1-6:墓参り
さらさら揺れる緑の若葉と澄んだ空。それだけだったら長閑なピクニックとでも言えるのに、少し顔を動かせば、青緑の葉を茂らせた深い森が目に入る。屋久杉みたいな大樹がひしめき合う様は、やっぱり異様で、ここが異世界だと知らしめた。
ふとした瞬間に戻れるとか、そんな希望は捨てないと。
星南は腕を投げ出して、草原に身体を広げた。不調が、ナーバスに片寄る心に拍車をかける。とても良くない傾向だ。ふーっと息を吐き出して、そのついでのように気持ち悪い、と小さく呻く。
「シンパイ」
隣に鎮座した荷馬が、大きく長い顔で星南を覗き込んだ。この世界の馬がファンタジー的に話せるのか、私の頭がどうかしているのか。後者の気がしてならないけれど。これが神様特典だとしたら、ヘソ曲がりにも程があるだろう。
人と話せないって、どういう事なの。
現状、最大の不満はこれだった。聞く方ドンと来い。話す方は人以外っておかしくない?おかしいよね!?
「うぅ、家に帰りたい」
「ゲンキ、ダシテ」
「…………ぅん」
つぶらな瞳は青かった。そして毛並みは灰色で、聞こえる声は小さな子どもを思わせる。なんと言うか、リアルに副音声みたいだ。顔に手を伸ばしてみると、大人しく触らせてくれる。
「おやおや、随分懐かれましたね」
星南が顔を向けると、エルネスが傍らに膝を突いたところだった。緑のローブから下がる飾り紐の銀色が、日の光に鈍くきらめく。機能性を重視したパンツやジャケットとは違い、ローブは柔らかい生地で長い飾り紐が二本付いていた。それを慣れた手付きで横に避け、彼は最初に星南の隣へ手を伸ばす。
「ナディーヌ号、セナの様子はどうですか?」
首を撫でられた彼女はブルルと鼻を鳴らして、ワカラナイと身も蓋もない事を答えた。エルネスは緩く微笑むばかりだ。
馬と話せるのだろうか。
星南はフードを被ったままのエルネスを見上げた。すっきりした顎のラインに、白い肌。笑みを浮かべる口元まで繊細な美しさを持つ。こういう人を、人形みたいと言うのだろ。けれど今までに見た事のない造詣は、どうにも現実味が薄かった。
「ナディーヌ号、またセナを乗せてくれますか?」
「イイワ」
エルネスの表情は動かなかった。やっぱり話せないのかな。だったら馬と話せる事は、慎重に隠さなければならない。蛇使いらしき民族に間違えられているのだから、馬と話せるのは不自然だ。
それとも、話せるのは当たり前?
じっと観察していると、どうしました、と彼は星南に目線を下げた。ピタリと薄青い瞳に見詰められ、思わず焦って目を開く。何だかとても恥ずかしい。そして気まずい。そぉっと視線を横に逸らすと、彼はくすくす笑い声を溢した。
「私が恐いですか?」
「え?」
予想外の問いだった。むしろ怖いと言うより、謎な人。不思議な人と言う方が近い気がする。だって頭が良さそうなのに、蛇人族と間違えたままなのだ。しかも隠そうとしているのに、こうして野外に連れ出てみたりする。実に意味不明に思えた。
星南は困って眉を寄せる。
それとも、怖いなんてと励ますべきか、どこがと笑うべきだった?まぁそれ以前に、言葉が全く通じないという壁がある。失敗したら、自分のフォローも出来はしない。
「その顔は否ですね…………」
彼は、星南の都合が良いように勘違いをしてくれた。安堵に肩の力を抜くと、急に顔を寄せて来て、いっそ無防備で男らしくみえますよ、と変わらぬ笑顔で囁いてくる。覆い被さるように距離を詰められ、流石にちょっと怖かった。いくら綺麗でも、自分よりずっと大きな男性なのだ。
星南が固まっていると、エルネスはそのまま背中に手を差し入れた。
「さぁ、休憩はおしまいです。森に入りますよ。貴女の不調は寝不足と脱水でしょうから、何か食べれば治ります」
そしてあっという間に抱き上げられる。
「あのっ」
咄嗟に何かを言いかけて、星南は慌てて口をつぐんだ。馬を引いたダヴィドが、すぐ近くに居たからだ。
「坊っちゃんは、一人で馬にも乗れんのか」
「無理もありません」
