2-21:休暇
期待に満ちた灰色の瞳。見上げる眼差しを遮るように、フェルナンは手を伸ばした。
小さな頭。滑らかな黒い髪。何故こんなところに付くのやら、眉間のインクを指で拭って、そのまま頬をムニっとつまむ。相変わらず肌質だけは満点だ。
「いたい、です」
「お前、目的を忘れたんじゃないだろうな?」
「…………居、間に」
「ならサッサと歩け」
肩を掴まれ、無理やり前を向かされる。背後から聞こえる溜息に、多分、と星南は拳をググっと握り締めた。いきなりフェルナンという選択がダメなのだ。もう少しフレンドリーな相手にしよう。ダヴィドさんとか!
何故か浮かれる前方の気配に、フェルナンはげっそりとした。一体、どこから友達という選択肢が現れたんだ。パーティーのメンバーと言えば、既に普通の友以上。信頼できなければ、命など預けられない。
――――疲れる。
星南の相手は疲れるのだ。こめかみを揉んだが、どうにも溜息が止まらなかった。
居間に入ると、ひらりとダヴィドが手を振る。その横にはエヴァが居て、彼も真似して手を振った。荷物を抱えたままで良かった。星南はムスッと二人を睨む。これに釣られて片手を振ると、男に手を出すな、と叱られる罠。そのまま無視して、エヴァに詰め寄る。
「今までドコに行ってたの?みんな心配したんだよ?ちゃんと夜までに帰って来ないと、ご飯何人か分かんないし!迷惑かかるんだからね?空間祝福あるからって、何日留守にするつもりだったの!?私、ココから出られないんだよ!!」
言いたい事を一通りぶつけると、彼はへらっと気の抜けた笑みを浮かべた。
「僕はずっと水都に居たよ。心配してくれたの?」
「荷物を置いてきたらどうだ?」
そう言うダヴィドを、ジトッと見上げる。お友達作戦は、すっかり頭から抜け落ちた。
「ダヴィドさん、私、エルネスさんに文字の練習を見て貰ったんです!」
「なに?」
「大変な事になってたぞ」
そう付け足して、フェルナンがエルネスを呼びに踵を返す。ダヴィドは額を押さえて呻いた。
――――余計な事を。
たどたどしくて難解で、更に間違いだらけ。それが最高の男除けになる。彼女は水の神人。言い寄る奴は虫の如く湧くだろう。返事の書き難い手紙は、代筆を頼む暇人に打って付けだ。
「俺は、慌てて上達する必要が無いと思っている」
「ダヴィドさんが優しいのは、ちゃんと分かりましたよ。でも、それじゃぁダメなんです!」
ダヴィドは前髪を掻き上げて、嘆息した。ほらと腕を差し出し、星南の顔色を窺う。何も分かっていないから、苦労しているんだが。
「な、なんですか、その手は…………」
彼女は最近、触れようとすると逃げるようになった。兄弟揃って余計な事を。フェルナンが神人の成長について話したらしい。
「荷物を貸せ。茶を入れてやるから、エヴァと待ってろ」
「あ、ありがとうございます」
その様子を見ていたエヴァの視線が、若干痛い。
「星南、何かされたの?」
「え?」
何もない、と即座に言って欲しいものだ。セナはこう、テンポが少しずれている。一応、一通りの踊りや楽器をやらせてみたが、やはりリズム感が悪かった。それはそれで面白く、ダヴィド的にはアリだったのだが…………残念ながら、本人が不得手に気付いた。
女性は思慮深い方がいい。
そう思うダヴィドの気付かせる教育方針に、エルネスは詰め込み教育を主張する。結果、山のような課題にセナは目に見えて窶れた訳だが…………ダヴィドは素知らぬふりで、茶器を揃えに隣室のキッチンへ引っ込んだ。子育ては意外と奥が深い。思い通りに育ったならば、それはそれで詰まらない、ものなのかもしれない。
本職のお手並み拝見、というところだ。
「あのねエヴァ。神人の子どもって、どうやって育てるか知ってる?」
「成長を願うんだよ?」
「触りながら?」
「…………ああ、それを気にしているんだね?」
彼は納得顔で、うんうんと頷いた。
「それはある意味、事実なんだけど。神人同士の方が効果はあるし…………」
青みのある灰色の目を細めて、エヴァは星南の髪をひと房、手に取った。
「血の繋がりがあれば、その効果は更に大きい」
彼は困ったように笑って、するりと髪から手を離す。長い髪は嫌いかい、と問いかける表情はすっかり明るい笑顔だ。
