2-28:こだま
幼い顔がみるみる大人になっていく。短い髪は豊かに伸びて、細い身体が大人の丸みと色香を放つ。
星南は別の女性に姿を変えた。
楚々として艶やか。彼女自身が果実のような、湿度をもった甘い雰囲気――――女神の化身。
「…………クレール様」
ダヴィドの声が掠れた。身体の芯を鷲掴みにされたような、苦しさと飢え。顔を歪めると、星南の声が名前を呼んだ。
「幻覚か!」
怒りが声を震わせる。死者の幻は、作る事が出来ない筈だ。普通の神人ならば。それを無意識に除外していた分、対応を間違えた。
「分かっていたよ。君の一番は違うって」
「何のつもりだ!」
エヴァはパンと手を叩く。星南の見ていた海の幻も一緒に消えて、灰色の石煉瓦が視界に戻る。ガス灯が拙く照らす、家具の少ない部屋だ。
見上げたダヴィドは硬い表情で、対するエヴァはニコニコと楽しそう。またかと思った。この二人、どうも一緒にするとダメなのだ。
「ダヴィドさん」
ともかくダヴィドを呼んでみる。エヴァは基本的に、あてにならない。
「…………ああ」
揺れるオレンジの髪。琥珀色の瞳がきつく閉じて、再び開いて星南を映す。それはもう、普段の穏やかな表情だ。
「無事か?またぶっ倒れるかと思ったぞ…………」
どうやら心配させたらしい。大丈夫です、と笑って見せる。
最近、少しだけ祝福の気配が分かるようになった。といっても気のせいに近い、微妙なものだ。分かると言って良いかは、自分でも首を傾げてしまう小さな違い。それが今は、白飾銀を身に着けていないせいか、いつも以上に鮮明だった。
「エヴァとダヴィドさんの周りにだけです。私は、効果に触れてませんよ。だから大丈夫です!」
「そうか」
わしゃっと頭を撫でられる。それで星南の視界を隠し、ダヴィドはエヴァに殺気を向けた。
「いい加減にしろ。お前と違って、俺達は先を急いでいる」
「僕だってそうなんだけど」
「セナとフェルナンを三日も寝たきりにして、どの口が言う!」
「えっ!?」
頭からダヴィドの手を退かす。悪いのはアイツだ、とエヴァを睨む琥珀色が見えた。一日以上寝ていただけでも最悪だ。おさがりの白飾銀は不良品に違いない。へらへら笑うエヴァを睨んで、ふと約束を思い出した。
なんて最悪なタイミング。
「あの…………ダヴィドさん」
星南はげんなりした。三日も起きられなかった時点で、ダヴィドが怒っていない筈がない。しかし、約束は約束だ。
エヴァがどんなにフリーダムでも、自分に対する扱いが酷くても、守らねば約束をした意味がない。ググっと拳を握る。相手にその気がないからと、合わせていたら歩み寄りなど、夢のまた夢。いつかエヴァとだって、仲良くなれると思いたい!
「エヴァはあの!ええと、理由はよく分からないですけど、凄く楽しそうだったんです」
「…………だろうな?」
ダヴィドは嫌な予感がした。彼女は不利な方を助けようとする、所謂良い子。
「鎖国の国から来たから、色々とその、ええと羽目も…………外したくなるんだと、思うんですよ」
「いいかセナ。アイツを庇う必要なんて、何処にも無いからな。同族愛にでも目覚めたか?ならば止めておけ。エヴァは珍種の神人だ。お前とは違う」
庇おうとした事が、あっさりバレた。星南は言葉に窮する。
そもそも、エヴァと自分が同じだなんて、思った事は一度もない。それに、庇う要素がない事にも、庇おうとして気が付いた。
きっと引き時なんだろう。
チラリとエヴァを見ると、ふくれっ面だ。それがまた可愛く見える。なんであれが五百歳なんだろう…………納得いかない。
「ええっと、私と全然違うって事は、分かりますよ?祝福だって封じているのに、色々出来るし、何でも知ってるし。でもエヴァは、悪さがしたくて、したんじゃないと思うんです…………うん、そうっ!悪い子じゃないんですよ!!」
最後の方はやけくそだ。搦め手にするしか、もはや庇えるものがない。
エヴァは日頃の行いが悪すぎる。
「…………あの星南。僕はちょっと、怒られた方が良いかもしれないって、気分になってきた」
「えっ!?」
白旗を上げたのは本人だ。まだ庇いきれないと、決まった訳じゃない。ムッとした星南に、ダヴィドがクッと笑いを堪えた。
「成程、エヴァは悪い子どもか」
「違います!悪いだけじゃないんです!!」
「じゃあ、どんな子だ?」
「悪戯っ子?」
エヴァが額を押さえた。精一杯オブラートに言ったのに、お気に召さなかったらしい。我儘め。
「面白い。よって罰は減じよう」
肩を震わせながら、ダヴィドが言った。何だか釈然としない。けれど、庇う約束は果たせたようだ。ありがとうございます、と頭を下げる。それで余計に、エヴァが居たたまれない思いを味わった。
まさか、そういう庇い方をされるとは思わなかったのだ。
何故に搦め手。
