1-8:沈む森
ガタガタ音を立てるトラクター。
それに父と乗ったのは、小学生の頃だった。
星南は、小さいままで良いんだよ。
成長の遅れていた私に、両親はよくそう言った。けれど、頑張る事を止めてはいけない、とも言われた気がする。どっちなのだろう。そう思っていると、雪の中で受験票を握り締めていた。
高校受験だ。
「ん…………」
気が付くと夢だと分かって、意識が浮上する。ここは雪の中でも、茶色い土に囲まれた田舎でもない。青緑の葉が頭上に広がる森の中だった。残る郷愁に落胆し、星南は再び目を閉じる。頬に触れるシーツが、ひんやりとしていて、氷みたいに冷たい。
そう思ってうっすら瞼を開くと、濃紺の柔らかな生地が見えた…………地面に何かが敷かれている。
「っ!」
ダヴィドのローブの色だった。慌てて起きると、肩から血のように赤い布が滑り落ちる。無意識に触れた首には、傷も痛みも無かった。それに漸くほっとする。安堵と共に視線を下げれば、ボタンが全て外されたジャケットが見えた。
ブカブカの手袋でそれを左右に広げてみると、ゼッケンみたいな革を固定する帯の本数が少ない。
やっぱり、この帯の話だった。
一晩を無事に過ごした星南の頭には、今更襲われる、という心配が枯渇気味だ。
「お、起きたの、かっ!?」
振り返ると、随分離れた場所にウスタージュが立っていた。
「悪気は無かったんだ!そんな目で見ないでくれ!!」
「え?」
彼は距離故に大声で弁明を始めた。
「ちょっと、脅かそうとしただけなんだ!まさか、倒れるなんて思って無かったんだよ!!」
星南は目を瞬いた。
「無抵抗な女の子を襲う男だなんて、思わないでくれーっ!」
「うるさい!!」
「って!」
ウスタージュの背中を、横から現れたフェルナンが蹴り飛ばした。ガシャンと鎧が音を立てて、彼は見事に根の溝に落ちたようだ。姿が消えてしまった。呆気に取られて見ていると、星南の方を一瞥したフェルナンが明かに嫌そうな顔をする。
「何か食べる気があるなら、こっちに来い」
彼は要件だけ言うと、踵を返してしまった。星南は何気なく辺りを見回す。巨木が壁のように並ぶ森は薄暗く、辺りに人の気配は一切ない。顔を向けると、ウスタージュの背中が見えた。銀色の鎧の背中。それはこちらに振り返る事無く、奥へと行ってしまいそうだ。
一人にされる!
そう思った瞬間、身体が動いていた。二色のローブを胸に抱えて、立ち上がる。
「ウスタージュ、待って!」
「お?」
慌てて駆け寄ると、溝に落ちたままの青年は降参するように両手を上げた。
「俺は何もしてないぞ。指一本触れてないからな?」
「…………うん」
何でこんなに、気にするの?
星南は首を傾げた。命に別状はなく、服装も変わっていない。間違いなく襲われてはいなかった。それとも、寝ている間に何かされたのだろうか…………
いや、流石に起きるだろう。
ぶるぶる頭を振る。しっかり鍛えられたダヴィドに首を絞められたら、雨の日のトラウマのような姿になると想像してしまったのだ。私がこの世界で死ぬ時は、きっとあんなカブみたいな姿になるのだろうと。それだけで吐き気が込み上げて、目の前が真っ暗になった。
人前で服を脱がせてきたフェルナンには一言いたいが、彼に無断で脱がされるのは二回目だ。寝ていて何も無かったのだから、起きている時に何かあるとは思えない。
どうしてあのタイミングだったのかは謎だけれど…………結果として、不調は殆ど回復していた。苦しくて辛い事に比べれば、上着を脱がされたくらいで文句は言えない。
星南は短く息をつく。溝に落ちたままのウスタージュは、依然として、降参ポーズのまま項垂れていた。その頭は固そうな茶色の短髪がツンツン生えていて、針ネズミみたい見える。
「怒ってないよ。帯、ゆるくしてくれたんだね」
「殴っていいんだぞ。俺は、罪を犯したんだ」
やっぱり全然通じない。言葉の壁は高過ぎた。
「ウスタージュ…………」
「ほら、何時でもこい!」
そんな事言われても。
