2-29:三色菫の水神
シーツの滑る音がした。呻く声にエルネスが名前を呼んで、ガクンと視界が下へと揺れる。
「良かった、目が覚めましたか!」
「耳が痛てぇ…………」
エルネスの肩には薄着の星南。ベッドに半身を起こして、フェルナンはその足を掴んだ。汚れた裸足。コイツはまた、夜着でウロウロしてたのか。そう思ったら、耳より頭が痛くなる。
「早く連れ出してくれ」
「そう思いましたがフェル、ちょっと預かってくれませんか?」
「はぁ?」
寝起きで丸腰。その前に何も着ていない。腰までシーツを引き上げると、横抱きにされた星南を手渡される。
「なんでココなんですか!!」
「…………うるさい」
どうして大人しく出来ないんだ。眉間に皺がよる。そんなフェルナンの顔を見上げて、灰色の瞳が吊り上がった。
「フェルナンも文句言ってよ!私が止めなかったら、劇薬飲まされてたんだからね!!」
「…………早く戻って来いよ」
どよんとしたフェルナンに、エルネスは笑顔で頷いた。
「隣の部屋にダヴィドとエヴァが。呼んできます」
緑のローブが宙に舞う。薄っすらと風を纏う程に、彼の機嫌は悪いのだ。重い溜息が零れた。
「よーく聞けよ星南」
「え?」
フェルナンの機嫌も当然悪い。エヴァには言いたい事が山とある。しかしその前にだ。腕の中でボケっとしているパン屑頭――――星南にも言いたい事が、しっかりあった。
「お前の護衛は、何時からエヴァになったんだ?自分の身どころか、言われた事も守れないのか!」
「ご、ごめんなさい!!」
怒られるのは当然だ。服を着てとか、自分を降ろして欲しいとか、先に身になる事を言えば良かった。
「私がバカでした。悪ふざけに付き合ったりして」
「…………やけに聞き分けが良いな」
「フェルナンを三日も寝たきりに…………」
「それは、お前のせいじゃない」
溜息をつくと、星南の前髪が揺れる。白い頬に朱が走り、彼女は顔を背けた。どうしてコイツは、中途半端な反応をするのだろうか。だったら、夜着で出歩く事にも恥じて欲しい。
「フェルナンは身体、辛くないの?」
「は?」
感情をよく映す灰色の瞳に、僅かな陰り。そして涙だ――――ぷくりと目元に浮かぶ、朝露みたいな水。泣くような事を言ったかと自問したが、答えは否だ。
「エルネスさんが、三日も寝てたらこの先、連れて行けないかもって…………留守番かもしれないって、言ってた」
そんな事かと溜息が出る。
「俺を無理やり寝かせたのは、エヴァだ。お前のせいじゃねぇよ。それに身体は辛くない」
本人が言うのだから、そうなのだろう。お日様に一度も焼かれた事が無いような、白い肌。そこに散らばる緑の模様。
祝福痕という、色使いの証だ。それを目で追ってしまう自分に、恥ずかしくなる。男子の半裸ごときで赤面など、今更ない。その筈だ。たかが素肌と星南は眉を寄せた。それでウスタージュを思い出す。
チクリと、胸が痛んだ。
女の肌がトラウマの彼。明るくて気さくな青年だ。けれど、じきに会えると言われて数ヶ月。メアドもないし、住所も知らない。こんな不便な世界で離れてしまったら、もう一度会う事は困難だ。自力でなんて更に無理。
「私、フェルナンが留守番なんて、嫌」
離れたら会えないかもしれない。
離れたくない。
祝福耐性も戸籍も、全ては自立の為だった。けれど本当は、それさえあれば迷惑がかからなくなり、そばに居られる。知っている人のそばに居たいと、ただ甘えているだけだ。
面倒くさそうな溜息の音。ちょっと目を閉じとけと、げんなりした低い声がする。
星南は、両手で目を塞いだ。
悲しいと思うのは、私だけかもしれない。だってフェルナンには、そんなに好かれていないのだ。基本的に怒られてばかり。なのに細かいところで優しくて、それに気付くと期待する。
冷たいシーツが身体に触れた。
離れていく腕は乱雑な扱いなんかしなくて、それが逆に、気安さからは距離を感じる。淋しい。そばに居たいと思うのは、私だけ?おんぶにだっこで縋るばかりの、私だけ?
