3-14:言わせて
歌が聞こえた。
高すぎない女性の声に、誰だろうと目を開ける。キラキラ光る緑のワカメ、色鮮やかな魚たち。陽だまりを侍らせる黒髪の人が、歌詞を持たない旋律だけを口ずさむ。
「…………気がついた?」
滑らかな声が尋ねてきた。ギリシャ神話の女神さま、さっき見た人だ。星南はそこでやっと、自分は起きているのだと思った。
「はい」
ともかく返事をして、どこだろうと辺りを見回す。見覚えがある。食藻の間だ。
「…………あの、みんなは?」
「天人族の彼の事?」
「彼もですけど」
そもそも彼女は誰だろう。神装に黒髪だから、神人なのは間違いない。
「貴女に話す事があって。男達は閉め出したのよ」
うふふ、と肩を震わせる。茶目っ気のある仕草が可愛らしい、そんな和やかな人だった。怖くは無さそうだ。
「私、桂田 星南って言います。あなたの名前、聞いても良いですか?」
「オレアよ、オレアって呼んでね?」
「は、はい」
若干、押しの強さを感じたけれど、歳はなんだか近い気がする。細めの肢体に好感を持ち、星南はじりじり近寄った。オレアは暢気に歌い出す。非常にマイペースだ。
「あの、オレア?私に話す事って?」
「…………んー、祝福耐性を付けたわ」
「え?」
思わず彼女を二度見する。同年どころじゃない。この人は海王神の妻、オルタンシア・コラーユ・オレア・オデット・ロ・ド・バルリエだ。うっかり呼び捨ててしまった。固まる星南に、彼女は鼻歌混じりに続きを話す。
「貴女はまだ幼いけれど…………祝福を幾つか開放してあるの」
「…………それは、どういう?」
「水の血は、陸の血筋を惑わせる。だから、身を守る術を持たないと、ね?」
本能の何とかってやつだろう。他人事のように思って、左胸に触れた。なんか、ふわってした。オレアはニコニコ微笑むばかりだ。
「誰もやる気がないみたいだから、身体も少しいじっておいたわ」
なんだってー!?
シャツの襟を引いて覗くと、谷間があった。胸が、胸になっている!
「オレア、これは一体!?」
敬称呼びをすっかり忘れた。寝ている間に浦島太郎の状態だ。自分の身体に見覚えがない。しかも髪が一部分だけ異様に長く伸びている。改造された!!
「鏡は、鏡は無いですか!?」
「無いわね!」
そんなにキッパリ言わなくても!ともかく、あちこち触ってみる。太った気がする。チビは軽さが取り柄なのに!!
「心配しないで。他は特にしてないわ」
オレアは困った笑みを浮かべた。星南は女性を怖がると、フェルナンに教えられているからだ。不安にさせる事は本心でない。
「子どもの身体はね、大人が望む姿になるの。貴女が望むように、誰かにしてもらうしかないわ」
それは知っているけれど、金糸雀の誰にも頼めない。
「私、このままでいいです」
もう成長しないと、二十歳の時にさめざめ泣いた。自力でどうにか出来る希望があるのだ。恥を忍んで誰かを頼る事もないだろう。
「貴女が良いなら?」
どこか残念そうに彼女は笑う。常にニコニコしていて、それでも感情が分かりやすい。なのに近寄り難い雰囲気なのは、硬質な美貌のせいなのか。
「オレアは、珊瑚の君なんですよね?」
「ええ、そう呼ばれているわ。コラーユという色は、夫から貰ったの」
サンゴ色よ、とまた微笑んだ。既婚者の余裕というやつだろうか。星南の瞳に羨望が雑じり込む。愛し合う夫婦というものに、強い憧れがあるのだ。両親がそうだった。ベタベタしている訳じゃないのに、見ている方を照れさせる。些細な仕草、ふと見つめ合って微笑む様子。
――――名前をくれるかな。
そんな事を考えた。フェルナンは偽名をくれたけれど、隠さねばならない名前だ。呼んで貰えるハズもない。
「セーナにもいずれ、色をくれる人が現れるわ。さあ、祝福の使い方を教えてあげる!」
慈愛に満ちた表情でオレアは笑いかけた。やっと解放されたのだ。用事を済ませて、水中宮殿から逃げる算段をしなくては。星南はしっかり頷いた。
結界、祝福耐性と五つの祝福を得た。これで役にも立つだろう。明るい気持ちで扉を開き、食藻の間から飛び出すと、すぐにダヴィドに抱き止められる。来るのが分かっていたらしい。
「無事かセナ?」
「無事ですよ!そもそもエヴァに捕まったのは、ダヴィドさんのせいですから!!」
忘れてませんという顔で睨んでおく。綺麗な琥珀色の瞳は、みるみる丸くなった。
「――――瞳が青い」
「えっ!?」
祝福が使えるということは、水の血が少なからず開放されている、という事だ。ダヴィドの腕の中で、精いっぱい仰け反った。フランソワみたいに嫌がられたら、大変だ!