星南は肩を落とした。彼を殴る理由は何処にも無い。フェルナンだったら、一発殴ってもいい気がするけれど。そんな事をして倍返しがきたら、ひとたまりもない。だから仕方なく、ウスタージュの頭を撫でてみた。みた目通りに固い髪の毛は、刈りたての芝生みたいな手触りがする。自分との違いに少し驚いた。
「セナ…………」
顔を上げた鎧の青年が、琥珀色の瞳で見上げてくる。
「…………もしかして、許してくれるのか?もっと怒っていいんだぞ?」
「えーと」
首を傾げてみせると、大きな溜息をつかれた。カシャンと音をたてて溝の縁に腕を乗せ、ウスタージュはそこに突っ伏してしまう。そしてまた、溜息だ。何かマズイ事でも言ってしまったのだろうか。思わず辺りを見回したが、誰も居なければ、鳥の声さえ聞こえて来ない。
「セーナはどう考えても女名だし、少年にしたって線が細すぎる。男に見える要素なんて、殆ど無いんだぞ」
「う、うん…………」
「いいか。見間違える才能があるのは、ダヴィドさんみたいな大人の女専門の男か、女を知らない坊やくらいだ」
「は、はぁ…………」
「真面目に聞いて無いだろう?」
ウスタージュが疲れたような表情で顔を上げた。星南は返事に困ったまま、頬を掻いた。ぶかぶかの手袋の第一関節が、へにょりと折れ曲がる。
「言っても仕方ない気がしてきた…………」
「えーと、何だかすみません」
「お前、今、見当違いな言葉を言っただろう?何となく分かってきたぞ」
「全然分かってないよ?」
「もういいや。セナは俺を、許してくれるんだろう?」
首を縦に動かすと、彼はどうやら納得したらしい。カラッと明るく笑って、鎧の重さを感じさせない跳躍で溝から飛び上がって来た。
「まぁ…………セナは見る目があるぞ。俺はダヴィドさんみたいな鬼畜じゃ無いからな!」
「えっ?」
「加減とか出来ない人なんだ。頼ると、事がややこしくなる」
それを早く言って欲しかった。真面目な熱血漢ではないと、もう分かってはいるけれど。更に言うなら、少し怖い人だ。正直言って、もうどう接したら良いのか分からない。
「そう心配するなって。ダヴィドさんは、子どもを抱く趣味は無いからな」
「…………う、うん」
ウスタージュの話を聞いていると、更に良く分からない人になりそうだ。内心で困惑していると、セナ、と低い声で呼び掛けられる。片手に木のお玉を持った、フェルナンだった。
「お前ら、何をごちゃごちゃ言っているんだ…………こっちは時間がないんだよ。食うのか?」
「いらないっス!」
「お前じゃねぇ!」
ぷっと星南は吹き出した。
「フェルさんって、ママみたいだと思うだろ?」
ウスタージュの言葉に、星南はくすくす笑い続ける。フェルナンは不機嫌そうに顔を歪めた。
「誰が、何だって?」
「おぉ恐い~!」
「セナ!お前も、何笑ってんだ!!」
私、この人達に付いて来て良かった。
唐突に思う。
「怒鳴ってるほど、怒ってないんっスよ?そこが、何ともママっぽい」
ウスタージュが小声で教えてくれる。見上げると、琥珀色の瞳が笑みに細くなっていた。それでも堪え切れない笑いで身体が揺れて、カチカチ鎧が鳴っている。
「…………二人とも、こっちへ来い」
一段と低い声でフェルナンが言った。
「おっ、俺は小便!!」
ウスタージュはビクッと背筋を伸ばして、星南の背中を軽く二度叩く。
「あれが怒った時のサインな。後は任せたぜ、新人!!」
「えぇっ!?」
脱兎のごとく森の中に走って行ったウスタージュに、星南は唖然とした。恐る恐るフェルナンの方を向くと、お玉を片手に腕を組んでいる。ちょっと間抜けだ。
「ウチのママは、ヒステリーなんて無かったけど」
言いながら足を踏み出した。
私はこのよく分からない世界で、カナリというパーティーに拾われた。それがやっと、幸運だったと思えてきた。
「弟とお兄ちゃんと、ママかぁ」
どれも自分には居ない。けれど、彼らがちゃんと迎え入れてくれる。そうしようと、本当に思ってくれていると気が付いた。そうでなかったら、今も、あの青い草原を彷徨っていたかもしれない。