こんなんだから、すぐに後悔してしまう。
「めそめそすんな。俺はママじゃないんだぞ」
そんな事は知っている。ママというのは、例えと同時に信頼だ。星南はそっと目を開けた。涙に濡れた自分の両手。その向こうには夜着とシーツだ。この手からは零れ落ちるばかりで、なかなか大切なものを掴めない。
無力は嫌いだ。
だから努力を重ねる。私は天才じゃないから、急に凄くなんてなれない。
「そんな事言わないで、ママになってよ。私はパパなんだから」
「返上しろ。お前には無理だ」
打てば響く塩対応。フェルナンの意地悪。涙目のまま睨んでいると、顎で横を示される。
「夫婦喧嘩か?」
ニヤニヤ笑うダヴィドにエヴァ、仲良く出来ないんですか、と苦言を呈すエルネスがいた。
「何時からいたの!?」
ぎょっとした。なんだか分からないけれど、見られたくなかった。だって、カッコ悪いし。焦って顔が熱くなる。袖で涙を拭こうとすると、エルネスに腕を掴まれた。
「擦ってはいけません」
そして差し出される、水色のハンカチ。力無く受け取ると、くすくすエヴァが笑いだす。
「金糸雀って面白いね。他のパーティーでも、そういう役割振ってるの?」
ベッドに腰かけ、彼はダヴィドに問いかける。
「まさか」
苦笑交じりの否定の言葉。そこで星南は手を上げた。
「ウスタージュだよ。フェルナンがママみたいって、言い始めたの!」
「マロン・ウスタージュ・クロケ?」
「エヴァ、知ってるの?」
さすがご長寿、物知りだ。
「半竜人のマロン・ウスタージュでしょ?彼は有名人だよ。会えないのは残念だったな」
「え?」
ポカンとする星南の隣にエルネスが座り、ダヴィドは扉の前に立っている。少しの違和感。それが何か分からない。
「彼は色冠持ちの半竜人で、クロケの御曹司。短命種族の希望の星ってところかな」
「そうなの?」
「知らないの?」
エヴァは首を傾げた。金糸雀のメンバーには、身分や立場について、何度か聞こうとは頑張った。けれど話上手のダヴィドから聞き出す事など不可能で、エルネスには何時の間にか会話を逸らされる。
「ダヴィドが皇帝の弟なのは知っている?」
頷きながらダヴィドを見ると、やれやれと肩を竦める姿が見えた。そうかと星南は思う。違和感がある筈だ。こういう話題は、何時だって逸らされる。
「エルネスは?彼も何も教えてくれなかった?」
「…………マフィアの幹部、としか」
「「は?」」
誰が言ったか分からない程、声がハモった。誤訳は慣れっこ。でも放置すると悪化する。特にエルネスさんは根に持つ人だ。
「べ、別に、悪い言葉じゃないんです!」
ちょっと人を攫ったり脅したり、殺すかもしれない集団だ。あれ、良い要素が見つからない。
「セーナは私を、そういう目で見ていたんですね」
「ちょっと待って下さい!なんて聞こえたんですか?」
「犯罪組織」
まさにそれだ。うっかり納得した頭を、サラリと彼に撫でられる。
「酷いですねセーナ。私の家は黒のヴェリエと呼ばれますが、法には触れていませんよ」
「そそそ、そんなつもりじゃ!」
星南は震え上がった。笑顔で人を脅すから、そういう誤解をされるのだ。けれど口から反論が出てこない。言い訳も出て来そうになかった。
「星南は黒のヴェリエを知らないの?」
不思議そうなエヴァに、カクカク首で肯定を示す。チラリとエルネスを見ると、何時になく凪いだ瞳でエヴァを見ていた。何故、話題を逸らさないのだろう。
「えーとね、鏡の湖を擁するヴェリエ領は、風の始まりの十人のひとりが守る黒き土地なんだ」
「実際は黒くなんてありません」
「それはそうだけど、そう呼ばれる原因を知っている?」
「勿論です」
エルネスが微笑む。何時までも星南の髪を玩んでいた指先が、肩を抱き寄せた。何か企んでいる?見上げた薄い色の瞳がこちらに向いた。
その色は、ゾッとする程冷えている。
「風の始まりの十人は、残すところあと三人。水を求めて狂う定めの血筋です。それを憐れみ、冥界の神々が渡っては子を成した――――妊婦の近くは、不思議と本能の渇きが癒えるとか。だから黒い髪が次々生まれ、魔人族ばかりの領地となった。それが黒と言われる由縁です」
ふわりと部屋に風が吹く。ガス灯の火が揺らいで、一瞬辺りが暗くなる。
「エルは魔人族の中でも、特別、血が濃いんだね」
「そのようです。色を捧げていなくても、こうして風がつき纏う」
ふふふ、とエヴァが笑った。
「フェルに花蜜祝福を施した事、怒ってる?」
エルネスは答えない。ただエヴァを見ていた。まるで何かを見定めるように。
「色不足で娼館行は、双方哀れだよ」
「色使いは、それを覚悟した上での職業です――――エヴァ、貴方の目的は何ですか?」
問いの後に沈黙がおりる。
それを破ったのはダヴィドの溜息で、彼は前髪を掻き上げながら、潮時だと助言した。
「僕に名乗れと言ってるの?」
困った顔で笑うエヴァ。
「僕は嫌だよ。評判が悪いんだ」
それで名乗れない?