そう言ったエルネスが、立ち上がったナディーヌ号に星南の身体を押し上げる。鞍を掴んで、どうにかその背によじ登ると、ヘタクソ、と彼女がのたまった。
無茶を言わないで欲しい。
馬に乗るのは初めてで、こんなに大きく暖かいなんて知らなかったのだ。当たり前だが、ちゃんと呼吸をしていて鐙の横のお腹が動く。どうしても背筋は曲がるし、恐々といった様子は拭いきれない。生き物の上に乗るという事は、自転車とは訳が違った。
「…………仕方ないな」
ダヴィドは額の髪を掻き上げながら、苦笑した。
「レジの着方も知らない良いトコ育ち、とフェルナンが愚痴っていたぞ」
「…………そうですか」
エルネスは気のない返事を返したが、フードの陰で困ったように目を閉じた。抱き上げた時、やけに身体が硬いと思ったら…………フェルナンに、してやられたらしい。今朝はあんなに健やかに眠っていたのだから、この不調は不自然だったのだ。
レジの帯がキツ過ぎる。
それを直すには、ローブと上着を脱がさなければならない。しかも野外で。横目で問題のダヴィドを見ると、彼は腰に手を当て、呆れ全開で馬上の星南を見上げていた。
「ほーら、セナ。しっかりしろよ。早めに食事にしてやるからな」
「…………はい」
「腹が膨れりゃ、直ぐに治る」
「ハイ」
星南はひとまず返事をしたが、食欲は相変わらず何処かに逃げたままだった。ご飯よりも寝たい。出来たらふかふかのお布団で。
夢のまた夢。
何だか悲しい。無い物ねだりは我が儘みたいで、気分が悪い。じゃなくても目が回るし、気持ちも悪いのに。身体を倒して白い鬣にそっと頭をくっ付ける。余計に苦しいけれど、ゲンキダシテ、と励ます彼女にすがってしまう。
何とかなる、成せばなる。
何時だって、やってやれない事は無かった。
難しい事に挑戦してこなかった、だけなのかもしれないけれど。それでも今までは何とかなった。それは何かを、ちゃんと、こなして来たからだ。
まだ何もしていない。
気持ちで負けない、そう父が教えてくれた。
収穫間際の野菜が駄目になった時、そう言って父は星南の前でめそめそ泣いた。その姿が、今も鮮やかに記憶の中には残っている。負けないように泣くんだと、父はそう言った。それが男泣きの言い訳だと気付いたのは、大人になってからだけど。
私、全然、泣いてない。
フードの上から、ぽん、と頭を撫でられた。星南が顔を上げると、ダヴィドが困ったように微笑んでいる。その長身は今は僅かに低い位置にあり、逆に顔の距離は近かった。
「泣くんじゃないぞ。何時か必ず、親元に返してやるからな」
「…………はい」
絶対無理だ。思ったとたんに、涙が溢れた。
「参ったな」
「ダヴィド、泣かせないで下さい。セナは調子が悪いんですよ」
「ああ…………」
驚いたのは星南もだった。泣く事を考えてはいたけれど、それで泣けるほど涙腺は弱くない。泣き顔を隠そうとして、涙をローブに押し付ける。茜色の柔らかな生地はあっという間に水気を吸って、何事も無かったかのように乾いてみせた。
なにこれ。
ぱちぱち目を瞬くと、涙が睫毛の先からポタリと落ちる。それもシミを作ったのは一瞬で、すぐに乾いて茜色に戻っていった。
「すまん、セナ。そんなに親恋しい歳には見えなかった」
「もう良いでしょう。ダヴィドは先に」
少し馬体が傾いて、後ろに誰かが乗って来る。ローブの上から腕を回して、俯く星南を引き寄せたのは紺の袖だった。
「何泣かされてんだ」
その低い声はフェルナンだ。振り向こうとすると、ぎゅっと背中に密接されて阻止される。
「背筋を伸ばせ、きょろきょろするな。後はしっかり、口を閉めとけ。走らせる――――」
言うなりナディーヌ号が嘶いた。前足を上げたのか、落ちそうな程に鞍が傾く。そして走り出すと凄い揺れだ。しかも先は道無き森で、木が不規則にそびえ立つ。星南は涙も忘れて、固まった。
その後ろ姿を見ていたエルネスは、溜息を溢してダヴィドの後ろを追いかけた。フェルナンの機転は実に良かった。
しかし少し遅かった。
もう感付かれただろう。一人の夜さえ泣かなかったセナを、ああも簡単に泣かされるなど、考えてもいなかった。あんな弱った姿を見せられたら、流石に男子には見えそうもない。むしろ今まで泣かなかった方がおかしかったのだ。