「神人は髪を伸ばすって聞いたけど。私、ロングにした事ないんだ。だから長いのはちょっと困るなって」
「うーん、実はね…………水の国では、髪先に口付ける習慣があるんだ」
「えっ!?」
「神人は肌を許さない、という決まりがあって。だから信頼を預ける者にだけ、その行為を許すんだけど」
例えば、とエヴァはティーセットのトレーを持って来たダヴィドに視線を向けた。
「竜人族に指先を許したりしたら、そのまま噛み付かれかねない」
「否定はせんが、噛むのは魔人族の管轄だ」
「何です、その管轄は」
フェルナンとやって来たエルネスが、呆れた声で反発する。
「骨ごと噛み切る竜人族と、一緒にされては困りますね」
「僕らにとっては、どっちも変わらないけど…………まぁ、こんな事故が起こらないように、髪先を使うワケ」
一先ず、髪は全力で伸ばした方が良いらしい。指先にキスも御免だけれど、ガブッていうは絶対ダメだ。
「よし、全員揃ったな」
華奢なティーカップを並べたダヴィドが、慣れた手つきでお茶をサーブする。爽やかなミントの香りが広がった。
「一応言っておくがエヴァ、パーティーからの無断離脱は懲罰ものだ。相応の収穫は、あるんだろうな?」
「勿論だよ」
エヴァはにっこり微笑んだ。
コルネイユ島から本土を越えた向こう側、青海の海中宮殿に住まう海の神、海王神。その神様は全ての水都を纏める存在であり、水の血を引く人々の守護者でもある。しかし現在は、青石の国からの入国を、全て拒絶しているらしい。おかげで青海は荒れやすかった。ここ二十年は、ろくに船も出せないと聞く。
「海王神は本来、温厚なんだ。青石の国の蛇人に対しては、当たりがキツイくなったけど。まぁ妻の祖国を苦しめ、女神の欠片を散らせたのだから、仕方ないと言えばそうなるね」
「刺客に水の神人を使ったのは、やはりかの神なのか?」
ダヴィドが首を傾げると、エヴァは苦笑した。
「そうだよ。水都も平和だけ、という事はなくってね?犯罪だって起きる」
「…………罪人か」
エヴァの笑みが深まる。首を傾げる星南に、悪い事をするヤツは何処にでも居て、とおどけてから、それが神人だったら一苦労、と彼は笑った。
「神人も悪さをするの?」
いきなり始まった海王神の話。多少の予備知識はあっても、星南は付いていけない。エヴァは丁寧に水都の話をし始めた。規模や人口、景観のすばらしさ。空を飛ぶように、水の中で生きる事。
エルネスが溜息を溢す。隣でフェルナンが肘を突いて目を閉じた。ダヴィドは笑いを堪えて、真面目に話を聞くセナを見る。
彼女は驚くほどの水嫌い。
足のつかない水溜まりを見ただけで、顔色を悪くする。子どもの頃に溺れた事があるらしいが、溺れる水の神人なんて勿論想像できない…………水都に住まわせようとするエヴァの目論見は、失敗だ。
「あのねエヴァ。お魚はガラス越しに見るのが一番だよ」
「…………うーん」
「それで、海王神は罪人を洗脳できるのか?」
隙を見つけて、ダヴィドが会話に割り込んだ。エヴァは流石に弱った笑みを浮かべていて、ついでに気分も少し良い。
「神が出来るのは、洗脳ではなく傀儡だよ。神人の過剰祝福が、他の人族の心を失わせてしまうように…………過ぎた祝福は、神人にでさえ辛いもの」
「罪を犯す心が無ければ、か」
「水都は神の領域。人の感覚で統治されていない」
「ですがエヴァ、何故そんな神人を私達は嗾けられたんです?」
「海王神は、生き残った蛇人を殺したかったんだよ」
そもそも、と彼はダヴィドを指さした。
「蛇人の少年を保護したのは、フー・ダヴィド。生半可な刺客じゃ役に立たない」
「俺は化け物か?」
ダヴィドが慨然として腕を組んだ。ふふふ、とエヴァは笑って、自覚ないのと毒を吐く。
「私とフェルナンが一緒では、海王神もお困りでしょう?」
エルネスはクスクス笑った。
「下手な事をしたら、風のセザールに八つ裂きだからね。それで、木偶にした神人を向かわせたワケ」
星南は唸った。神様の恨みを何処で買ったのだろう。心の中でディスり過ぎた?これからは少し気を付けないと、命が足りない。
「でもこの件は、解決済み。海王神は味方だよ」
「えっ!?」
話の分かっていなかった星南が、一人驚いた。
「君は水の神人。海王神の殺したい蛇人では無いんだよ?」
