3-8:救い
海を統べる神様の強力な結界。
それが水面に横たわる。何かを囁く複数の声に思考が乱され、気配が上手く掴めない。もっと探ろうと意識を向けた時、髪に隠された黒い瞳がコチラを向いた。
「…………!」
背筋が冷える。まさか気付いたのだろか。祝福の気配が強すぎて、頭がくらくらしている。気のせいかもしれない。だって、ひとりで維持するには広すぎる結界だ。星南は苦し気に、胸を押さえた。
役に立ちたい。
誰かの為に何かしたいと、それはきっと言い訳なのだ。伸ばす手は届かないのに、掴めないのに、何かをやった気分にさせる。
「…………うぅっ」
気分が悪くて朦朧とした。でも諦めたくない。やめてしまったら、絶対に後悔してしまう。出来る事くらいはやり遂げたい!せめてそれくらいは!!
パシッと伸ばした手を掴まれた。急速に意識が身体へ戻る。閉じていた瞳を開くと、フェルナンの怖い顔がまじかにあった。
「なにやってんだ…………!」
様子が変だと腕の中の彼女を見たら、青ざめた顔で手を伸ばしていたのだ。祝福に当てられている。なのに近付こうとはどういう事か!
「自分で近付くヤツがあるか!!」
「あっ!」
底へと身体が沈む。結界が遠くなり、まだどこかにあった泡の粒が上へと揺れ昇っていった。遠い水面。届かない距離。手を伸ばしても掴めない、眩しいばかりの光のヴェール。
「フェルナン…………!」
水の中は嫌いだ。悪い事ばかり思い出す。目を瞑ると瞼の裏で溺れた記憶が再生された。けれど水は冷たくないし、触れる暖かな体温が独りじゃないと教えてくれる。
――――フェルナンは。
優しいのに優しくしない。まるで、飴と鞭を使い分けられてるみたいだ。うっすらと開いた瞳に、銀糸のような髪が流れているのが見えた。
「戻ってフェルナン!」
「駄目だ」
否定の言葉と裏腹に、ゆるく抱きしめられる。あやすように、励ますように。彼は何も言わない。言葉にされたら言葉で反論する事を、きっと知られている。
「…………俺が気付けば良かった」
ずるい。何も出来ないと後悔まっさだ中なのに。そんな事を言われたら、誰かのせいにしてしまう。無力なのは自分のせいだ。甘えてきた私のせい。
「戻ってフェルナン。いくら神様でも、あんなに広い結界を一人で維持できるハズないよ」
「そんな事は分かってる」
祝福の気配って、神人じゃなくても読めるのだろうか。無理したのがバカみたいに思えた。結局、一人で空回りしただけかもしれない。
「何で落ち込む?」
「…………だって」
「だって、何だ?」
「ごめんなさい」
役に立ちたい、何かしたいと思うのに。どうして上手くいかないのだろう。
「すぐ謝るな。理由を言え」
「…………それは」
しかも墓穴を掘ってしまった。何を言っても怒られる未来しか見えてこない。ちょっと優しかったから、油断した。
「神人なのに、役立たずで」
「それで?」
フェルナンは絶対怒ってる。声が何時も以上に低いのだ。怖くて顔が見られない。星南は俯いた。
「結界の気配を追ったら、役に立つかと思って。でも、海王神までしか辿れなくて」
「そんな事が出来たのか」
驚いた声音に、思わず顔を上げる。失敗だった。
「――――お、ま、え、は、海王神にケンカでも売る気か!?俺の前で死んだりしたら、どうなるか、分かってるんだろうな!」
「ハイっ!」
あまりの剣幕に、短い言葉が滑り出る。けれど意味が分からない。嘘を付いてしまった。
「待った今の取り消し!よく分からない!!ケンカって何!?」
フェルナンは額を押さえた。彼女に何かを期待している自分が、馬鹿らしくなる。教えていない事を、知っている筈がない。
「術式の気配を探るって行為は、相手が高位の場合、確実にバレる」
目が合ったのだ、バレているだろう。星南はそっと視線を逸らせた。
「それを基本、挑発行為というんだ」
「そんなつもりじゃ」
「相手が高位なら、その場で誰の術式か分かるもんだぞ。まぁ、色術式の話だけどな」
海底に降り立って、フェルナンは水面を見上げた。
「何もないって事は、見逃されたんだ。あの結界は俺達には破れない。見透かされてんだよ」
「出られないの?ずっと水の中?そんなのイヤだよ…………!」
「俺だって嫌だ。文明遅れの水都暮らしなんて、生き地獄だぞ」
水の中だから紙がない。それで情報が滞る。話しの行き違いはよくある事で、過去の出来事さえ曖昧だ。記録が正しく残らない事を、誰も不思議に思わない。
ダヴィドから聞いた通りの、五百年前の暮らしが水都では続いている。
「エヴァに相談するの?」
「十中八九、アイツは敵だぞ」
まぁ、そうだろう。敵に回したく無いけれど、こんな事が出来そうなのはエヴァだけだ。