成せばなる。
私はこの世界で、どうにか生きていこう。頼っても良さそうな人に、ちゃんと出会えたのだから。
「何をごちゃごちゃ言っているんだ?」
「でも、フェルナンがママなのは、ちょっとなぁ」
「…………俺が、何だって?」
「えっ!?」
星南はギクリとした。
「な、に、を、驚いてるんだ?俺がママだと言ったんだろう?」
「に、日本語分かるの!?」
思わず仰け反ると、フェルナンはお玉を星南に突きつけた。
「分かる言葉で話せ!」
「悪口言われたのだけ、分かるんだ」
なんか変だ。それが今は面白い。星南がまたくすくす笑い出すと、フェルナンは盛大な溜息をついた。
「…………ひとまず飯だ。夜には火を落とすから、早く食え」
ウスタージュはきっと知らないんだ。この人は口が悪いだけで、怖い人じゃないって。やっぱり少し、お母さんみたいだ。ちゃんと世話を焼いてくれる。
「聞いているのなら、返事くらいしろ!」
「はーい!」
不思議と機嫌の良い星南に、フェルナンは一瞬訝しげな顔をした。けれどそれだけで、背中を向けて歩き出す。その歩調は、随分ゆっくりとしていた。
暗い森の中に、更に暗い夜が訪れたのは間もなくだった。随分眠っていた事に気付いたけれど、その事をフェルナンは指摘してこない。役に立たない自分が何をしていようと、関係無いのだろう。それに少しの申し訳なさが生まれた。手に持つ根菜のスープは、塩味でとろみがあり、食べた事のない肉と紫のシメジが浮いている。
「無理に食べろとは、言っていないからな」
一口食べて硬直した星南に、フェルナンが言った。蓋をした鍋を火から下ろして、食事の片付けをしながら、ちゃんとこちらを見ていたらしい。首を横に振って否定しながら、もう一口スープを口に運ぶ。
塩味だが、とても苦い。
そこはかとなく渋いし、後味がよろしくない。はっきり言ってしまうと、不味い以外の何物でもなかった。けれどお腹は空いていて、温かいスープの椀は何時までも持っていたいような気がする。香りはローズマリーに似た良い匂いだ。
パチッと焚火が跳ねた。
ウスタージュはまだ帰って来ないし、ダヴィドとエルネスも不在だ。二頭の馬まで居ないとなると、あの二人が連れて行ったのかもしれない。
「セナ、口に合わないのなら残せ」
「…………」
慌てて紫シメジを口に入れた。とんでもなく苦い。
「…………もう止めておけ」
遂にお椀を取り上げられたが、口の中には苦いキノコが残っている。噛めば噛むほど苦い強敵の処理で、頭は既にいっぱいだ。星南は口を押えて俯いた。多分これは、吐くしかない。
「ったく、手間かけさせんな。拭き紙やるから、その辺で小便してこい!」
体良く星南を追い出す事に成功したフェルナンは、鼻を鳴らした。世話が掛かり過ぎる。それでもエルネスに、男とは違うんですよ、加減を忘れないで下さい、と言われてしまったのだから注意せざるを得なかった。どうやら、人目の無い場所では女扱いをするらしい。
絶対に、何時かボロが出る。
草陰からよろよろ出て来た星南に、フェルナンは疲れた視線を向けた。
「何処で転んで来たんだ…………」
「…………あまりに暗くて」
「泥くらい、自分で払って来いっ!!」
「はいぃっ!」
こいつを甘やかすなんて無理だ。フェルナンは足で焚火を崩す。その上に星南の残した汁物と、袋の砂をひっくり返した。広がる闇に、背後で悲鳴が聞こえる。けれど彼女は、その場を動いていない。見かけほど幼くは無いのだ。
もし、セナが黒色病であったなら。
何時発症してもおかしくない年齢だ。男であれば生き長らえる事も出来ただろう。黒色病の始まりは、黒点である子どもが血液を流す事と、深い関係がある。だからエルネスは真っ先に手を打ったのだ――――少女の発病は、初経でほぼ全員が死に至る。
そうなる前に。
人である内に殺してやるのが、せめてもの情けだ。
もしセナを手に掛ける役目が回って来るとしたら、きっと自分なのだろう。闇に沈む森の中で、僅かに胸が痛んだ。