2-30:花都デュメリ
エヴァはただ笑った。
「星南に分かるなんて、僕もヘマをしたね」
「言い方ひどい!」
「だってそうだろ?」
捕らえている手をそのまま引いて、星南を腕に抱き上げる。文句を溜めて脹らむ頬が、やっぱり可愛い。それで余計にエヴァはニヤけた。
「…………少し気が抜けたんだ。この辺に君を害すものはなく、時空の歪みも、癒える目途がたったから」
「またやる気ですか!」
エルネスが咎めた。やっと逸らした話題なのに、思い出させるなんてエヴァのバカ!
「その話は後にしろ。フェルナンが限界だ」
ダヴィドの指摘に振り向くと、さっさと出てけ、と怒号が飛んだ。言うのが遅いよ。
また怒られた…………
そんなエヴァと残されたのは、始めに寝ていた部屋だった。乱れたベッドに見覚えがある。星南は閉まった扉を窺った。
きっと近くに居るのだろう。
ダヴィドはあまり、エヴァと二人きりの状況を作らなかった。それを今つくるからには、何か理由がある筈だ。
「着替えを出すから、そこに居て?」
「…………うん」
基本的にノーヒント。期待されていないのだ。だからと言って凹むというのは、バカバカしい。どうせなら、釘を刺すべきだった、と言わせたい。星南は俄然やる気になった。
「ねぇエヴァ?」
呼ぶと彼は視線を寄越す。始まりの十人という、人族の祖。そんなふうには全然見えない、童顔だ。
「なんでフェルナンなの?」
「星南もそれが気になった?」
「他の人じゃダメ?私、また怒られちゃうよ」
結構、切実な問題だ。顔を合わせるたびに小言を言われたら、仲良くなんて遠すぎる。エヴァはクローゼットの扉を閉めて、難しい話だよ、と小首を傾げた。
気まぐれじゃない理由があるのだ。
なんだかモヤモヤしてしまう。私にだから話してくれる。それを狙ったのはリーダーだ。彼の采配は的確で、悔しいくらいに手の上で転がったに違いない。
しかしこれは、頼まれた訳では無いわけで。
自主的な詮索だ。絶対に。
「それって、どれくらい難しい?薬草師の勉強よりも?」
「薬草師は暗記でしょう?僕の方は確率計算」
「分数とか?」
言ってみると、エヴァが不思議そうな顔をした。この世界では計算をした事がない。けれど数字があるのだから、きっと数式だってある筈だ。
「ええっと、コインを投げて表が出る確率は、二分の一って事なんだけど」
簡単な事を言ってみる。分数の概念が無かったらどうしよう。エヴァの顔色を窺うと、五割だね、と彼は笑った。
「じゃあ星南、第三種族の数を知ってる?」
「四だよね?」
「それが実は違うんだ」
どういう事だろう。第三種族は準蛇人と準魔人、半竜人に天人族の四種類。しかし次の第四種族は獣人族が一つだけ。改めて考えてみると、少しおかしい。ピラミッド式に種族が増えるべきなのに、第四種族は一種類だ。
「獣人族を細かく分けたの?」
「その通り」
エヴァが言うには、獣人族は千以上。その中で黒色病は、不規則に起こる、と考えられているらしい。
「黒色病の子を産む夫婦は、そういう子しかつくれない。大神の加護を失ったからなんて、僕は信じないよ。あの病は獣人ばかりが罹るんだ。その理由は、何処かにあるべきだろう?」
それとフェルナンを選ぶ理由が、繋がるのだろうか。若干怪しい。首を傾げてみたが、エヴァは自分の手を見詰めるばかりだ。もしも手相の話を始めたら、枕を全力で投げてやる!