「青石の国の結界を越えた後、俺は名前を聞かれたんだ」
「今さら?」
確かにおかしい。普段はフェルなんて、親し気に呼んでる。改まって名前を聞く必要は無いハズだ。
「帝国籍じゃない、聖国籍の方をだ」
「帝国籍じゃダメだったの?」
フェルナンは聖ネルベンレート王国の生まれで、帝国で育ったと聞いている。昔は本当に可愛かったのにと、愚痴のようにエルネスが溢していたのが星南の記憶にも新しい。
「俺の姓はヴィレール・ヴェルデ。血筋も正統性も、大体それで問題無いんだ。聖国籍なんて母親くらいしか呼ばないぞ」
母親と父親の姓を並べるのが、この世界の常である。ヴィレールは母の姓、ヴェルデは月桂樹の君の姓だった筈。
「何か問題があったのかな?」
「…………星南は今までに、自分の名前をどこまで詳しくエヴァに教えた?」
「えぇっと」
彼は何でも興味を持った。鎖国の国から来たから、そういうものだと思っていたけれど…………
「漢字教えちゃった。日本の文字だよ!」
「決まりだな」
「何処かに、私達の名前が刻まれてるの?」
「水都の加護に登録する為には、正しい名前が必要だと言われたんだ。まず、それを探す」
墓地から街へと移動して、建物を調べたり痕跡を探してみる。けれど、なしのつぶてだ。あまりに範囲が広すぎる。
「此処の中心部にある事は確かなんだ。空間祝福の類は、半球体になる事が分かってる」
「でもエヴァは球体だよね?」
「地面の上で発動させたら、嫌でも半球になる、あいつは規格外だ」
「…………ねぇフェルナン、ココの中心って」
広場があってエヴァが居る。八方塞がりだ。こうなる事を知っていて、初めからあの場所に居たのだろうか。
「どうにか調べられないかな?」
「調べる事は、多分できる」
「じゃあ!」
フェルナンは厳しい表情で首を振った。
「そこで俺達が知った事を、ダヴィドさんやエルネスさんに言ってみろ。どうなると思う?」
「…………まさか」
何時までも一緒でラッキー、なんて到底思えない。星南は奥歯を噛み締めた。人質も同然だ。
「知っただけで出られなくなるの?そんな事が出来るもの?」
「水の神人は、記憶に干渉する祝福が多いらしい。俺も詳しくは知らねぇよ」
ダヴィドさんは皇族だ。一生帰れないなんて、許されるハズがない。協力すら仰げないのに、もう手立てが思いつかなかった。
「どうしたら…………」
「お前は最悪、エヴァに泣き付けばいい」
「フェルナン!」
非難の眼差しを向ける。一緒に出られなければ、ずっと後悔するだろう。神人は死なない。そんな辛い人生は御免だ。
「他に方法があるハズだよ!記憶なんて曖昧なものに、自由を奪われてたまるもんか!!」
「むきになるな」
ぽんと、頭に手を乗せられた。温かくて大きな手。それをずっと前から知っている。
「まずはエヴァを出し抜く。俺達が水の外に出られない事を、知られていなければ上々だな。上手く誤魔化すぞ」
「うっ…………!」
妙な返事をした星南を、フェルナンはジト目で覗き込んだ。彼女は非常に顔に出やすい。
「だ、代案を」
「言ってみろ」
「…………ええと」
演技は苦手だ。嘘にも隠し事にも向いてない。せめてどちらか一つでなければ、とても出来ないだろう。足を引っ張りたくないのに、このままでは失敗だ。百歩譲って、フェルナンだけは水から出したい。
恩人なのだ。たとえ二度と会えなくなっても。
そんなのはイヤだと、心が叫んでいる。星南は胸を押さえた。私達は平等じゃない。お互い全然違うのに、同じふるいに捕らわれる。
「フェルナン、私って戸籍があるの?」
「そんなもの…………」
無いのだ。少なくとも、帝国と聖国にはない。この国にあったとしても、本人が知らない状態だ。名前は血筋を示す重要なもの。普通は偽らない。
「偽名を作れば良いんじゃない!?」
「それが本物になれば、可能性はある!」
黒い魚を見たという記憶が鍵でも、対になる名前の登録が無ければどうなるか。
「俺の偽名を考えろ、ニホン語でだ」
「えっ!」
その顔で日本名が希望なの!?
「画数の少ないやつにしろよ、星南はセレスト・オレリアって名乗れ。スペルはこうだ」
彼は砂の地面に、すらすら指で文字を書き出した。星南もしゃがみ込んだが、十四文字もある。とてもすぐには覚えられない。
「フェルナン長いよ、もっと短く!」
「文句言うな。そっちはどうした?」
頭を抱える。偽名なんて、すぐには出てこない。日本史の授業を思い出してみるものの、卑弥呼は女性だ。安倍晴明はそれっぽいけど画数がある。戦国武将は短命そうだし、歴代総理もしっくりこない。
だいたい日本に、銀髪がないのだ。
代わりに白髪で有名となると、お化けか妖怪。それで画数が少ないやつ。そんなの居たっけ?