人族の祖。始まりの十人であるエヴァに、親は存在しない。居るのは数多の子孫達。子どもは居ても、自身が子どもとなる事など不可能だ。見た目の幼さは女神の趣味で、どうにも出来ない事である。それを持って庇われたのだから、心境は複雑だ。
「セナは身支度をして、そこの部屋で待機だ。出来るな?」
「はい!」
ダヴィドの膝から飛び降りる。拭かれた足が汚れたけれど、元々裸足だ。仕方ない。エヴァも諦めの表情で手を振っている。次は自分で拭くよ、とジェスチャーを送ると、疲れた笑顔を返された。
大人しくて何よりだ。
「食事はそこに運ばせる。何かあればエルに言え」
「了解です!」
スカートの横をつまんで、ちょこんと膝を曲げてみる。習った女性の挨拶だ。しかし星南は夜着なので、ダヴィドも額を押さえざるを得なかった。なくても胸元は気にするべきだ。夜着の襟ぐりは深かった。
ペタペタ走っていく少女に、クレールの面影などない。
そう思って、小さく安堵する。竜人族は火の血筋。最愛の水の女神が大気に還った事を嘆き、自らも後を追ってしまった神の血を引く。良く言えば一途。悪く言えば粘着質だ。
「ダヴィドはそれで、良かったの?」
エヴァが静かに此方を見ている。
「最良の相手だろう?クレール様は、誰もが知る水の姫君。疑われる可能性も低かろう」
ダヴィドも静かに視線を返す。水の神人、女神の化身。クレールは水の国の姫にして王家統括。事実上の女王だった。彼女はダヴィドの思惑に気付くと、条件ひとつで秘密を守ると約束をした。
「いずれ生まれるこの子を守って――――私はこの子から愛されない。きっと恨まれてしまうから…………だからダヴィー、手を貸して欲しいの。親の愛を知らずに育つ子を、貴方が守って頂戴」
妊婦の言う事だろうか。
ダヴィドはそう思った。クレールは確かに女神のように美しく、血筋や本能を抜きにしても、男を惑わすには十分だ。耳元で囁くような、完全で甘い思念語の言葉。少女のように可憐に見えて、老婆の狡猾さを知っている。
国の為に子を成した。
赤子は文句を言わないし、何が嫌かも知らない命。彼女はそれを、和平の為に自ら孕んで差し出すという。恐ろしい女。
夫のエヴァとは、それでケンカをしたと言う。
神人は多産であっても、子への情は深いもの。なり手のいない婚約相手を、自分が産めば良いと考えたりはしないだろう。ダヴィドは少年のように小柄で、青年らしくしなやかな体のエヴァを見た。昔からの変わらぬ姿。女神の願いが創った大神の形代だ。
「ダヴィドは単に、結婚が嫌だったんだろう?クレールに片思いすれば、それは一生叶わぬ恋と誰もが悟る」
「嫁を迎えるなんて、枷が付くようなものだと思っていた」
溜息が零れる。エヴァに突っかかってみたのも、クレールの夫だからだ。苦しい片恋の演技は、すっかり板に付いていた。その筈だった。
「何時から気付いてた?」
「二百年前だよ。君は恋する眼差しなんて、していなかった」
「…………それは、どうにもならんな」
やれやれと前髪を掻き上げる。石床にエヴァの靴音が響いて、近寄る姿が見えた。
「これで僕と、張り合わなくても良い筈だよね?」
「お前も条件付きか」
座ったままのダヴィドを見おろし、美女じゃなければ嫌かな、と水の神人は微笑んだ。
「顔だけ良くてもどうにもならん」
「言ってくれるね。夫の前で」
「――――条件を言え」
「本当に君って、可愛くないな」
エヴァはニコニコと笑いながら、ダヴィドの頭を撫でた。その気配が悲しみの色に変化する。顔は笑顔なのに、器用なものだ。
「星南はクレールの最期の娘。正真正銘、君が娶る筈だった赤子だよ。聖王エリゼは、その権利を放棄した。ダヴィド、君にも同じ事をして欲しい」
「二百年前に捨てただろうが」
溜息交じりに答えると、その気がないのと放棄は違う、と鋭い指摘が飛んできた。
「俺が星南を欲しがると問題か?」
「あの子は水の血筋。青石の国以外では、生きていけない」
「妻の代わりに囲うつもりか。最低だな」
「…………違うよダヴィド」
エヴァはそれでも笑顔だった。絶望に似た悲しみに包まれながら、彼は決して笑顔を崩さない。それが逆に不気味でもある。
「クレールの姓を名乗れる神人は、もう殆ど居ないんだ。女児は、あの子が最後のひとり。意味は分かるね?」
水の血筋が絶えようとしている。ダヴィドは呆然とエヴァを見上げた。
…………綺麗な顔。
隣の部屋に入った星南は、ベッドに横たわるフェルナンを見て思った。普段は怒ってばっかりだから、寝てると別人みたいだ。少し触ってみたい。けれど、それで起こしたら確実に怒られる。
どうしよう。
そう思ってソワソワしていると、続き部屋からエルネスがきた。
「どうしました?」
「お、起こすのかなってっ」
シャツに緑のローブ。手袋のないしなやかな指が、薬の小瓶を摘まんで見せた。
「気付け薬を試すところです」
「…………臭い方ですか?」
「飲ませる方です」
それって確か、毒じゃなかった?
