3-12:修復
子どもから色の提供を受けてはいけないと、一番最初に教わった。それを忘れた訳ではないが。
すっかり腕一本でどうにか出来ると思っている星南に、腹が立ったのは確かだ。いそいそと袖を捲る姿。引き寄せれば灰色の瞳が丸くなり、少し襲うと怯えて泣きそうな顔をする。
抵抗しろ。
だから心配なんだ。苦い気持ちが込み上げた。細い身体は小さく薄く、そして幼い。止めろと頭の中で叫ぶ自分に、フェルナンは自嘲を浮かべた。
誰が安全な男だと?
色使いは飢えを知ってる。だから差し出されれば、選り好みなく食らうのだ。手を出さないと本気で思ったエヴァが悪い。
一度きり、一度きりだ。
星南に無理を強いる、最初で最後。この機にしっかり教えなければと、心の中で強く思った。色の提供は苦痛であると。二度と自ら差し出さぬように。
「星南」
涙の滲む曇りの瞳。無理やり引き上げられた体温に、顔はうっすら赤かった。相当痛い事は知っている。しかし背中に落ちる色は、まだ十分に赤いままだ。
「お、おわり?」
色の中身が不足している。苦痛の他にある筈の、恐怖が何処にも存在しない。やり直しだ。フェルナンは歯噛みした。無駄に厚いこの信頼は、一体何処から来てるんだ!
「やる気あんのか!?もっと真面目に考えろ。じゃなきゃ怖がれ!」
「えっ!?」
再び顔を寄せられる。吐息が触れた肩に、びくりと星南は逃げようとした。けれど逃がしてもらえるハズもない。痛みがもう一度、肩口に突き刺さる。
「あっ!」
身体に火がつく。熱いものが、皮膚の中を逆さに巡る。決して触れられない内側を、羽が撫でるように。知らないものに追い詰められる。
「…………っ!」
必死に堪えたのは悲鳴か痛みか、それとも意味なき声なのか。星南はフェルナンのシャツをぎゅっと握った。恐怖はない。好きな人の腕の中。怖いなんて思えなかった。しかも役に立てれば、二度美味しいというものだ。
「フェル…………っ」
噛まれるだけではダメなのか。痛くて思考が霧散する。
「…………ふぇるぅ」
イヤとは、口が裂けても言えない言葉。身体の震えは止められず、だんだん鼻声になってくる。情けなくて悲しくて。役に立たない自分に、泣きたくなった。平気だよって安心させたい。なのに、大船どころか泥船だ。色が足りないと囁く声に、星南の胸は傷を負う。
泣いたら彼は止めるだろう。今だってきっと加減されている。そんな気がした。
「フェルナン、ぜんぜん怖く、なっ!」
深い痛みに冒される。ズブズブと身体の奥に沈み込む。悲鳴も出せない激痛なのに、手足は自由を失って、ぱたりと床に波紋を描いた。視界が霞んで彼が見えない。
背中に落ちていく、生暖かいもの。
まるで不要だと言うように、幾重にも流れていく自分の一部。役不足なのだ――――不安と悲しみが増していく。期待に応えられない。まざまざと示されている気分になった。助けになれない。何も出来ないのだ。
彼女の色は泣き出す前の、陰った空の色をしていた。
その後の星南といえば、ひとしきり泣いて、不甲斐なさを胸の中で罵った。しかしフェルナンに止血される頃には、気持ちも落ち着き…………落ち着き過ぎて、逆に据わりきって凪いでしまった。
心の色が不足したのだ。それが重要だと、ちゃんと知っていたのに!
