの思い通りだ。水の国を内側から食い潰す。皇帝になるなら、死んだ方がマシだと言い切った皇子である。可能性を潰す事にかけては、ピカイチだ。おまけに運も良い。頭が痛くなってきた。
「星南をどうするつもりなんだ?」
「どうもこうもないだろう?」
という事は確信犯か。家族なのに他人事となれば、夫の領域外の地位になる。
「…………後宮を開かせるのか」
「夫が嫌なら仕方なかろう?」
「初夜をどうするつもりだ?」
「俺にはちゃんと策がある。フェルナン、同じ質問をしてやろうか?」
「…………!」
クッと喉で笑われた。どう頑張っても勝てそうにない。勝てたためしも皆無であった。
「そう眉を寄せるな、困ったら助けてやるさ。ほら、さっさと姫君を追いかけるぞ?」
「…………了解だッ!」
星南は、白亜の回廊で荒く息をついていた。広すぎる。フェルナンに距離を聞けば良かった。恨めしく見上げる過装飾の天井に、水の膜が明かりをキラキラ反射する。ぺたんと床に座り込み、そのままゴロンと転がった。夜中なのにと思い出せば、眠たくだってなってくる。
「エヴァのばか、どうしてじっとしてないの」
冷たい床の、なんと気持ちの良いことか。色々あってとても疲れた。誘惑に負けて瞳を閉じる。体温の移った石床は、じんわり温かくなってきた。
――――この後、どうすれば良いんだっけ?
寝たら半分は忘れてしまう。覚えてるのは、結局そこまでだった。
「セナ?」
ダヴィドは一応声をかけ、星南をそっと抱き上げる。そのままフェルナンに手渡した。
「水の血筋は眠りに弱い。疲れたんだろう」
「だからって普通、床で眠るか?」
「野宿に慣らした、俺のせいにしてみるか?」
そう言われると分が悪い。男だと我慢させた事は、上げればキリがないからだ。そして星南は、どれを強いても文句など言わなかった。訳の分からない言語を言って、不思議そうにするだけだ。
「…………ひとまず寝室に置いてくる」
「添い寝してやれ」
「俺は、眠くなんか」
「いいから寝て来い。俺の助言が聞こえないのか?」
諭すように言ってきたダヴィドに、フェルナンは眉を寄せた。そう言うからには、裏がある。けれど推し量る事は出来なかった。
「ダヴィドさんはどうする?」
「焦げ臭いからな、その辺でも泳いでみる」
「それでエヴァを釣るんだな?」
「釣るなんて人聞きが悪いぞ?俺の前に来させるんだ」
ニッコリ笑うから、勝算もあるようだ。それでフェルナンも疲労感に目をふせる。
「眠い気がする」
「そうだろう?」
あの手の上で踊るしかない。おりる事も叶わない。だったら休める時に休んだ方が得策だ。
「…………おやすみ!」
「良き眠りを」
ていよく追い払われた気がする。フェルナンは眉を寄せた。ふにゃりと幸せそうな顔で、星南は眠ったままだ。ちょっとやそっとでは目覚めない。例えば、彼女が嫌がるだろう既成事実を負わせても。
――――添い寝か。
ダヴィドは、そうしろとは言わなかった。救われたのは星南だけじゃない。
「勝てねぇ…………」
身分を得ても、何の助けになるものか。腕に抱えた、女ひとり守れないのに。
「俺で良いのか」
手に入れたら離せなくなる。そんな予感がした。だから恐れた。好意の先にある感情が、破滅という名をしていたら。幼いころに張り付いていた、雪の降る窓を思い出す。暖炉に暖められた室内で、フェルナンは外ばかり見ていた。
本当は、そこに映る母を探した。
振り向けば行ってしまう。愛した男に似なかったから。色彩さえ、母の望みを叶えてやれはしなかった。
「どうしたら、いいんだ」
色使いは恋が出来ない。これはきっと罰なのだろう。もやもやした気持ちは晴れそうにない。膨れ上がるばかりだ。
星南は眩しいと思って、目を開けた。キラキラしている。銀白色の後ろ頭が、すぐ横に転がっていた。ぎょっとして半身を起こすと、まさかのベッドの上だ。そして朝!
「寝ちゃった!?」
とっさに左手首に目がいった。腕時計はなく、銀の腕環が眩しく光る。現実は今日も厳しそうだった。
「あの、フェルナン?」
一応呼んでみるものの、法律上の夫はびくともしない。起こして良いのだろうか?