「あ、水木しげる、ってどう!?」
言ってはみたが、似合わな過ぎる!呼ぶ度に腹筋の強度を要求されそうだ。
「呼びにくい。ミズキ エルにしろ」
「エルなんて漢字無いよ!それにエルネスさんと被っちゃう!!」
「丁度いい。星南がいきなり、違う呼び方にする方がおかしいぞ」
じゃあ、フェルナンは違う呼び方でも良いのか。納得は出来ないけれど、星南は渋々漢字を書いた。水木 月。エルとは読めないが、ルナと読む先輩ならいた。もうエルになって頂こう。
「次のステップだ。行くぞ、リア」
「え?」
「オレリアの愛称は、リアだ」
「えっ!?」
リアという名が、急に甘みを持った。愛称って、愛称って…………!!
「長いと嫌なんだろ?それで我慢しろ」
「で、でも!」
「リア」
は、恥ずかしい!口の中がもぞもぞする!!なんで呼ばれる側の歯が浮かなきゃならないの!?
「オレリアじゃそのまんまだ。直ぐにバレるぞ」
「だからって!」
「星南の愛称で呼ばれたいのか」
「えぇっ!?」
無いよ愛称なんて!いや、ここは聞いておくべき!?
「星南はこっちの字で書くとセーナ、最期のアの音は残して…………」
いや待ってフェルナン、そんなの真面目に考えてくれなくていいから。星南は止めようとしたが、閃いたらしい彼とばっちり目が合った。にこりと二色の瞳が細くなる。
「シア」
「…………リアにして下さい」
なんだか顔が熱い気がする。愛称なんてやっぱり無理だ。大体なんの愛なのか。ともかくフェルナンには聞けない。
「気に入らないか?」
「そういう問題じゃありません」
「ならシアで決まりだな」
「リアでしょう!?オレリアのリア!」
「セレストの方も忘れるなよ?行くぞ」
くそぅ、面白がって!星南は悔し紛れにフェルナンを睨んだ。
「エルこそ漢字覚えたの!?」
「頭の出来が違う。リアこそ書けるんだろうな?」
「…………いや、それはちょっと」
「練習しろ、今、此処で!」
スペルの暗記には時間がかかった。隣でフェルナンが色々話しかけて来るからだ。もちろん今後の作戦なのだけど、おかげで文字が頭に入らない。文句を言うと、寝てても書けるようにしろ、なんて無茶な事を言われた。
日も少し傾いて、広場に戻る事になる。星南の頭は色々なものでいっぱいだった。ダヴィドとエヴァはまだ話し中で、暇だったらしいエルネスがすぐにやって来る。
「遅かったですね、何かありましたか?」
「エルネスさん、あの…………愛称ってなんですか?」
「愛称、ですか?」
彼は問うようにフェルナンを見た。それでリアと呼ばれる。
「愛称つけられました」
シナリオ通りだ。フェルナンは嘘を付かなくて良いと言った。漢字はどう頑張ってもエヴァには分からない。エルネスも、リアが星南の愛称ではないと気付いたようだ。
「エルが」
そう言ってフェルナンを見上げる。
「エルネスさんに、愛称の事を聞けって」
「成程」
これだけで、どこまで分かってくれるのだろう。穏やかに微笑む彼は、何も困っていないように見える。
「では――――私の事はニア、ダヴィドをアドと呼びなさい。エヴァには何と呼ばれたいか、聞いてみると良いでしょう」
「エルネスさん、そうじゃなくって!」
「ニアですよセーナ?それとも、愛称でお呼びしましょうか?」
「止めてください!!」
「貴女の愛称は本来なら、エナかシーナ」
エルネスは目線を合わせるよう腰を折った。逃げたいのに背中をフェルナンに押される。やめて、ココは庇うところだよ!?
「小柄で可愛らしくて少しお転婆。セーナに愛称を贈るなら、シアというのは如何です?」
「お願いですから、リアにしてクダサイ」
頬の肉を攣りそうだ。愛称は要するにあだ名、それも普通のあだ名じゃなくて…………なんかそういうものを込めて呼ぶもの。クスクス笑うエルネスに、遊ばれている事などよく分かる。たかが名前だ。しかも偽名。
「それでリア?貴女の話には続きがあるのでしょう?」
星南はムスッとしたまま、詰め込まれた台本通りの問いを返した。水中なのに喉が渇く。妙な汗が背中をずっと流れてる。恥ずかしがりながら愛称を呼ぶから、エルネスとフェルナンには生暖かい目を向けられたままだ。
「に…………ニア」
「はい」
エルネスさん楽しそうじゃないか。ダヴィドさんなんか、もっと面白がるに違いない。
「違う呼び方ないですか…………」
「仕方ありませんね。大体分かりましたから、エルで許してあげましょう」
「分かったんでっ」
言いかけた唇を指で押される。まん丸に瞳を開いた星南に、彼は笑みを深くした。
「フェルを巻き込みましたね?」
「リアだからな」
「二人して星南をいじめないで欲しいな」
敵なのにエヴァが一番救いって、もう不安しかない。