星南は少し不思議に思った。評判が悪いと教えているのに、名乗れないのは何故なのか。エヴァは良い事も悪い事も、思い付いたらすぐにする。だから全体的にマイナスだ。それで評判も悪いのだろう。
「どうして名乗れないの?エヴァが悪い子なのは、みんな知ってるよ?」
「…………待って星南、そういう評判は無いから」
じゃあ、どんな悪評があるのだろう。水の神人は、結界の外に出てこない。という事は、国内の事だろうか。青石の国との国境はもう近い。その後の事を気にしてる?
「エヴァ、ここで白状した方がいいよ。私達も知らないと、後でびっくりして困るから!」
「一度びっくりしたら、それで終わりだよ。二度目は来ない」
エヴァはダヴィドの方を向く。何とかしろという顔だ。
「俺はどちらでも構わんが」
リーダーはベッドの私達を流し見た。
「エヴァの目的は単純だ。エルは、正体にも気付いてるんだろう?」
「それはどうでしょう?私はただ――――フェルをだしにして、何をしようとしたのか、知りたいんです」
「星南の治療だ」
フェルナンが割って入った。それに付き合わされたと告白されれば、青くなるのは星南である。
「エヴァ!何でフェルナン巻き込んだの!?」
「うーん、適材適所?」
「何故フェルなんです?」
「君もダヴィドも血が濃いんだよ…………」
はぁ、と大袈裟に溜息をつき、エヴァは頬の祝福印に触れた。
「時空の歪みは十日間。それは、同時期に流されたエリゼが証明してくれた。セザールが治したのは三日だけ。七日足りていないんだよ」
「――――待って下さい!」
エルネスが声を上げる。同時期にという事は、星南の生まれはこの世界。このまま話を進めると、異界の両親を大切にしている彼女に、その事実を突き付けてしまう。先を聞くかと嘲笑うエヴァに、何故フェルなんです、と重ねて問った。星南はじっとエヴァを見ている。
十日の歪み。
どちらかの世界で、一日が十日間という計算だ。自分の親は神人じゃない。だから生みの親は別にいる。その覚悟は一応していた。
「フェルは第三種族。それも優性の天人族だ。そうでしょう?」
「だから何だというのです?」
引く気の無いエルネスが、鋭くエヴァを見据えている。とても口を挿めない。星南はシーツを握りしめた。胸にあるのは、辛いもの。悲しさとか痛みとか。ごちゃごちゃした怒りのようだ。
エヴァは、私の親を知っている。
僅かな耳鳴り。
今は五円玉も身に着けてない。落ち着けと、深く息を吸い込んだ。
信用がないせいで、まだ早いと隠される。日本には戻れないのに、そう決めたのに、世の中はちっとも上手く回らない。悔しい事ばかりだ。
「稀なる種類だからこそ、本能の抑制力が高い。僕はその理由を知ってるよ――――無駄に、鎖国してた訳じゃないんだ」
再び部屋に沈黙がおりた。
肩に回ったままのエルネスの指が、とん、と跳ねる。何かのリズムを取るように、もう一度。顔を見上げると、エヴァを見たままだ。あやされてる?それとも黙ってろって?
なんだかやっぱり、泣きたくなった。
「私からも、聞いていいかな?」
星南はエヴァを見た。彼はどうぞと言うように笑顔を向ける。大人っぽい少年。その実は老人だ。
「エヴァは、水の始まりの十人でしょ?その中で、評判が悪いのって、一人しか居ないんだよ」
「そうだったかな?」
ニコニコと笑顔の返答がある。横でフェルナンが腕を組んだ。いまだに半裸。みんなで押しかけたから、きっと着替えが出来ないのだ。
「生存は六名。ユーグ・バルテレは行方不明。オレア・バルリエは海王神の奥さんだよね。他はみんな青石の国に居る。その中で評判、と言うかね、話に名前が出るのは一人しか居ないんだよ」
エヴァが笑顔を歪めた。それは苦笑だ。
誰も口を挿まない。
だから正解に辿り着いたと分かった。同時に誇らしくもある。そんな事で、誰も態度を変えたりしない。金糸雀はそういうパーティーだ。
「エヴァ、私に青石の国の事教えて。親戚が居るかもしれないんだって」
彼はあまり自国の事を話さない。それはボロを出さない為なのか。それとも知らないか、のどちらかだ。知る事が出来ないような、大きな事をやっている。そんな神人は一人だけ。
「フェルナンが風邪ひいちゃう。隣に行こう?」
ダヴィドの方を指さすと、エヴァはベッドから立ち上がる。そのまま此方にやって来て、星南の手を取った。
「もしかして、脅したつもり?」
「脅してないよ。だって、みんなも分かってるから」
青石の国の名高き神人。
それは、神さえ避けるという三色菫の水神だ。




