2-27:青かった
「星南を噛んでもいいんだよ?」
「黙ってろ!」
腕が震える。誰の為に、こんな状況を作ったと?星南にだけは手を出せない。
「エヴァ、こっちに来い」
「…………なんで僕かな」
水の神人は嫌そうな顔をした。おそらく彼は、噛まれた事がある筈だ。ならば都合も悪くない。
「星南に血がつく。腕を貸せ」
「ねぇフェル、君はどっちの色が欲しいの?片目が竜人族みたいになってるよ?」
「つべこべ言うな」
「…………流石に肉まで食べられたら、回復に時間が掛かるんだけど」
「いいから来い」
「天人族ってどうなってるの…………」
エヴァはローブを落として、ジャケットも脱ぐ。シャツの腕を捲りながら、渋々その手を差し出してきた。
「逆負担だけはやめて。それだけはやめてよ?」
男にしては細い腕。青年というよりは少年だ。フェルナンは手首を捕らえて視線を上げた。
「完全負担してやるよ。どうせ持ち直したら娼館だ」
「それはどうなの」
エヴァは顔を歪めた。嫌悪されても仕方ない。生あるものを求める血筋。だから色使いになれるのだ。初めから神の力を宿す神人に、理解されなくても構わない。
「使える力を使って、何が悪い」
引き寄せた腕に歯を立てる。犬歯が沈んで、命の色が流れ出た。フェルナンは顔を顰める。
やっぱり不味い。
苦くて渋くて生暖かい。それでも欲しいと身体が望む。血の色、身体…………その生を。
本能が求めるという事。
それは人を死に向かわせるほど、辛いと聞いた。けれど実感は無かったし、ダヴィドに言わせれば軟弱の一言だ。
グリッと牙が傷を抉った。
エヴァの呻く声がする。それすら最早どうでも良くて、更に深く噛み付いた。流れる色が渇きを癒す。確かに不味い。なのにもっと欲しいと何処かで思う。頭がおかしくなりそうだ。瞳を開けると白い素肌が飛び込んでくる。何故か、パウンドケーキみたいに美味そうだ。
口を開いた。
ガブリと別の場所を噛みしめて、やっぱい不味い血の味がした。それでどうにか正気になった。人肉なんて食ってられるか。半分は食の竜人族。それでもヴェールを冠する名を持つからには、血の流れは魔人族だ。食べても色は回復しない。
「悪い」
「…………もういいの?」
腕を放すと、エヴァの傷はみるみる治る。やれやれと腕を擦って、血の香漂う少年はフェルナンを覗き込んだ。
「少し寝かせてあげようか?」
「祝福を使うなって、分からないのか」
「分かってるって。星南でも大丈夫なのがあるんだよ。起きてると色々辛いでしょう?後は任せて」
「任せられるか!」
動くとズキッと頭が痛む。額を押さえてエヴァを睨むと、まだ顔色良くないよ、と彼は安定のニコニコ顔だ。
「お前の何を信じろと?その要素が何処にある」
「ふふふ、手厳しいなあ」
エヴァは呑気なものだった。気分の悪さに閉口すると、片腕で支えていた星南が身じろいだ。顔色が少し戻ってきている。
「この子は大丈夫だよ。まだ時空の歪みはあるけれど、神人の子どもは本来、回復力が高いんだ」
「歪みは何処にあるんだよ。コイツはそれを、治した筈だ」
星南の色づくまろい頬。閉じた唇は小さくて、薄さの残る子どものそれだ。だからか余計に儚く見える。眠っていると、危うさしか感じなかった。
「時空の歪みは十日だよ。この子は何日、蜜漬けにされてたの?」
「三日だ…………それで目覚めた」
「七日足りないよ。だから星南は、不安定なままなんだ」
フェルナンはエヴァの顔を仰ぎ見た。灰色の瞳は憂いを湛えて青みが深い。うわべは泉のように澄んでいて、底は沼のように深い闇。成人なのに背が低く、神人なのに短い髪の異端者だ。そして彼は、信頼を得ようともしない秘密主義。
「自力で順応出来んなら、それで良いだろう」
仲間ではあるが、背中を預けられない不気味さがある。星南に余計な手出しをされたくはない。
「良くないから言っているんだ。ねえ、協力してよフェル。回復を促す花の蜜は、強い眠りを誘うもの――――ひとりで何日も閉じ込めてしまうと、神人の子どもは順応して目覚めてしまう」
「…………まさか、一緒に浴びろって?」
