3-6:暴君
街路樹みたいな緑のワカメ。揺らめいて背が高く、足元には珊瑚の花が咲いている。道に広がる白い砂。その両脇には石の街。整然と並ぶ家々は魚が泳いでいなければ、陸のそれと同じような風景だった。
海宮フォルジュは青石の国の一部であって、海の一部でもある地域。昔は宮殿が建っていて、海王神がよく滞在していたという。今は名残のように円形都市が広がっていた。
欲しかったハズの祝福耐性。けれどそれは、別れのきっかけになるかもしれない。金魚みたいな白い服でひらひら泳ぐ住人達は、珍しくて幻想的で、ココが遠い場所だと知らしめた。頭を垂れて道をあける彼らの先に、明るく手を振るエヴァがいる。
「見てごらん、蛇人族だよ」
そう言って振り返るのは、少年みたいな年長者。ここのみんながエヴァを知ってて敬意を示し、道を譲ってくれている。そんな和やかさが辺りに満ちていた。
「…………蛇人族」
星南は眉を寄せた。若そうでも、そうでなくても、頭皮がだいぶ涼しげだ。そしてなんと耳が無い。
「ダヴィドさんは、どうして私が蛇人族だと思ったんですか?」
言わずにはいられない。自分の頭にはふさふさの髪が生えている。耳もちゃんと付いてるし、光にきらめく白い素肌は持ってない。一体全体、ドコに見間違える要素があったのか。
「水都の蛇人は髪を剃る」
ダヴィドが溜息混じりに答えた。血の濃い蛇人族は灰色の髪をしている。更に濃ければ、黒い髪に灰色の瞳をしているのだと。
「耳が無いのに音、聞こえるんですか?」
「外耳が無いだけだ。陸暮らしの蛇人は付け耳をする」
そういえば習った気がする。けれど何ともスッキリしない。見間違えられて始まった。間違われなければ、生きてすらいないだろう。偶然が積み重なって今がある。その危険な橋を渡って来られたのは、ひとりじゃなかったからだ。
「ダヴィドさんは、帝国に帰るんですか?」
穏やかで優しい黄色い瞳。髪はオレンジ色のビタミンカラー。別れは辛い。別れなんて来ないと思った。
「…………セナ」
彼は否定してくれない。身分も仕事もあって忙しい人だ。知っている。今だって暇さえあれば書類を見たり、本を読んだり。更には観光案内までしてくれる。
「俺は…………」
ダヴィドは額を押さえた。髪を掻き上げて、自嘲の笑みがこぼれる。つい先延ばしにしていた事を、言わねばならぬ時がきたのだ。
「帰ったら癒しが居なくなる。それだけじゃない、嫁を迎えねばならん」
相手は目の前にいる娘であった。異界より戻された水の神人。本人だけが自分の出自を未だ知らない。
「そんな、ダヴィドさんは…………」
好きな人が居るのに。どうして結婚?まさか政略結婚とかするの?
星南はあからさまに落ち込んだ。それでダヴィドが首を傾げる。そういう好かれ方をしていないと、自覚はしている。自分の婚姻に、こんな反応をされるとは思わなかった。
「…………クレールさんが」
ポツリと聞こえた名前。星南の中でダヴィドの片思いは、綺麗なものだった。死んだ相手を思い続ける、その辛さは計り知れない。彼に結婚しろと命令出来る人がいるのだ。あって良いはずの自由がないのは、おかしいと思う。それがまかり通る異世界には、まだまだ知らない事が多かった。
「どうにかならないんですか?帝国って立派な国ですよ?政略結婚する必要、あるんですか!?」
「あると思って、いるんだろうな」
「ダメですよ!抵抗しないと!!」
お嫁さんが不幸だ。妻を省みない彼の姿も、見たくない。権力に屈するしかない現実に、次は我が身と怖くなる。この世界には不当を訴える場所がないのだ。
「私じゃ、何も助けてあげられないんですよ。たくさん助けてもらったのに!私、ダヴィドさんを助けられない!!」
帰ってしまう。連絡を取る手段すら無いままで。借りも返せず、役にも立てず。こんな事になるなら、もっとするべき事があったのに!