「エル、行くぞ」
「ええ」
馬と二人は、無言で歩き始めた。此処から大した距離ではない。斥候に出たフェルナンが位置を決め、そこでウスタージュが枝を落として場所を作っている筈だ。馬を引くダヴィドは、高潔の青を示す深い青色のローブに二振りの剣を装備して、何時もと変わらぬ様子で前を向いている。
甘く見過ぎたのかもしれない。彼は女性には甘いが、男には基本、雑なのだ。
「そんなに見るな、気味が悪い」
「…………酷いですね、減りはしないでしょう」
「いいや、減る」
くくっと喉で笑って、ダヴィドは琥珀の瞳をエルネスに向けた。
「お前にしてはツメが甘かったな」
「えぇ、そうでしょうね」
「俺が甘やかすとでも、思ったんだろう?」
「当然でしょう。何年、傍に居ると思ってるんですか?」
エルネスが胡散臭いものを見るような視線を向けると、彼は明るいオレンジの髪をぐしゃっと混ぜた。
「流石に今回は、男子にしておくしかあるまい。蛇人族の女性だなんてバレたら、後宮どころの話では無いぞ」
「…………そうですが」
どうにもエルネスの歯切れが悪い。ダヴィドは首を傾げた。自分と彼の考えは、恐らく大差ない筈だ。種族を隠してこの国を出る。ともかく十年保護すれば、無事に祖国へ返せる機会もある筈だ。
「ダヴィドは、出来るんですか?」
唐突な問いに、何をだ、と聞き返す。エルネルは知っているんですよ、と言葉を続けた。
「貴方、男装の令嬢をエスコートしようとして怒らせたでしょう。躓いたところを抱き寄せて、尚且つ抱き上げたりもしましたね?更に…………」
「ちょっと待て!」
ダヴィドはぎょっとして足を止めた。数歩先まで進んだエルネスが振り返り、フードから覗く口元に不機嫌さを滲ませる。
「…………何です?如何に貴方が不安要素なのかを、今話しているんですが」
「何年前の話だ。知識者以下の話だろう?」
「あれから、あまり変わったようには思えません」
何という言い草か。これだからお互い、色々知り過ぎている幼馴染は怖いんだ。ダヴィドは両掌をエルネスに向け、どうどうと馬のように落ち着かせようと試みた。
「お前が変わり過ぎたんだ…………いや、そんな事はどうでもいい。ガキの頃のフェルナンみたいに扱えば良いんだろう。折角拾った命を、むざむざ危うくするものか」
「…………期待しています」
ツンとした態度で、緑のローブが翻る。そのまま足早に森へと進む後ろ姿に、馬と残されたダヴィドは思わず言った。
「何をイライラしているんだ…………?」
その問に隣の荷馬が鼻を鳴らす。エルネスにおいて行かれた不満のように、バサッと茶色い尻尾が大きく揺れた。ダヴィドは黙って馬首を叩いて同意を示す。
「心配するな、すぐ追いつける」
歩く速度を上げながら、暗い森へと分け入って行く。暗緑の森は広大で、聖ネルベンレート王国側にはみ出す部分は全体のたった二割に過ぎない。残りは結界に守られた青石の国の土地なのだ。
青き森の民、蛇人族の国。
二百年に渡り鎖国を続ける、水の王国――――
「あの方は、存命なのだろうか」
会ったのは一度きり。
自分もエルネスも知識者に満たない、見かけだけ大人の頃だった。艶やかな長い黒髪に、曇り空のような灰色から青へと変わる不思議な瞳の、美しい女性。彼女はクレールという名の『始まりの十人』の一人で、臨月に近い身重の身体だった。
いずれ生まれるこの子を守って――――
その願いは叶ったのだろうか。直ぐに祖国へ連れ戻された自分達には分からない。けれど、多くが命を落とした事は伝え聞いている。
その中に、彼女が居た事も。
未練なのだろうと、自分でも分かってたいた。親を持たない始まりの人。十に分かれた神のひとかけ。その存在が、手の届かないものであっても――――ひと目で心を奪われた。
堅い結界の向こうで、まだ生きては居ないかと願いながら。必ずこの地に来てしまう。この時期に聖ネルベンレート王国へ来たのは偶然ではない。
俺達は、墓参りに来たのだ。