「名案だと思わない?色不足だって解消するよ」
「七日も眠って居られるか!」
フェルナンは、ジトッとエヴァを見た。寝てたら分からないよ、とエヴァは頬を掻いて誤魔化している。怪しげな軟膏が手袋を汚した。
「見てよフェル、祝福のない神人は無力だ。指先の汚れすら落とせない」
「それが普通だ」
「不便だね」
エヴァは手袋を放り投げ、その手で星南をふわりと撫でた。
「僕はこの子が大事だよ。でもそれは、過保護にするのとは違うんだ」
黙っていると、今度はフェルナンが撫でられた。くしゃりと前髪が混ぜられて、日の光が目に入る。エヴァを睨むが、何時ものような鋭さはない。
中途半端に色を足したせいで、余計に気分が悪いのだ。それをエヴァは知っている。だから引く気も全くない。
「じゃあ、三日と四日、分割でどう?」
「やめろ…………何で俺が、星南と蜜漬けにならなきゃならないんだ」
「ダヴィドとエルじゃ、星南に悪戯しそうだし。君が良いんだ。フェルは星南を大切にしてくれる――――それを、よく分かったんだよ」
視界の隅で、エヴァの腕が青くなる。おびただしい量の祝福印。なんだこいつは。ハッと瞳を見開いて、次の瞬きで眠くなる。
「気に入ったんだよ。ヴェール・クレール・フェルナン。僕もダヴィドと一緒に、君を捨てた父親を懲らしめてあげる。だからまず三日、星南をよろしくね?」
そんな事は、望んでねぇよ!
叫んだつもりが声にならない。
「僕は子どもが好きなんだ」
エヴァは二人を抱きしめて、ニコリと瞳を細くした。二度と会えない妻が、最期に残した子どもは少女。生まれ難い女児なのだ。
頬に何か触れている。それで星南は目を開けた。
「良かった。気が付きましたね」
エルネスの顔が近くにあって、心配そうにこちらを見ている。起きているのに夢みたいな美しさ。エルネスさんは、本当に綺麗だ。頬でサラサラ黒髪が揺れ、それをぼんやり見てしまう。
「まだ悪いようですね。エヴァを呼びましょう」
彼は身を起こした。それで頬から指が去っていく。
「すぐに戻ります」
相変わらず、顔以上に声が優しい。それでもう一度微睡みかける。夢の入口でエヴァが笑って、星南はガバっと飛び起きた。
「寝てる場合じゃない!!」
あれから、どうなったのだろう。見覚えのないベッド、自分の姿は白い夜着。また知らない間に着替えさせられている。今度は誰がやったんだ。色気も膨らみもない身体でも、そういう事はやっぱり困る。無事に終わっている事にも、敗北感が否めない。
「くやしい…………!」
いつかボインとした、ダイナマイトボディーになってやる。星南はエルネスの消えた方の天蓋を開いた。厚い生地の向こうは、質素なガス灯の燃える室内だ。石煉瓦の武骨な壁と木の机、椅子がひとつ。ギルドの寮に似ている。窓には木戸が閉じていて、どうやら夜らしい。
部屋に一人という事は、空間祝福の中だろう。エヴァはきっと、すぐに来る。薄汚れた床に素足を降ろし、星南は迷わず入口に向かうと扉を引いた。
「あれ?」
白い壁に赤い絨毯。決して広くは無いけれど、部屋と違って豪華な感じ。天井に並ぶガス灯は、花のような可愛い形をしていた。右を確認、左を確認。長い廊下に人の姿は見当たらない。そして窓も見当たらない。
なんだここ。
予想外の内装に、そろりと廊下に忍び出る。部屋は質素で廊下が綺麗。普通逆では無かろうか。隣の部屋をこっそり開ける。寝台と机がひとつだった。間取りの同じ部屋である。
寮なのだろうか。
こうなると、次の部屋も覗いてみたい。スタスタ廊下を進んでいると、ガシッと腰を掴まれた。
「っ!」
そのまま身体が宙に浮く。首を捻ると、呆れた顔のダヴィドが見えた。
「何をしているだお前は。その姿でうろうろするなと、何度言えば覚えてくれる?」
「ダヴィドさん!なんで!?」
溜息交じりに視線が逸れる。廊下の奥には、エルネスとエヴァが立っていた。
「元気そうだよ?」
「そのようですね」
「問題だらけだ、行動が」
「…………すみません」
しょぱなから怒られた。ひとりの時間は貴重である。じっとしていては勿体ない。不満げな星南の顔に、反省の色は当然無かった。