「星南は不思議に思わない?」
「えっ?」
星南は慌てて枕を放した。エヴァは手のひらをこちらに向けて、五という数は、と説明する気でいるらしい。
「創造の大神が分かれた欠片、神々の数だよ。僕ら人族も、獣人が居なければ五種類だ」
でもねと指を二本立て、神人の子どもは神人なのに、どうして神人と蛇人の子どもは神人にならないと思う、と問いかけてくる。
種類の違う神人同士は、子どもができない。
神人と神様との間には子どもができて、それが第二種族の蛇人と魔人と竜人族だ。
「ねぇ、思ったんだけど、蛇人族と神人の間には、子どもができるんだよね?」
「できるよ。その世代も第二種族に分類される」
という事は、神人と神様達の間に生まれた種族と、神人を片親に持つ蛇人と魔人、竜人の世代も第二種族になる訳だ。
エヴァは確率計算と始めに言った。
ならば計算してみて、腹を探るしかないだろう。
「第一種族と第二種族が各三づつで、この二つを合わせたものも第二種族なんだよね。ペアだから、六と五を掛けて、第二種族は全部で三十種類…………になるんだけど、同じ組み合わせの被りを抜くから二で割って十五ってとこかな?」
二桁計算で助かった。星南の頬が、少し引き吊る。それでも、神人が生まれない理由にはならない。
「神人同士は子どもができないから、三を引くと」
「第二種族は十二種類かぁ」
この計算で行くと、第三種族は百種類を超えてしまうだろう。暗算だとそろそろ怪しい。
「エヴァ、それでどうしてフェルナンなの?」
睨みながら言ってみる。難しい話が計算だなんて、都合が良すぎだ。はぐらかすつもりかもしれない。
「フェルは稀なる天人族」
白い衣装をカゴに入れ、エヴァはこちらにやって来た。どう見てもギルドの制服ではない。それを星南に手渡して、一先ず着替えようか、と微笑んでいる。会話を逸らそうとしているに違いない。
「フェルナンにした理由が先だよ!」
「粘るねぇ…………」
やれやれという顔で、エヴァは腰に手をあてた。
「第三種族は本来、百二。その内、天人族が生まれる確率は二分だけなんだ。更に優性なのは半分以下しかいない」
「フェルナンを実験に使うつもりなの?」
「まさか。サンプルは十分にあるよ――――昔、青石の国に聖ネルベンレートが攻めてきた事は知ってるね?」
星南は頷いたが、嫌な予感がする。エヴァは三色菫の水神だ。国ひとつを一人で結界に封じ、機嫌が悪ければ海さえ荒らす。そんな国に攻め入った獣人達は、どうなるだろう。誰もネルベンレートが勝ったなんて話していない。青石の国が負けたと、そんな歴史は習っていないのだ。
「あっちが攻めてきたんだ。捕虜にされても文句は言えない」
「…………それは、そうかもしれないけれど」
「まぁ、ともかく。そこに天人族を親に持つ獣人が、チラホラ居たワケさ。彼らは欠片も本能を持っていなかった」
「フェルナンが安全って事?」
エヴァはそう、とニコニコ笑う。けれど全然、納得できない。うーんと頭を悩ませていると、パサリと軽い衣擦れの音。シャツを片手に、彼は半裸になっていた。
「何してるのエヴァ!?」
カゴを抱えてぎょっとする。脱ぐと意外と細マッチョ。何をじっくり見ているのだろう。星南は慌てて視線を下げた。
「それの着方を知らないだろう?」
白い布が詰まるカゴ。おずおずエヴァを見ると、同じような物を手に持っていた。ともかく長い一枚布だ。そしてシルクみたいな滑らかさ。
「神装の生地だよ。蛇人として青石の国に入ると、危ないからね。ちゃんと神人に見える格好をしないと…………別に、僕が着せても良いんだけどね?君はそれだと困るかなって?」
それはとても困るだろう。
ぶんぶん頷くしかない星南に、会話の主導権はなかった。結局、知りたいところを誤魔化された気がする。
それでも星南は奮闘だった。目を細めたダヴィドは、成程と一人でこめかみを揉む。一応護衛として廊下に残ったのだが、それは最早、室内の要人の為ではなかった。
真昼間の郊外で大量殺人をしでかした問題児。それから、その他を守る為。なんとも皮肉な事である。迂闊に近寄ると、エヴァは問答無用で殺めかねない。
戦争のせいで、彼の枷は外れてしまったのだ。
――――クレール様。
胸の内で呼びかける。神人は殺しを好まない。そうあるようにと自身を律した。神の末端に恥じぬ力を持っている。それだけで十分に脅威だ。
滅びかける水の血族。
その頂点に立つのはエヴァである。何故、黒色病の研究をしていたのか。ダヴィドは意図が掴み切れずに、瞳を閉じた。クレールだけが、初期から研究をしていた病――――黒色病。血が黒く変わる奇病だ。それが途絶える血筋と関係するのだろうか。
「ダヴィドさん!」
明るい声が後ろからする。入口を背で封じていたので、開かなかったのだろう。移動してやると部屋から星南が飛び出してきた。
「ギルドの制服ありませんか!?」
「いきなりそれか」
夜着に裸足。着替えはどうした。そう思ったが、ともかく腕に抱き上げる。
「私は服が着たいです!普通の服が!!」
涙目で彼女は訴えた。
「神装はお気に召さないか?」
「あんなの服じゃありません!」