寝ていられないような、吐き気がするやつ。星南はベッドによじ登り、寝ているフェルナンを跨ぎ越す。慌てて両手を広げて、エルネスの前に立ちはだかった。
「それはダメです!待ちましょう!!」
「三日も待ちましたよ?」
エルネスは不思議そうな表情だ。悪いという認識は、きっと無い。
「他の方法を試しましょう?薬に頼るのは、良くないと思います!」
「これで起きなければ、私はエヴァを粉砕するつもりですよ。セーナも一緒にどうですか?」
「えっ!?」
実は凄く怒ってる?顔色を窺うものの、機嫌は悪くなさそうだ。
「そんな事しても、エヴァは死にませんから!薬にもなりませんから!!」
「では…………どんな事をすれば、起きると思います?」
うーんと背後を顧みる。
「ええと、どうして起きないんですか?」
根本的な事を問うと、色不足を補おうと花蜜祝福を使ったそうで、と回答された。知らない名前の祝福だ。しかし引く事は出来ない。
「フェルナンはまだ、色不足なんですか?」
「違うでしょう。顔色も悪くありません」
「なんで三日も寝てるんですか?」
「…………エヴァに聞いて下さい」
「エヴァですか」
そこで会話が途切れた。エルネスは瓶を近くの机に置いて、星南の側にやって来る。
「貴女、まだ裸足なんですか」
「だって靴が無いんです」
「ならば、ベッドから降りるべきではありません。少しは待つ事を覚えなさい」
「…………はーい」
心のこもらない返事に、眉をひそめられた。だったら靴を隠すな、という話だ。しかし少しだけ怖かったので、再びフェルナンを跨ぎ越し、エルネスから距離を取る。
「フェルナン…………寝不足なんですか?」
星南には、顔色が良いとは思えなかった。色白男子という時点で、どこか不健康なイメージだ。
「寝不足かは本人次第ですね。今問題なのは、神人ではない私達が眠り続けるという事は、リスクだという事です。筋力や体力の低下は、この先の行動に響きます。最悪、留守番ですね」
「そんな!」
思わず叫ぶ。それでもフェルナンは眠ったままだ。深い眠り。目が覚めないのではと、きっと心配していただろう。薬を使ってまで起こそうとした。それが毒と知ってから、星南は使用に反対である。代案を出さねばならない。
「あの、薬以外で、方法は無いんですか?」
「例えば?」
ベッドに腰を下ろして、彼はフェルナンの前髪を梳いた。サラリとした髪質は、エルネスのそれと少し似ている。気安い仕草に、そういえばこの二人は親戚だっけ、と思い出した。身内である。薬とかそんな丁寧な手段じゃなくても、起こす方法はある筈だ。
「身体を揺するとか?」
「初めにやりました」
「大きな音をたてるとか!」
「貴女が今も、騒いでいるでしょう?」
「うぐっ…………じゃあ、お風呂に入れるのは!?」
「寝ているフェルを?」
これだ、と星南は閃いた。どんなに眠くても、シャワーを浴びれば目が覚める。
「フェルナンをお風呂に入れましょう!」
「貴女にそれが出来るんですか?」
「入れるのはエルネスさんです」
寝ている人間をお風呂に入れるのは、重労働だ。しかも途中で起きられたら、目も当てられない。
「目覚める為に何をするのか、分かりませんが」
エルネスはどこか楽し気に言う。お風呂好きそうだもんな、と星南は呑気に考えた。
「熱めのシャワーが良いんです。体温が上がると、人は目が覚めるんですよ!」
したり顔で教えると、ニコリと美貌の青年は微笑んだ。
「ではセーナ、貴女は噴水の再現をして下さいね。足もついでに洗いましょう」
「噴水?」
この世界にシャワーは存在しなかった。あるのは、熱湯リバースのカタツムリ。明らかに誤訳だ。
「えっ、エルネスさん、噴水じゃなくってっ!」
「さて試してみましょうか」
きゅっと腕を掴まれる。そのまま彼の方に引き寄せられて、あっさり肩に担がれた。パサリとシーツの捲れる音に振り向けば、寝ているフェルナンの素肌が見える。彼は何も着ていないのだ。
本日二度目の悲鳴が、こだました。