気持ちが溢れて止まらない。声を上げて星南は泣いた。泣くしか出来ない現実に、酷く自分を罵った。あやすダヴィドの大きな手と、大きな身体。全部慣れた腕の中は一番安全で、時々鬱陶しくて、近々失う場所なのだ。
苦い苦い後悔の味。泣くだけなんて、子どもっぽいって思ってる。それでもどうにも出来なくて、出来ない事が辛かった。
「すまんセーナ、そんなに泣くな」
失敗したのだ。ダヴィドは静かに瞼を閉じた。彼女は別れを告げれば、泣くと思った。泣いて惜しんでくれるくらいに、懐かれている自信もあった。
こんな風に泣かせる事になろうとは。
子どもっぽくて、実際子どもだ。かと思えば、時々大人の顔をする。過去の重さが陰りという名の色香を添えて、笑えば無邪気な幼い娘。彼女に対して確実というものは、初めからありはしなかったのに。
青石の国に留まる方が安全だ。それは変えようのない事実だった。エヴァは帝国に連れ帰る事を良しとせず、ダヴィドも帰国を譲らなかった。その態度が今を招いた。
先手を打たれ、聖王に情報を流されたのだ。
あの男はエヴァに異界から呼び戻されて、この国で大人になったと語ってくれた。異界戻りの神人は、水を求める本能を欠片も持っていなかったのだ。だからエヴァを素直に慕う。引き取りに来た実父を嫌い、それでも死んだ実父に縛られ、今はカタチばかりといえど聖王という権力を持つ。
手駒は足りて、此方は手の内までバレている。勝ち目はなかった。星南に祝福耐性がなくとも、彼女の価値は絶大だ。
気まぐれに囲っていい娘ではない。
分かっているが手離し難く、離してしまえば二度と手に出来ない事も明白だ。クレールに守れと託されたのは、一体誰であったのか。
ダヴィドは背中をあやす手を止めて、小さな身体を抱きしめた。奴は親を名乗らない。その方が好かれる事を知っているのだ。星南は誰が守るのか。何も知らない無垢な子どもを、これから誰が守るのか。
――――そう簡単に引くと思うな。
「独りにはせん」
議会を退けられぬ王命に、なんの価値があるだろう。散々好きにやってきた。この二百年間は、本当に自由だったのだ。それは死しても片恋の相手として通用した、女神の化身クレール・バルトがくれたもの。
「俺は、帝国に帰らんぞ」
ダヴィドは、晴々と笑った。
街には宮殿跡の外壁がある。それを幾つか越えると水都の結界が始まった。泣いた顔を洗いたいなんて言ったのは、分かりきった強がりだ。本当は明るい水中が、まだ星南は怖かった。けれどダヴィドが泳ぎたい事も知っている。今は片時も離れてはいけない気がした。
それで一緒に泡から出ると、親亀ダヴィドの荷物になった。星南は今日も沈むばかりだ。
「楽しい事を考えろ」
近くに泳いで来たフェルナンが、ポツリと余計な事を言う。
「なんだ、そんな事でセナは浮くのか?」
「違います!」
「ならば、何で浮くんだ?」
楽しい事で浮いておけば良かった。
ダヴィドは手を変え品を変え、追及がしつこい。泣きついたばかりの星南は、無下に出来ず防戦一方の戦況だ。恥ずかしい事で浮くなんて絶対に言えない。言ったらおしまいだ。試したくはないけれど、彼はそういう事が得意そう。一人にバレると、更にはエルネスさんにもバラされる。
恐ろしい。
あの人は、間違いなく上級者。何をされるか分からない。無理だ、アダルト過ぎる!
「そのうち浮きます!!もう聞かないでっ!」
「だったら大人しく黙ってろ」
フェルナンが渋い顔で呟いた。知らぬ存ぜぬでダヴィドを堂々無視していた彼は、今も近くを泳いでいる。しなやかなで綺麗な姿勢に、こんな風に泳げたら良いなと憧れた。
「祝福耐性が付いたら、泳げるようになるかな?」
「ならんだろうな」
ダヴィドに即答される。一秒たりとも希望が持てない。
「…………ココに居る神人の女性って」
ひとまず話題反らしの作戦だ。都合の悪い事は聞かれたくない。
「ええっと、どんな方なんだろう?」
「セナは思いつかないか?」
ダヴィドが話題に乗ってきた。幸先が良いと、誰の背を借りているのかも忘れて気分がはずむ。
「私に祝福耐性を付けられるって、もしかすると親戚だったり?」
「違うな。エヴァは格のある神人で試すと言った。始まりの十人のひとりで、尚且つ女性。水の存命はお一人だけだ。名前を言えるか?」
「オレア・バルリエですか?」
海王神の奥様だ。産みの親との初対面、なのかと思ったけれど違うらしい。血の濃い神人は、祝福耐性の後付けが出来るという事なのか。
だったらエヴァにだって出来たハズ。
「色冠では珊瑚の君だぞ。ちゃんと呼び分けろよ」
睨んでくるフェルナンに、星南は疑問をぶつけた。なんでわざわざその人なのかと。
「…………祝福耐性は何処にある?エヴァにその場所を見せるのか?」
左胸の上である。パッと羞恥が駆け抜けて、浮くかもしれないとダヴィドの背中にくっついた。しかし変化はやってこない。
私ってどうやったら浮くの?