「意外とセーナはお転婆ですね」
「足裏が真っ黒だよ」
「えっ!?」
膝を曲げて見てみると、確かに真っ黒だ。しかしそんな格好をすれば、夜着の裾はめくれ上がって、ふくらはぎが晒される。三人の男達は苦い思いで一杯だ。
「靴を履かないからだ」
ダヴィドは失敗を指摘した。
「良い眺めではありますが、先が思いやられます」
エルネスは将来を危ぶんだ。
「ちょっと育ってしまったけれど、神人の子どもらしく、服を着るのを止めたらどう?」
エヴァが笑顔でキレていた。ダヴィドとエルネスがぎょっとする。
「僕はね星南。自分で見せてしまう場所って、他人が勝手に見ても構わないんじゃないかって、思うんだ」
「えっ!?」
バサッとスカートをめくられる。廊下に悲鳴がこだました。着ているのは夜着だけだ。腰はダヴィドに掴まれたまま、足は宙に浮いている。その状態でバタバタ暴れるものだから、当然悲惨な結果になった。
「君達が甘やかすからだよ」
「…………これはこれで良いんじゃないか」
「私達以外の前では困るでしょう」
「どうでも良いです!もう降ろして!!」
「ダヴィド、星南を部屋に運んで。その足、僕がしっかり拭いてあげるよ」
「了解だ」
「やだ、自分で出来ますっ!」
出来ると何度も言ったのに、ダヴィドの膝に降ろされて、足がエヴァに捕まった。横には苦言を呈すエルネスがいて、聞き流す事も不可能だ。
「コリンヌが泣きますよ」
その名を出されると弱かった。男性への気遣いを色々教えてくれたのは彼女である。失敗すると、コリンヌに迷惑がかかるのだ。
「…………すみませんでした。気を付けます」
「宜しい。貴女の努力に期待しましょう」
エルネスは、きっと駄目なのだろうな、と苦笑した。ダヴィドも、星南が根本的に異性を恐れない限り、習慣にはならないと考えている。エヴァはと言えば、出来なかったら罰を付けようか、と躾ける気満々だ。
「罰は要らんだろう?セナはまだ、子どもだぞ」
「そうですよ。脅して覚えさせる事では無いでしょう?」
「その甘さが、何時か君達の首を絞めるよ?子どもの時期って、あっという間の事なんだから」
溜息をつくエヴァに、ダヴィドは肩を竦めた。
「二十五年は、あっという間とは言わん」
「言うんだよダヴィド。神人は五十で成人だけど、それが終わりでもあるんだ」
エヴァは腰に手を当てて、すっかり三人を叱る体勢だ。
「私はフェルを見てきます」
エルネスがすかさず逃げ出した。ダヴィドの膝で、星南がみるみる青くなる。エルネスに続きエヴァ。そしてフェルナンにも怒られるのだ。彼は滅茶苦茶怒っているだろうから、ゲンコツの一つや二つは覚悟した方が良いかもしれない。
エヴァを庇うから、その二倍。
いくら石頭でもキケンな数だ。想像して頭を抱えていると、肩をダヴィドに叩かれた。
「心配するなセナ。フェルには怒鳴る元気が、丁度ない」
命拾いしたな、と琥珀色の瞳が苦笑する。何があったんだろう。ダヴィドとエヴァを交互に見ると、五十歳は終わりの歳なんだ、と話が元に戻された。
「神族は思念体って、それは知っているね?」
「神人も精神の投影された姿だろうが」
今更何をといわんばかりのダヴィドに、エヴァが口角を上げる。
「それは君達の思い込みだよ。神人は五十で成長が止まる。肉体も精神も、そこから育ちはしないんだ。人族だからね、意思は肉体に宿るもの。肉体ありきの意思なんだ」
ダヴィドの表情が険しくなった。その理由が星南には分からない。神人は死なない。老いも病も存在しない、人外的な存在だ。五十で身体の時間が止まり、精神の成長も止まってしまう。それが何か悪いのだろうか?
「その話を、何故俺に聞かせた?」
「僕はね――――」
エヴァの瞳が青くなる。彼を包む空気までもが海のように揺らめいて、まるで水中だ。星南はダヴィドにしがみ付いた。宙に浮かび上がってしまったエヴァは笑い声を洩らすと、これは幻覚だよ、と種を明かす。
「何のつもりだエヴァ。星南は白飾銀を…………」
「何だか大丈夫、みたいです?」
「なに?」
星南と顔を見合わせる。その瞳は青かった。