「お前はガキだ。色の提供には適さない」
「…………はい」
「二度とやるな」
「…………」
「返、事っ!」
しかしそこは譲れない。
「もう一回!もう一回お願いします!!」
「なんだと?」
フェルナンの目付きが鋭くなった。けれど少しは慣れている。
「もっと頑張る!だからもう一回して!!」
「何でそうなる!」
「足りないって言った!!」
確かに言ったが。
フェルナンは額を押さえた。エヴァの干渉を目論み、わざと星南が舐められない場所を噛んだのだ。それで治癒が出来てない。傷の深さは、よく知っている。どうしろと言うのか。
「また、泣かされたいと?」
「泣いても死なない!」
「泣いて死ねるかッ!!」
このパン屑頭は、何処に恐怖を置いてきた!平和は人を馬鹿にする。星南から学んだ、数少ない事だ。
「嫌だからな、俺はもう噛まないぞ」
「他の方法、あるんでしょ?」
誰が教えた。
その事実に、フェルナンの頭の血は音を立てて降下した。他とは精神の色。涙や唾液、汗にも少し色が乗る。あくまで少しだ。血液以上にはならない。
しかし、濃厚な快楽と欲望を提供できる専門職や、色使いを相手にする経験豊富な熟練者。そうした者は、命の赤より赤い色を作り出す。角や牙は、他者から色を奪う為の器官だ。
既に怪我をした星南なら、もう噛まずとも提供は受けられる。
いや違う。何を考えているんだ。
額を押さえた。精神の色なんて、子どもが差し出せる筈もない。
「血の色すら管理出来ない癖に、寝言言ってんじゃねぇよ」
「そんな事言って、フェルナン顔色悪いじゃん!」
色白で痩せ型。更に髪まで白っぽい。眉間のシワは、いらないオマケだ。全体的に健康には見えない。それに、役立たずで終わりたくはなかった。
「色不足は発狂するか、死ぬって聞いたよ?」
「そこまで足りない訳じゃない」
「エヴァに、何をされたの?」
「術式負荷をかけられた」
出した色の量で威力が決まる。色術式はそういうものだ。エヴァは、当然知っている。展開中の術式に干渉して、わざとフェルナンを色不足に陥れたのだ。
「いきなり海底に引き込まれた。生身で受けたら、それこそ死ぬ」
吐き捨てる横顔には、悔しさが滲んでいる。せざるを得なかった。死んでなどいられない。
「だったら尚更、私が出来るようになればいい!」
「な、に、が、尚更だ!」
「だってそうでしょ?フェルナンと一緒にしても、私は役に立たないって、そう思ってるんだよ」
痛む肩口を星南は無視した。役に立ちたい。何かを成せば、なんとかなるもの。可能性を前に尻込みして、後悔するのはもうイヤだ。
「出来る事をしようよ!一人じゃなくて、二人居るんだよ?」
何故フェルナンは嫌そうなのか。異性であれば効率は良いハズなのに。胸が痛んだ。子どもだからか、それとも一度目を失敗したからか。
「役に立ちたい。そう思っちゃダメなの?」
「…………噛まれてどう感じた?嫌じゃないか?」
「イヤじゃない!」
二色の瞳を窺うと、安定の不機嫌顔だ。
「イヤな方が、いいの?」
つい本音がこぼれ出る。
「どう感じたか、言ってみろ」
「どうって言われても…………」
痛かった事。全てはそれに尽きる。その他と言えば、熱くて苦しかった事かもしれない。終わってしまうと、記憶はひとつに集約されて結論となる。
「痛かっただけ」
だから子どもは嫌なんだ。フェルナンは過去の失態を思い出す。初めて噛んだ相手はエルネスだった。彼は穏やかで優しい印象をぶち壊す、深い孤独の海を抱えて、表面だけで明るく笑う。それを知った出来事だった。
「子どもには逆負担です」
エルネスが言うには、曖昧な色しか持たない子どもを噛むなら、負担を追わせればいいらしい。感情の色を一方的に流し込み、同じ色に心を染める。そんな色を奪うのだから、噛む側の負担は当然無いのだ。
それを星南にしろ、と?