抗議の声は悲鳴に近い。滑らかで手触りの良い生地は、もちろん薄手。それを素肌に巻き付けて帯を締めろと言われれば、文句のひとつ、どころではない。普通に着たら脇から下はオープンだ。胸に巻いてもヘソがでて、腰から下は絶望的に隠せない。
「ギルドの制服が着たいんです!私はギルドの一員なんです!!」
ダヴィドのシャツを掴んで、必死に頼む。ああいう格好は、出るとこが出た美女がすべきだ。何気に肉付きのよいエヴァに似合うのも、やるせない。
「そんなの着ても、私は神人には見えませんよ!?祝福印だって無いんですから!!」
ホクロもないし、あった筈の注射の痕も腕から消えた。知らない間に、自分の身体が変化していく。誰かに見られる事より、それを確かめる方が怖いくらいだ。
「絶対に無理です!あれは服じゃありませんッ!ダヴィドさんっ!!」
「分かった、分かった、それはエヴァと協議だな」
「ありがとうございますっ!!」
ぎゅっと首に抱きつくと、ぽんぽん背中をあやされた。
「そうやって星南を甘やかすから…………」
呆れたエヴァの声がする。これのどこが水神なんだ。神様って言うのは、もっとこう――――ディスってオーケー、心のオアシス。星南は思ってハッとした。
そこに居るのは神様なのだ。
第一種族。神の欠片から生まれた、始まりの人。かつては眉唾だと思った、そんな神人。
「ねぇエヴァ。私、聞きたい事を思い出したんだけど…………いいかな?」
「今度はなに?」
見上げてくる灰色の目。少し青が混ざった、曇りの色だ。
「私をこの世界に連れて来た神様って、知ってる?」
「…………神様?」
「神様、じゃないの?」
エヴァは困った顔をした。ダヴィドが、そこに居る、と苦笑する。
「ごめん、僕だよ」
「えっ!?」
「妻だと思ったんだ。時空の向こうへ行ってしまった、僕の妻だと」
ごめんね、と謝る声は悲しげだった。だから星南は何も言えずに、拳を握る。きっと失望しただろう。奥さんじゃなくて、来てしまったのは違う人。
「彼女はもう居ないんだ。時空の向こうにも、何処にもね。だから僕が我儘で探し続けた彼女に、言えなかった言葉を――――星南、聞いてくれる?」
エヴァは笑顔を浮かべた。無理やり作った、歪な顔だ。どうして笑おうとするのだろう。悲しくて仕方ないと、見ているだけでも分かるのに。
男だって泣くんだと、星南の父はよく泣いた。我慢するのは身体に悪いと、母が口癖にしていたからだ。
「――――おかえり、女神の花」
ニコリとエヴァが微笑む。優しげで綺麗な、きっと奥さん用の顔なのだろう。ダメだよ、そんな事しちゃ。胸が痛い。忘れたくても忘れられない、喪失の――――死者に対する生者の痛み。どこにも居ないと言っていた。それはつまり、亡くなっている、という事だ。
「…………やだな、なんで星南が泣くの」
「エヴァが笑うから…………悲しいのに、そんな顔するから!余計に悲しくなるじゃん!!私じゃ代わりになれないのに、私が来ちゃったんだよ!?せめて怒ってよ、お前じゃないってっ!」
「星南で良かったよ」
今度はしっかり笑われた。あまのじゃくだ。
「帰って来て欲しかったんだ――――君にも」
「わ、私…………?」
「そうだよ。こんなに育っているなら、此方に来たくは無かっただろう?悪い事をしたね」
「…………」
ああ、普段のエヴァだ。
安堵と一緒に、なんだか疲れた。謝罪が軽いよ。悪いなんて、欠片も思ってない癖に。
「どうせ私はオマケですよ」
「そんな事言ってないって…………」
「まさか、だからあんな場所に出て来たの!?」
水に流そうと思ったけれど、玄関開けたら雨の原っぱ。しかも首狩り族のセット付。そう簡単には流れない。
「青石の国まで呼べなかったんだ。途中で妨害された」
「お前をか?」
ダヴィドが堅い声を出す。
「海王神だよ。彼は結界が解ける事に反対だ。時空を扱う祝福が成立すると、補助結界が切れてしまう。そのタイミングで遥か海の底から、青石の国に結界を張ったんだ。星南はそれに弾かれて、何処かに落ちた」
探していたとエヴァは言う。捜索に出た蛇人が数名、聖国で狩られてしまったとも。あの子ども達がそうだったら、見殺しにしたようなものだ。
恨むかい、とエヴァは問う。
「恨んでないよ。むしろ私が恨まれてるかも」
それは九割強がりで、指先が微かに震え始める。
「知らない誰かに生かされて、それを今頃知るなんて。ひどい話だと思わない?私はこの世界に何も無くて、それが根なし草みたいで嫌だった。なのに、恨みだけは既にしっかりあるんだね」
「だから親戚探しに拘ったのか?」
ダヴィドを見上げると、複雑な表情だ。けれど目元を和ませて、言い聞かせるように囁いた。
「セナは恨まれていない。自信を持て」
彼に言われると、そんな気がする。更に頭を撫でるから、あっという間に丸め込まれた。ダヴィドさんは悪い大人だ。
言われたい時に、言われたい言葉を言われたら、私みたいな単細胞は信じてしまう。
「それを、これから確かめればいい」
「国境はすぐそこだしね?」
「…………あの、ココってゴダンじゃないの?」
ダヴィドとエヴァは顔を見合せ、今頃それか、と笑いだす。
「状況確認は、一番始めにすべきだぞ?」
「星南はのんびりしてるよね」
「そ、それで、ここは何処なんですか!?」
ダヴィドは天井を指差した。
「花都デュメリだ。明日にでも国境を越えよう」