「ごめんなさい!私、血を封じられない!!」
「別に構わん」
広い胸に閉じ込められる。オレンジの髪が頬を滑って、なんだか少しこそばゆい。
「…………くすぐったい」
「くすぐってみるか?」
「ひゃあぁぁっ!!」
本当にくすぐられた。ぽかぽか肩を叩いて抗議する。まったくダメージにならない事を、お互いがよく知っていた。
「変わりはないな」
そのまま腕を伸ばされると、星南は爪すら届かなくなる。陸でやったら、たかいたかいの様相だ。くやしい。これでも推定、重くなったハズなのに!
「離して下さい」
「元気そうだな」
「もうっ!離してってば!!」
「八日も寝ていたが、気分はどうだ?」
「え!?」
驚き過ぎて頭の中が白くなる。二度寝で二日のオレアを、もう責めることは出来ないだろう。その前に八日だ。そんなに寝てしまうと、問題のある人が居るではないか!!
「フェルナンはどうしてます!?」
「四日前に起きたぞ?」
「おきた?」
「元気ではないが、起きてはいるぞ?」
「どういう事です?」
エルネスに毒を盛られたのだろうか。後ろめたい気分で聞くと、ダヴィドは仕方の無さそうな顔をした。
「水都の祝福石に、仮の名は載せたくないそうだ。それでエヴァの気泡に、ずっと閉じ込められている」
泡の中に居るのなら、ともかく溺死はないだろう。だったらやる事は一つだけ。
「ダヴィドさん」
「なんだ?」
「離して下さい」
「つれないぞ、セナ…………」
「フェルナンに会わせて下さい」
残念そうな顔をしても、気にしないフリだ。深追いすると痛い目をみる。からかわれている暇はない。やれやれというダヴィドの雰囲気に、星南は苦笑した。
「心配させて、ごめんなさい」
「…………セナはいい子だな」
まったく、すぐに子ども扱いだ。ムスッと拗ねた顔をして、星南はバタバタ暴れた。明るく笑うダヴィドに募るのは、やるせなさと悔しさだ。
「もう離して下さいっ!」
「一人で泳ぐか?」
後は自分の不甲斐なさ。子ども扱い、甘んじて受け入れます。奥歯がギリギリと鳴ったのは、致しかたない。
感知の範囲に現れた気配で、星南が目覚めた事に気が付いた。フェルナンは書類の束から視線を上げる。少し安堵の息がもれて、それでエルネスが気付いたらしい。扉を開けに泳いで行った。
「セーナ」
最初に彼女を呼ぶあたり、実は気に入っているのかもしれない。どうも深読みしてしまう。眉間にギュッと皺が寄る。エルネスはあれで女嫌いだ。気に入るなんてあり得るのだろうか。
「エルネスさん!」
思念語は耳に直接届く。続いて聞こえた穏やかなエルネスの声に、幼い頃は騙された。此方に来るまで無視しようと思っていたのに、ついフェルナンは首をひねった。もみくちゃ状態の星南が見える。
「あっ!フェルナン、大丈夫!?」
自分の事を心配しろと、眉間の谷が深まった。その二人に好かれたら、碌な事しか起こらない。それだけは身をもって証明できる。
「ちょっと離れて下さい!作戦会議するので、フェルナンと二人にして!!」
「なんだセナ、俺は除け者か?」
「エルネスさん、ダヴィドさんを監視してて下さい!覗かないように!!」
「ダヴィドは信用を無くしましたね。良いですよ、同じパーティーのよしみです」
フェルナンは書類を手放した。何故エルネスが味方なんだ?
「上手くやりなさい」
物言いたげな眼差しに射ぬかれる。苦笑を浮かべたエルネスに、なんだと小さく安堵した。彼は釘を刺したのだ。パーティー内の人間関係に気を付けろと。星南を噛んだからには、後始末もそれなりにある。
けろっとしている星南を見て、頭を振った。
関係修復も何も、真剣に悩んだ事が馬鹿らしい。それくらい彼女は変わらなかった。だからパン屑頭なんだと、フェルナンは眉間の谷をぐりぐりと揉む。
「フェルナン!」
二つの気配が遠ざかる。一人で泳いで来る星南を視界に捉え、一瞬、目を奪われた。透き通るような青い瞳だ。
「フェルナン、大丈夫?」
「お前は大丈夫なのか?」
「大丈夫!」
胡乱な目になった。一体、何に対して大丈夫なのかと、問いただしてみたいものだ。
「身体は辛くないか?」
「…………多分?」
何故に疑問形。フェルナンは仕方なく、言葉を噛み砕いた。
「傷が無くても、痛みは残る事がある。肩は痛くないのか?」
「大丈夫だよ。心配、なの?」
容赦なく噛んだ癖に、と星南は顔をしかめた。予告もなく初めてのキスまで奪っておいて、今更どうしたのだろう。真面目に心配されると、変な気分になる。
まるで、本当に心配しているみたいだ。
「心配したら悪いのか」
「そんな事、言ってないけど」
「…………けど?」
なんで追及してくるの?