もう自分でも分からなかった。
しかし神人とは、とても自由な人々だ。珊瑚の君オレア様という女性は、当然のように時間どうり現れなかった。何日かすれば来てくれる、とエヴァは気にも留めいていない。そういうのは良くないと思う。こっちは変に緊張しているままなのに。
「そうだ星南、折角だから観光でもしてきたら?」
魅力的な誘惑の前に、あっさり気分が浮き上がった。観光だ。この世界に来て初めての観光!
「ダヴィドは僕と残ってね?」
「俺は観光がしたいんだが、仕方あるまい」
「私も残りましょう。フェル一人で十分です」
「っな!?」
肩を押される。焦った声のフェルナが、しっかり星南を受け止めた。
「仕方あるまい、フェル坊に譲ってやる。楽しませてやれよ?」
「な、なんで俺が…………!」
エルネスはニコリと微笑んだ。
「あなた達を見ていると、どうも最近青臭くてね」
青カビのチーズが頭をよぎる。星南は匂いなどしないのに、シャツに鼻を近付けた。
「私達、変な臭いでもするのかな?」
「いいからお前は黙ってろ」
フェルナンはこめかみを揉んだ。そんなつもりは無かった。そんな気では無かった筈だ。
「ね、何処に行くの?何があるのかな?というか、私達二人で良いの?」
「どうして一度に聞くんだ。質問を並べるんじゃねぇよ」
疲れた声が出るのに、不思議と頭は痛まない。もう痛いのはそこでは無いと、自分で分かっているからだ。認めるものか。コレは金糸雀の一員で、青石の国に囚われるだろう水の神人。手が届かなくなる存在だ。
「じゃあ、人が居るところに行ってみたい!」
「却下」
「えっ!?」
驚いて丸くなる目。この灰色が移ろう瞳になった時、自分は隣に居ないだろう。だから深入りなんてしたくもないし、実は本能で求めているだけなのかもしれない。正直なところ自信は無いのだ。水の血筋が厄介だと言われる所以。気持ちと本能は別物なのに曖昧だ。
「フェルナンはどこに行きたいの?」
「俺は…………」
二人だけは気不味い。期待を込めて見上げてくる星南の頬を、思わずつまんだ。相変わらずよく伸びる。
「…………いたい、です」
「観光したいのは誰なんだ?俺の行きたいところは医療施設だけど、良いんだな?」
「よ、良くない!」
他に行きたいところ。星南は辺りを見回した。何処に行っても面白いだろう。だってココは水中都市で、映像でしか見た事のない南の海の中みたい。
「大きな魚がいるところ!」
例えばイルカとか、クジラとか。そんなつもりで言ったのに、フェルナンに連れて行かれたのは、まさかの墓場だった。観光なのにあんまりだ。
「ど、どうして…………!!」
「それは俺が聞きたい」
この期に及んで誤訳した?大きな魚をどう間違えたら墓場になるの!?神様にいよいよ見放されたのかもしれない。ここのところ空気は欠片も無い生活だ。
「なんで泣くんだ、お前が言ったんだろ?」
「泣いて無いです、ちょっと神様ディスってた!」
「大きな魚が見たい、違うのか?」
「…………ココにいるの?」
「調理前のも多分いる」
だからって、墓場のチョイスは酷過ぎる。人が少なく生き物がいる。理にかなっているよ、確かにそうだけど!!
不満があり過ぎて泣きたい。しかし都合良く泣ける訳でもなかった。ちゃんとした墓地を見るのは初めてだ。切り替えて楽しまないと損をする。
この場所に大きな魚がいるのは、加工前に魂の返還儀式を行うからだ。生きたまま食べれば血肉となり、その者が死する時、共に冥界に下るのだとか。死んだ生き物を食べるには、その魂を先に冥界に送る儀式が必要になる。
でも、お魚の解体ショーとか興味ないんだけど。
今更言えない。食いしん坊だと思われた?違うかな、彼は太らせようとしてくる方だ。辺りを見回しているフェルナンの横顔を見て、星南は少し気が抜けた。きっと何か食べさせようって思ってるんだ。
墓地は背の低い岩場の続く場所にある。そして埋葬を示す丸い石が置き添えられていた。あの石の下に死体があるのかと思うと、自然と口数は減っていく。
星南は鼻を押さえた。
意味の無い事だ。水中だから臭いはしない。陸で使える嗅覚も、ここでは役に立たないものだ。臭いがするって、空気がなければ出来ない事になるのかも。頭に何かが引っかかる。
大気になった神様。
死ぬと大気に還る神人達。魂の循環を許された種族と動物。
「魚が居たぞ」
「えっ!」
フェルナンに腕を引かれる。岩場を縫って移動すると、白と黒の体が見えてきた。そこに居たのは海の暴君と名高い、一頭の大きなシャチだった。