好きだと言われて、嬉しかった。エルネスが幼い自分を育てたように、彼女を導くつもりで――――思いの外、大切にしすぎたのかもしれない。
ダヴィドが言うには星南は良い子。つまり色々抜けている。エルネスが言うには、可愛らしい性格だとか。御しやすい、そういう残念な意味だと本気で思っていた。好意の誇示だと何故、今になって思うのだろう。
「…………この、パン屑頭」
「ちゃんとミソが詰まってます!」
なんて色恋に無縁の表情をするのか。これをどうしろと。
「俺の色が回復しても、神人の空間祝福を壊せる手立てはない。腹が減ったなら寝ろ」
「減ってない!」
「騒ぐな」
言えばガシッと、フェルナンは肩を掴まれた。お互い座り込んでいるのだ。今日ばかりはそこを掴める。
「エヴァをぎゃふんと言わせましょう。協力すればできるハズ!」
「お前は何をしたいんだ?」
「…………あ、あれ?」
駄目だ。真面目に考える方が馬鹿を見る。
「四日は絶対に出られない」
「それは何となく分かるけど」
「分かるのか!?」
彼女は腐っても神人だ。可能性はある。フェルナンは腕を組んだ。多少は役に立つかもしれない。
「他に何が分かる?」
「この床の水、私には浸透するの。フェルナンははじくけど」
でもね、と彼女はためらいがちに頭をフェルナンの肩へと寄せてくる。
「噛んでた時は、フェルナンにも少し浸透したよ」
「この祝福に、干渉できるか?」
「どんな風に?」
「エヴァへ辿れるのか?」
「それってダメなんだよね?」
腕を掴んで身体を離す。不満そうな灰色が、ムスッとフェルナンを睨んだ。
「エヴァは星南を害しはしない、やってみろ」
言われて瞳を閉じると、床の水に意識が動く。星南の前に暗闇が広がった。その下は何も無い空間だ。壁は固いとしか分からない。外側へは出られず、真上を探ると糸のような細い道筋が見える。そこを伝ってみた。
何処からかダヴィドの声が聞こえる。一気に上えと駆け昇って、広い場所に弾き出された。
「星南」
彼は独り言のように、壁に向かって話しかけていた。海宮のどこかの部屋みたいだ。
「フェルナンの色を回復するな」
目を見張る。ダヴィドさんと星南の声は響かなかった。
「フェルナンを回復するな」
酷い違和感を覚えた。だって祝福の気配を追っていたのに、彼が見えるハズがない。一気に身体へ星南は戻る。見えた事を話すと、フェルナンも同じ意見に渋い顔をした。
「エヴァの幻か」
「ダヴィドさんが、星南ってちゃんと発音するとは思えない」
「…………そこかよ」
重い溜息を吐いた。本格的に、彼女から色を奪わねばならないようだ。
「星南」
唇を引き結び、丸みのある顔がフェルナンに向く。悪い事をする。そういう気分だ。
「…………また泣かせる」
懺悔のように、しかし不思議と甘いもの。頬に手を添え、親指を目元に滑らせた。嫌な思いをさせたくない。それと同時に、白い雪を汚してしまう高揚感が確かにあって。
「許せ」
後戻り出来ない。顔を寄せると、ギュッと瞳が閉ざされる。了承と見なして唇を奪った。震えた身体を抱きしめ、どうしてやろうかと思案する。
なすすべを知らない、柔らかな唇。ひとひら吸い寄せて甘噛みすると、やっと力が入って強ばった。
言い出せなかった。精神の色がどんなものかを。どんな風に煽るのか。それを言葉にして、澄んだ瞳が曇るのを、きっと何より見たくなかった。
「っん…………」
震える呼吸が頬を掠めて、吐息に喘ぎが混じりだす。もう止めなければ、と頭の隅で考えた。けれど止めたら二度目はこない。フェルナンは瞳を開いた。
星南は知らない。
この行為の先に、何が待つのか。だからほくそえむ。口付けを解いた瞬間、彼女は空気を求めるだろう。
「んぅっ!」
悲鳴は彼に食べられた。口に招き入れたのは、酸素よりも熱いもの。それが歯裏をなぞり、逃げる術を知らない舌を絡める。
フェル…………!