「だから、もう襲われないの?」
「うん」
エヴァが微笑む。危険が減って良かった。そう思うのに、何かが腑に落ちない。なんだっけ、と首を捻る。
「続きは明日にしよう。眠そうだね星南…………そろそろ休むといいよ」
くしゃりと頭を撫でられて、急に眠い気分になってきた。
「――――よし、酒でも飲むか!」
ダヴィドが明るく言い放つ。
「何が酒ですか、こんな時に!」
「僕の帰還を祝ってくれないの?」
「わっ、私、寝ます!」
お酒を飲んだら泣き上戸。星南はすっかり、飲酒に及び腰だ。そそくさ逃げて行く後ろ姿を、影のようにフェルナンが追う。護衛付きの行動に、彼女はいまだ慣れないようだ。二人の気配が十分に離れてから、ダヴィドはエヴァに問いかけた。
「何だ、聞かせられない話か?」
少年めいた姿の神人は、明るい表情を陰らせた。
「二人は青石の国の事、何処まで知ってる?」
「神人側の青石の国。蛇人と事実上の国青石の国で分裂した事か?」
「二百年間ずっと、二分していると聞き及んでいますが」
エヴァは沈痛な面持ちで、窓の外、暗い海を眺めた。
「僕らは寿命が無い。蛇人族も勿論長命だ。青石の国に囚われた身内は人質であり、脅迫材料なんだよ。僕らがそれに屈した事は、無いけれど…………結界が解ける時に逃げ出す蛇人は、青石の国側の奴隷――――僕らの血筋って訳さ」
「奴隷であっても、交渉材料ではありませんか」
エルネスの秀麗な顔が歪む。この大陸における奴隷制度は、それぞれが国となった三百年前に廃されている。それを蘇らせたとなると、青石の国内は身分と貧富の差が激しいだろう。
「人質は幾らでも産ませればいい。そして殺せばいい。開国派の青石の国は、聖国に蛇人族を売り込む事で、価値を保とうとしている」
「…………なんて事を」
薬として売られる蛇人は奴隷で、そうでない蛇人は人族という擦り込み。見た目は同じでも、生まれながらに他者より勝る。それがどれ程甘美なものか。
「蛇人族がそれでは…………」
エルネスの肩を励ますように叩き、ダヴィドはエヴァに笑顔を向ける。
「何故、海王神は蛇人を殺す?しかも今回に限り」
普段通りの声音。悔しいくらいに琥珀色の瞳は澄んでいる。面白がっている節さえあった。
「君って、ホントに嫌なやつだな」
エヴァはやれやれと首を振った。ずっと僕らは隠してたんだよ、と青みのある灰色の目を細め、可愛いげのない青年を見上げる。
「海王神にそんな事を知られたら、助けられてしまう。逃がされた彼らは、聖国で死ななければ人質の家族を殺されるんだ。女も赤子も、老人も。だから助ける事は出来ない。最も少ない死者で済ますには、聖国で死ぬ道しかないんだよ」
「海王神は、その事実を知ったんですね!」
ダンッと、エルネスが机にあたる。水の血筋は生まれにくい。大神の嘆きにより、女児は最も貴重な筈だ。
「そうだよ。それを知った上で、聖国に死にに行かせる」
エヴァがクスリと笑う。陰りの深い笑顔は、全てを悟ってしまった底知れなさを秘めていた。始まりの十人。子孫の殺し合いを見なくてはならぬ辛さは、計り知れない。
「前回に一人ね、海まで逃げ切った男が居たんだ。ちゃんと片足が無かったのに、よくやったよね――――死にたく無かったんだろう」
話の先は見えていた。エルネスが悲痛な表情をする。逆にダヴィドは、呆れた顔をした。
「彼の家族は、三親等まで全員バラバラで青海に打ち捨てられた」
海は荒れに荒れ、港の船を藻屑に変えた。帝国でもそのような被害を受けた事がある。二十年程前だったか、あれ以来青海の航海は不可能になったのだ。ダヴィドが思い出していると、その怒りを沈めたのは、とエヴァが続きを語る。
「逃げて保護された男だった」
「死んだのか」
ダヴィドが詰まらなそうに吐き捨てる。
「神は本来、贄なんて望まない。ただ有限の命というものに、代え難いものを感じるのは事実だよ」
部屋に沈黙がおりた。青石の国の内情は最悪だ。そんなところに、これから行くのは得策なのか。
「報告はもう一つ」
エヴァが口を開いた。
「実は…………聖国の火の神人が、面会を求めてる」
もう神人の相手は懲りごりだ。ダヴィドとエルネスは揃って重い溜息を吐いた。エヴァ不在の数日は、確かに休暇だったらしい。