星南は静かに近寄って、寝顔をそっと覗き込む。申し分なく美しい。悔しいことに、ニキビの痕さえ見つからなかった。伏した睫毛に色香があって、見ている方が照れてきた。どうしてココに寝たんだろう…………心臓に悪い。
「フェルナン、ねぇフェルナンってば!」
思いきって揺さぶってみる。その拍子に、彼は仰向けに転がった。投げ出された腕に膝を叩かれ、星南は息を飲み込んだ。乱れた衣装に、均整の取れた胸板が見える。散らばる緑色の祝福痕は、まるで神聖なものを汚す烙印のようだ。
見てはいけないものを見てしまった。起こすのは諦めよう。
死んだ魚のような目になって、足元の方に這っていく。彼を大きく迂回すると、やっと床に足が下ろせた。ベッドの三方向は壁である。
「誰か探さなきゃ…………」
そう思ったものの、やっぱり目を離すのは惜しい気がした。滅多に見れないほど、今のフェルナンは無防備だ。
――――すき。
両親みたいな夫婦に憧れた。なのに彼は意地悪で、何を考えてるのかも分からない。しょうがないじゃん、そんな人が好きなのだ。
それで幸せになれなくても、幸せに出来なくても、幸せなんだと知っている。すきって思っている時は、抑えきれない程に胸の内が満たされるから。
「…………どうしてかな」
すごく幸せなのに悲しいのは。泣きたくなるのは。すきって思うたびに顔は熱くて、心臓は凍えてく。苦しいし痛いし、ちっとも甘くなんてない。田舎みたいな穏やかさ、思い描いた優しさは、どうして心に無いのだろう。
「すきだよ、フェルナン」
眠る横顔に囁いた。傍に居たいだけなのに、とても欲張りになりそうだ。隣に居ると足りなくなって、触れてみても足りなくて。どんどん自分が分からなくなる。
――――なのに好きって思うんだ。
「ねぇフェルナン、私、あなたがすき!」
言ってしまうと、スッキリとした。世の中、これ以上いいにくい言葉はないだろう。
「よし、エヴァを探してこよう!」
「何が、良しだ」
「えっ!?」
フェルナンに胡乱な視線を向けられた。ヤバイ、いつの間にか起きている!
「おっ、おはよう、ございます!」
「…………おはよ」
急に気まずくなった。寝ている横で、騒ぐなって怒られる?それとも、俺は好きじゃないって怒られる?どちらにしても怒られる事は確実だ。星南は慌てて正座した。
「何やってんだ」
「その…………お騒がせしたので」
「静かな方が稀だろう?」
布の滑る音がする。見えたのは、床に降りる華奢さのない足。いよいよ土下座を披露する時だろうか。星南が身構えていると、グイっと腕を引かれる。抵抗の間もなく立たされて、思わず振り仰げば眉を寄せるフェルナンが見えた。二色の瞳は静かな光と一緒に、見たことのない色を湛えている。息が詰まりそうだ。
もしかして凄く怒ってる!?
「フェルナン、あの、本当に…………」
ごめんなさい、と言ってしまいたい。向けられているのは、殺気ではなかろうか。
「夫婦を解消する気はあるのか?」
「えっ!?」
頭の中が白くなる。フェルナンが居なくなる?夫婦をやめるの?それはいつ?
彼はまだ何かを言っていたけれど、ぜんぜん耳に入らなかった。
――――そんなに怒った?
いつも怒っているから、その加減が分からない。分かる事なんて、ほとんど無いのだ。
「星南?おい星南、しっかりしろ!」
ぐらぐら身体を揺すられて、胸に空気を吸い込んだ。ボケッとしている場合ではない。アンチ後悔!言うべき事を惜しんだら、口がある意味すらないだろう。
「行かないでっ!!」
「人の話を聞いてたか?」
「だって、無いって!」
「ないと言った」
「…………な、ない?」
口にしてみて、パチパチ瞳を瞬いた。泣き出しそうなグレーの瞳は、みるみる丸くなっていく。感情のよく映る鏡みたいだ。雲が晴れるように、澄んだ青が広がった。
「ない…………ないのフェルナン!?」
「そう言っている」
「ありがとう!」
「…………礼を言われる事じゃない」
「だって私は嬉しいもん!」
「俺で良いのか。本当にちゃんと、考えてるんだろうな?」
「私は、フェルナンがすき。だからね、いつかフェルナンに、すきって言われるように、努力します!」
「…………馬鹿。ニブイんだよ、お前」
顔が近づく。さらりと頬に触れたのは、ささやかで短い口付けだ。二色の瞳を探したら、じっとこちらを見おろしていた。思わず逸らす。なにか気まずい。
「俺が欲しいのは、お前だ」
「…………わ、私?」
「危なっかしくて、目が離せない」
「…………それって、ママだから?」
「…………俺が何だって?」
「何でもありません!」
「…………」
無言が辛い。星南がそおっと見上げると、フェルナンは小さく吹き出した。
「身構えた俺が馬鹿だった」
くすくす笑い声が降ってくる。面白い事は言ってない。一体どこで誤訳したのか。星南は眉を寄せた。
「あ、あの」
こんな風に笑う姿を、どう受け止めれば良いのだろう。こっちはちっとも笑えない。どうしよう、フェルナンが壊れてしまった。朝の光の中で途方に暮れる。