涙が滲む。苦しくて恥ずかしくて、顔が熱かった。そして、悲しいほどに嬉しいという真逆の気持ち。
どうして、と疑問が頭を過る。
片思いを、知っているから?それともまさか、舌を噛む気だろうか。
分からなくて恐い。
けれど彼は、好きな人だ。
初めてのキスが突然でも、終われば嬉しい思い出になる、多分。どうにか落ち着こうとしているのに、僅かに残る理性を乱すよう、零れた唾液をズッと吸い取られた。やっと解放された唇は痺れていて、荒い呼吸に言葉が出ない。
「星南」
耳許で囁く声に肩が跳ねる。熱い息が耳朶を撫でて、次にされることに気が付いた。
「やぁっ!」
身体をよじる。どうしてと聞く理性は、欠片も残っていなかった。後ろ頭を押さえられ、ゆっくり耳が食べられていく。ぞわぞわとしたものが腰から這い上がって、それをどうにかしようと、首を振る。小さな悲鳴を上げ続ける唇を、もう閉じる事が出来ない。
…………なんで。
流し込まれる熱い息、濡れた音。耳がおかしくなりそうだ。それでも、抱きしめられている今は幸せで。
すきなの。
上がったままの呼吸が、もはや苦しいのかさえ分からない。
名前を呼ばれたけれど、答える余裕も、気力も絶えていた。一思いに噛んでくれたら良かったのに。八つ当たりのように思う。彼に求められるなら、娼婦でさえ羨ましいと嫉妬した。
だから…………
やめてと言えない私は、ズルいのだ。
それでも、うなじに口付けられ首筋を辿って、彼の顔が肩に埋まると、乱れた気持ちの中に現実という冷たいものが流れてくる。
なんで?
なんで、そこにキス出来るの?
神への願いを着ているハズだ。首に触れる事も、ましてや肩なんて脱がされない限り服が…………服は!?
「フェ、フェルっ!」
「細いな」
今度こそゾッとした。また肩なの?どうしてこんな事をするの?目を開くと、鎖骨辺りに口付けるフェルナンが見える。はだけた服が、辛うじて胸を隠していた。
「…………っ!」
「痛くないように、してやるよ」
嘘だ。噛む癖に!
暴れた腕を掴まれ、肩に痛みが走った。多分、凄い悲鳴を上げたと思う。
「星南」
じゅるっと生々しい音が聞こえてきて、飛んでいた意識がうっすら戻る。鋭い痛みが熱へと変わり始め、それが肩から腕、胸、腰へと広がり、全ての力が抜け落ちる。
「やっ…………!」
言いそうになる否定の言葉。それを咄嗟に噛み締める。必死に震える指を伸ばした。絶対に言うもんか。僅かも乱れていない彼の服。細いと思っていた肩を掴んで、爪を立てる。
恐い。痛い。
すき。
すき 、なのに…………っ!
もう言えなかった。失恋が恐いから。少しでも長く傍に居たいから。声を聞けるだけでいい。だから、好きとは言えない。
でも、すき。
身体を内側から撫でられるような、変な感じに鳥肌が立つ。とても苦しい。言えない言葉が喉につかえたように、苦しくて辛くて。でも求められた今は、幸せだった。涙が頬を滑って落ちる。
「くっそっ!」
悪態と共に舌打ちが聞こえた。続いて痛み。今度は我慢出来た。なのにガクンと身体がのたうって、一瞬意識を手放しかける。
「このお子様め、痛い方で我慢しろ!」
えっ?
思った声は出なかった。再び突き抜けた強烈な痛みに、感情がごちゃ混ぜになる。すき。愛しい。怖い。淋しい。何度か痙攣を繰り返し、星南は瞬く間に気絶した。
「ふざけんなよ…………」
傷口をきつく吸い上げて止血したフェルナンは、床を力任せに殴った。
すき。
血と同じ赤い色。欲の三原色のひとかけら。それがどうして、こんなに清いものなのか。
やめてくれ。
俺は道化かチビ助め。悪態を噛み締めて、額を押さえる。好きだと分かってる。応えられないのも、星南の思いが淡いのも。ぐったりとした彼女を抱き締めて、このまま目覚めなければいいと思った。もう修復は不可能だ。