星南は口をつぐんだ。このまま話して、うっかりお断りの言葉を聞いたりしたら、きっとしばらく浮かばない。それはとても困るのだ。泳げないし浮かないしでは、足手まといに逆戻り。しかし色好い返事も何だか怖い。
「ともかく!フェルナンは、どうしたらそこから出られるの?」
「エヴァの気分次第だな」
「絶望的だよ…………」
「言うな」
「だってエヴァ、フェルナンを出したくないって言ってたよ?」
「それはダヴィドさんだって気付いてる。なのにまだ、エヴァの肩を持つんだ」
「なんでかな?」
「理由があるんだろ?」
フェルナンにすら、ダヴィドは答えを教えなかった。僅かに洩れて、エヴァに伝わる事を恐れたのだ。離れていた二つの気配が近付いて来る。もう時間切れか。
「ダヴィドさんが戻って来たぞ。此処に居ても、星南に出来る事はない」
「祝福石に、名前書いたらダメ?」
「絶対に駄目だ」
「ダヴィドさん達みたいに、色冠抜いたらいけるかもしれないよ?」
「駄目だ。そもそも色冠がない」
星南は唇を噛んだ。フェルナンを閉じ込める泡に両手を突いて、すぐにエヴァの気配を追っていく。まるでそうされる事が分かっていたように、振り向いたエヴァに微笑まれた。
余裕の態度が気に入らない。
「やめろ星南。此処から出ても陸はない。また酷い目を見るだけた」
「でも…………」
「暇なら、ダヴィドさん籠絡してこい」
「…………なんで?」
あまりの良い様に、星南はじとっとフェルナンを睨み付けた。
「あの人がエヴァの肩を持つ間、俺達に勝ち目はないぞ」
「俺達に勝ち目は、ない?」
都合の良いところを反芻する。口はへの字になってしまったけれど、僅かな望みが嬉しくなった。合同作戦は続行中だ。
「具体的にどうするの?」
「甘えてこい」
「…………うーん、甘えにくいよ」
「寝言を言うな。あの人はお前に、甘えられたがってる」
そこが問題なのだ。星南はもう一度唸った。
「甘えてくる人に甘えるのって、難しいと思わない?」
「ダヴィドさんが何時、お前に甘えたんだ?」
「いつも抱っこなの、見てるでしょ?」
あれのドコが甘えているのか。甘やかされている場面だろう。フェルナンは扉の外に意識を向けた。入って来るつもりは無いようだ。
「…………あのさ、大人になってから、気付いたんだけどね。親って子どもに凄く甘えるんだよ。アレしてとか、やってくれる思った、とか。そういうヤツ」
「自分でやるのが面倒なだけだろ」
フェルナンの知る限り、唯一月桂樹がそのタイプであった。事例が少な過ぎる。溜息をつくと、星南はどうしても甘えるのが嫌なようで必死の形相をしていた。
「違うんだよ。そういう事言っても許されるって分かってるから言うんだよ。ダヴィドさんは、私がしてって言わなくても抱っこでしょ。嫌だって言われないって、思ってるからするんだよ!」
「気心知れてるって言え」
「知れてないよ。私はダヴィドさんに甘えにくいもん」
「めんどくせぇ…………甘えたい同士でくっついてればいいだろう?」
フェルナンひどい。ともかく籠絡は無理な相談だ。万が一落ちて来られても困る。
「…………甘え方を知らないなんて言い訳、聞かないからな」
「なんかひどい」
「俺に言うな」
扉からの水流に、星南が僅かに流された。どうしよう、と青い瞳が訴えてくる。ひとりにさせたら、余計な事をするだろう。それが、彼女の為にならない事かもしれない。
未だに、星南は理解しきれていないのだ。
危うくて幼い。だから色使いなんかに好意を寄せる。
「ダヴィドさん、星南は甘え足りないそうだ」
「えっ!?」
星南はぎょっとフェルナンを見た。素敵な笑顔だ。味方に売られた!
こうなったら一人でどうにかして、ぎゃふんと言わせてやる!!




